30. アナベルのいない大聖堂
ベアトリス・エルランジェは、大聖堂の自室のソファに腰掛け、優雅な仕草でティーカップを口元に運んだ。
瑞花の乙女に正式に選ばれた後、本当は伯爵家に帰りたかったのだが、大聖堂に篭っていなければならないということで屋敷へ戻ることは許されなかった。
大聖堂は広大で豪奢な建物ではあるが、あまり居心地がいい場所ではない。
伯爵家の使用人はたった数人しか連れ込めないし、神官たちは何かと自助を求めてくるし、一番嫌なのが朝が早いことだ。朝はもっとゆっくりと寛いでいたい。
(わたくしがフェリクス様の妻となったら、もっと余裕のある生活をさせていただけるようお願いしなくては)
それにしても、こんなに上手くいくなんて、とベアトリスは思った。
火の神殿がある町では、花の形の痣に見える刺青を彫ってもらった彫り師の男に出くわしてしまい、すべてバラされてしまうのではないかと思って焦ったが、何とか秘密を守ることができた。
痣を偽っていることは家族さえ知らないことなので、誰にも頼ることはできない。
万が一の護身用に、ナイフは血が出て嫌だからと毒針が仕込まれた指輪を選んでいて本当によかった。ナイフだったら、あの粗暴そうな男に奪われて、逆に自分が殺されていたかもしれない。
それに、返り血を浴びなかったおかげで、宿に戻った後も誰にも気づかれなかった。
人を殺めたことが知られたら、いくら相手が平民といえど、罪に問われてしまうおそれがあるし、瑞花の乙女には相応しくないとして立場を奪われてしまうかもしれない。
教皇の妻となるためにも、必ず隠し通さなければならない。
「教皇といえば……」
フェリクスは火の神殿でも水の神殿でもベアトリスの主張を否定せず、それどころか瑞花の乙女として選んでくれた。
アンセルムの再来とまで言われるほどの神力の持ち主だ。火と水の神殿での、神の警告のような出来事の本当の意味にも気づいている可能性がある。
それなのに、偽者である自分を選んだということは……。
そう、結局は彼もベアトリスを手に入れたかったのだ。
「あの娘と幼馴染だというから、万が一のこともあるかもしれないと思ったけれど、あんな貧相な娘にわたくしが負けるはずもなかったわね」
ただ、選定で敗れた途端、図々しく第二王子についていったのは腹立たしい。さすが没落貴族なだけあって浅ましいことだ。
なぜか第二王子はあの娘にご執心なようだが、まったく意味がわからない。
「……まあ、もうわたくしには関係ないし、勝手によろしくやってくれたらいいわ」
王子がアナベルと仲良くなれたのはベアトリスの手助けもあってこそなのだから、何か御礼でもしてもらわなければと思ったこともあったが、ヴィクトルは水の神殿でベアトリスが偽者だと確信しているようなことを言っていた。
下手につついて藪蛇になるようなことは避けたいから、今後は無闇に接触しないほうがいいかもしれない。
とにかく早く教皇の妻となれるよう、フェリクスにねだることにしよう。
きっと彼も早くベアトリスと結ばれたいと思っているはずなのだから。
◇◇◇
フェリクス・レアンドルは大聖堂の居室の窓から、薄曇りの空をぼんやりと眺めていた。
(……嫌な雲だな)
心が重く沈んでいるのは、天気のせいばかりではないだろう。
(アナベルが大聖堂を出て行った……)
今まで、ここに彼女がいると思うだけで、このだだっ広いだけの建物も神聖で尊い場所のように感じられていたが、今となっては以前のように空虚で虚飾にまみれたくだらない場所にしか思えない。
瑞花の乙女にアナベルを選ばなかった自分は正しいことをした。
それは間違いなく信じられる。けれど、彼女を傷つけ泣かせてしまったことだけは、後悔してもしきれない。まさか聞かれているとは思わなかった。
いくら心優しいアナベルでも、きっと軽蔑しただろう。もう二度と会いたくないと思っているかもしれない。そう考えると胸を抉られるように辛いが、彼女のためだと思えば自分の心の痛みなど些細なことでしかない。
本当は、瑞花の乙女として大聖堂に呼んだりせず、ずっと存在を隠していたかった。
けれど、前教皇である父がアナベルが瑞花の乙女であると知って手配を済ませてしまっていたため、召喚せざるを得なかった。
どうしたらアナベルを巻き込まずに済むか悩んだが、ちょうど良いときにベアトリス・エルランジェが現れた。自分にも瑞花の乙女の徴があると堂々と語った女。あれが偽者だということはすぐに分かった。
そもそも、徴である花弁の数が本来の六枚ではなく五枚であるのもおかしかったし、アナベルから感じるような神力に似た不思議なオーラも一切感じなかった。
そんな明らかな偽者など、本当だったら門前払いすべきだったのだろう。国に詐欺を働く重罪犯として、然るべき場所に突き出すべきだったのかもしれない。
でも、そうはしなかった。なぜなら、自分にとってはこの上ない僥倖だったからだ。
この女の茶番に付き合うことで、多少の時間稼ぎができるかもしれない。
二年間、ずっと探しても得られなかった解決策を見つけるための時間が、一日でも、一時間でも長く欲しかった。
自分にとって、国のための正義より、アナベルのほうが間違いなく大切だ。むしろ、アナベルが犠牲にならなければ保てない国など、早々に滅んでいればよかったのにとさえ思う。
瑞花の乙女に選ばれてしまえば、彼女はこの世からいなくなってしまう。
「瑞花」とは繁栄の瑞兆となるめでたい花なのではない。その名の通り、国のために儚く消える雪でしかないのだ。
彼女の命を救えるなら、この先永遠に自分の手に入らなくても、他の男に──あの第二王子に取られてしまっても構わない。彼女が無事でいて幸せに笑っていられるなら、自分の想いなどどうでもいい。
ここで数か月の間、アナベルとともに暮らせただけで幸せだった。
彼女と言葉を交わし、彼女の肌に触れ、抱きしめさえした。その思い出だけで、これからどんなことにも耐えられる。
(アナベル……)
彼女の笑顔を思い出そうと目を閉じれば、眼裏に浮かんだのは水の神殿で最後に見た酷く辛そうな表情だった。
胸にずきりとした痛みを覚えながら、フェリクスが静かに溜め息をつくと、背後で扉をノックする音が響いた。
「──教皇聖下、ご報告がございます」
「入れ」
部屋に入ってきた上級神官は珍しく焦った様子だった。そうして何度かためらった後で、ようやく口を開く。
「……北の国境付近で瘴気の発生が確認されました」




