31. 忍びよる影
瘴気の発生の知らせを受け、フェリクスは観念したように溜め息をつき、神官に指示を出した。
「……瑞花の乙女を隠しの間に連れていき、祈祷させるように」
「かしこまりました」
神官が退室した後、フェリクスは机に思いきり拳を打ちつけた。
積み上げていた本が衝撃でばさばさと床に落ちる。
(ついに、このときが来た……)
瘴気──この国を蝕み、人が生きてはいけない土地へと変えてしまう死の象徴。
国民には、初代教皇のアンセルムが封印し、それから二度と発生していないと信じられているが、真実は異なる。
実際には、封印は永遠のものではなく、五十年ごとに解けてしまい、その度に瘴気が湧いている。
五十年。瑞花の乙女が現れるのと同じ周期。
そう、瑞花の乙女は瘴気を封じるための贄となる存在なのだ。
瘴気を封じるためには、体に花の形の痣が浮かんだ瑞花の乙女が、その身を捧げなければならない。
瑞花の乙女が犠牲となることで、五十年の間、瘴気が封印されるのだ。
この国はずっとそうやって守られてきた。
(アナベルひとりが犠牲にならなければならない理由など、どこにもないのに……)
三年前に大聖堂にやって来て、将来教皇となるための本格的な勉強を始め、当時の教皇だった父親からこの事実を教わったとき、フェリクスはあまりの衝撃に目の前が真っ暗になった。
アナベルが死ななければならないだなんて、そんな馬鹿な話、誰が受け入れられるだろうか。
どうにかしてアナベルを逃せないかと必死で考えたが、そんなフェリクスをさらに絶望に突き落とすかのように父親が言った。
「もうすぐ前回の封印から五十年が経つが、今世の瑞花の乙女は、お前に懐いていたアナベル・コレットで間違いない。次の封印の年になったら大聖堂に呼び寄せるよう手配せねばな」
フェリクスは後悔した。あの日、アナベルの首の痣を父親に見られたせいで、彼女が瑞花の乙女だと気付かれてしまった。もう、彼女の存在を隠すことはできない。
その日から、フェリクスはアナベルを助ける方法──封印のために犠牲にならずにすむ方法を探し始めた。
そもそも、伝記によれば瑞花の乙女を最初に迎えたのはアンセルムだというが、なぜそうしたのかもよく分からない。
瑞花の乙女には、瘴気を封印する贄となる以外に何の力もないのだから。
彼は自力で瘴気を封印できたのだから、瑞花の乙女は必要なかったはずだ。
その経緯が不明だったが、希望に思えることも一つだけあった。
アンセルムが瘴気を封印した方法が分かれば、同じ力を持つ自分にも可能なはず。
そう考え、答えを見つけるために書物という書物を読み漁ったが、瑞花の乙女について詳しく記されているものは一向に見つからず、封印の方法についても「神力をもって封じた」としか書かれておらず、まったく分からなかった。
神力はかなり使いこなせていると自負しているが、これは癒しの力であって、瘴気を封印できるような力だとは思えない。封印の方法が分からないのでは、神力を頼りにする訳にもいかない。
瑞花の乙女の謎と、神力による封印の方法。
アナベルを助けるために必要な答え。
寝る間も惜しんで探し続けているというのに、未だに見つかっていない。まるで意図的に隠されているかのように。
「……俺にはもう、アナベルを助けることができないのだろうか……」
自分の無力さを感じながら、床に落ちた本を拾おうと屈んだ、そのとき。ある文章がフェリクスの目に入った。
もう何度も読んだ覚えのある古語で記された後書き。見慣れた文言のはずが、そのとき、妙に気になった。
「まさか……」
◇◇◇
アナベルが王宮に来てから、あっという間に一週間が経った。
アナベルは今、美しいドレスを身にまとい、豪華な鏡台の前で化粧を施されている。
今夜、王宮で開かれる舞踏会に参加するため、侍女たちが一生懸命に支度をしてくれているのだ。
王宮の舞踏会なんて畏れ多いし、瑞花の乙女に選ばれなかった自分が出ても馬鹿にされるだけなのではと思って最初は断ったのだが、ヴィクトルが絶対にそんなことはさせない、信じてほしいと真剣に言うので了承したのだった。
それに、ヴィクトルからはひとかたならぬ世話になっているのだから、あまり我儘を言うのも気が引ける。
「さあ、アナベル様。支度が整いましたよ」
侍女のカーラに手を引かれ、大きな鏡の前に立たされる。
ドキドキしながら鏡を見てみると、そこには別人が映っているのかと思ってしまうほど、淑やかで可憐な貴族令嬢の姿があった。
「アナベル様、とてもお綺麗です」
「ありがとうございます……。こんなに綺麗にしてもらえて、とても嬉しいです」
「アナベル様本来の愛らしさを引き出しただけですよ。水色のドレスもとてもお似合いです」
今日の舞踏会で着るドレスを選んだときに、カーラが熱心に勧めてくれたドレスだ。
何を着たらいいのか全く分からなかったため、ドレスやアクセサリーは全部彼女に任せることにしたのだった。
「ありがとうございます……。カーラさんにお任せしてよかったです」
「ふふ、ヴィクトル殿下にもきっと喜んでいただけると思いますよ!」
そんな会話をしていると、ちょうどノックの音が響いて、ヴィクトルの明るい声が聞こえてきた。
「アナベル、準備はできた? もう入ってもいいかな?」
「は、はい、大丈夫です」
「ありがとう。着飾ったアナベルは可愛いだろうな──」
そう言いながら楽しげに入ってきたヴィクトルは、目の前にはにかんだ様子で立っているアナベルを見て、言葉を失った。
驚いたように固まったまま微動だにしないヴィクトルを見て、アナベルが心配そうに声をかけると、ヴィクトルは口元を手で押さえて「参ったな……」と呟いた。
手の下の顔は珍しく赤く染まっている。
「あの……もしかして、どこかおかしかったですか……?」
アナベルが恐る恐る尋ねると、ヴィクトルは即座に否定した。
「違うんだ、ごめん。君があまりにも綺麗だったから驚いてしまって」
「えっ……あ、ありがとうございます……」
真っ直ぐな褒め言葉に、アナベルもパッと頬を赤らめた。
お世辞かもしれないが、それでも綺麗だと言われるのは嬉しい。
「……ヴィクトル殿下も素敵ですよ」
さっきはヴィクトルが急に黙ってしまったのに焦ってしまったが、落ち着いてよく見れば、ヴィクトルも華やかに着飾り、いつもはラフな髪型も今日は大人っぽく整えていて、思わずどきりとしてしまうほど凛々しかった。
「……ありがとう」
ヴィクトルが照れたように微笑みながら、アナベルの前に手を差し出した。
「……では、参りましょうか、アナベル姫?」
「は、はい、よろしくお願いいたします」
手袋ごしでも分かる温かなヴィクトルの手を取って、アナベルはゆっくりと舞踏会の会場へと向かっていった。




