28. 決断の時
水の神殿──美しく神秘的な景観で知られるミロワール湖の中に建つ水上神殿だ。今回の奉納品は花らしく、色とりどりの花が湖の上に浮かべられて波間に揺蕩っている。
アナベルは今、水の神殿で最後の儀式に臨んでいた。
また、水の神は王家と縁が深いとのことで、今回は王家の代表としてヴィクトルもフェリクスの隣で祈りを捧げた。
次は瑞花の乙女の誓いだ。アナベルが何事もなく誓いを終え、ベアトリスの番がくる。
水盤に張られた神水にベアトリスが手を浸すと、神聖なはずの水がみるみる内にどす黒く濁った。
「し、神水が……!」
「一体どうしたことだ……」
明らかに不吉な出来事を目の当たりにし、異常事態だと騒ぐ神官たち。ベアトリスも無言のまま目を見開いていたが、やがて瞼を伏せ、厳かに告げた。
「……お静かになさいませ。わたくしは、たった今、神からのお告げを授かりました」
ベアトリスの言葉に神官はさらに騒めき、ヴィクトルは偽者が何を言っているのだとでも言うように、訝しげな目を向ける。
混乱した空気の中、ベアトリスは静かに息を吸い込み、よく通る声で語り出した。
「──皆様、おかしいとは思いませんでしたか? 常に一人のみに現れるはずの瑞花の乙女の徴が、今代では二人に現れた。あり得ないことです。……でも、それもそのはず。わたくしのほかに現れたもう一人の瑞花の乙女候補、アナベル・コレットは……徴を偽った偽者だったのです!」
ベアトリスの白く美しい指が、アナベルを真っ直ぐに指さし、神官たちの視線が集まる。
大勢の前で偽者であると糾弾されたアナベルは血の気が引くのを感じ、ふらりと後ずさった。
ヴィクトルが怒りを露わにして叫ぶ。
「何をふざけたことを……! アナベルは先代の教皇が見出した瑞花の乙女と聞いているし、彼女は人を騙すような人間ではない! それに、僕は知っている。偽者なのは、おま──」
「ヴィクトル殿下!」
ベアトリスの罪を暴こうと、さらに声を張り上げたヴィクトルを、フェリクスが珍しく大声で制した。
「は? どうして止めるんだ。まさか教皇殿は、この恥知らずな女を庇おうとでも?」
フェリクスはヴィクトルの問いには答えず、静かに告げた。
「──とうとう、真の瑞花の乙女を決めるときが来たようです」
◇◇◇
儀式後、神殿内の別室では、ヴィクトルがフェリクスに詰め寄っていた。
アナベルが瑞花の乙女に選ばれないほうが、自分にとっては都合がいいはずなのに、偽者だと咎められ傷ついた彼女の姿を見たら、庇わずにはいられなかった。
「お前がアンセルムの再来というのは、大きな間違いだったようだな。偽者一人見極められないなんて、とんだ節穴だ。ベアトリスは瑞花の乙女なんかじゃない。その証拠だってある」
「……たとえそうだとしても、逆に言えば、アナベルが本物の瑞花の乙女だという証拠はあるのですか?」
「は? 片方が明らかに偽者なのだから、先代教皇が見出したアナベル嬢が本物であるに決まっているだろう。それに、彼女ほど心が美しく、瑞花の乙女に相応しい人はいない」
フェリクスが苛立ったような表情でヴィクトルを一瞥する。
「そうかもしれませんが、先代が見誤ったのかもしれません。彼の神力は微弱なものでしたから」
「お前……いや、そうだ、神力だ。神力があるなら、本当の瑞花の乙女はアナベル嬢だと分かるはずだろう。それなのに、どうして認めない!?」
この男はアナベルが大切だったのではなかったのか。
大勢の前で偽者だと罪をなすりつけられ、フェリクスからも庇ってもらえず、彼女はどれほど傷ついただろうか。
あんなに辛そうな彼女を見て、この男は何とも思わないのか。
「……私が選ぶほうが本物です」
耳を疑うフェリクスの言葉に、ヴィクトルは激しい怒りを感じた。
「偽者であると分かっていながら、あの女を選ぶというのか!? お前も所詮は欲にまみれた人間だということか!」
「あなたが何と言おうと、今代の瑞花の乙女はベアトリス嬢だ。……最初から、決まっていたことです。俺はアナベルを選ぶつもりなどなかった」
その瞬間、部屋の扉がギィッと音を立てた。
ヴィクトルとフェリクスが目をやると、そこには真っ青な顔で立ちすくむアナベルの姿があった。
「アナベル嬢……!」
ヴィクトルが駆け寄るが、アナベルは真っ直ぐにフェリクスを見つめる。
「……フェリクス様は、初めから私を瑞花の乙女に選ぶつもりはなかったのですか?」
「……アナベル」
「私、立派な瑞花の乙女になって、フェリクス様のお力になれるようにと、自分なりに頑張ってきました。……でも、フェリクス様は私のことなど必要ではなかったようですね」
「……アナベル、違うんだ」
涙で視界がぼやける。声も震えてうまく喋れない。
「それなら、最初から仰ってくださればよかったのに……! 私、分不相応な夢を見てしまって、馬鹿みたいですね……。いつまでも昔のような関係でいられるはずなかったのに……。今までご迷惑をおかけしてごめんなさい……。私、もう役目もないでしょうし、出ていきますね。お世話に、なりました……」
なんとか最後の言葉を絞り出したあと、アナベルは顔を背けて走り去った。これ以上は耐えられなかった。
「お前は最低だ。アナベル嬢は僕が守るから」
吐き捨てるように言い、ヴィクトルはアナベルを追いかけた。
フェリクスは一人きりになった部屋に立ち尽くしながら、拳を強く握りしめた。
◇◇◇
「待って、アナベル嬢!」
ヴィクトルがアナベルの腕を掴んで引き止めた。
「ヴィクトル殿下……私……」
ヴィクトルの顔を見た途端、アナベルの瞳からぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。あとはもう、堰を切ったように溢れて止まらなかった。
ヴィクトルが泣いて震えるアナベルの華奢な体を抱きしめる。
「君は偽者なんかじゃない……! 君より相応しい人なんていないくらいだ」
アナベルの柔らかな髪を、ヴィクトルはまるで壊れ物に触れるかのように優しく撫でる。
「……ねえ、もうあんな奴のことは忘れなよ。君のことは僕が守ってあげるから。絶対に泣かせたりしないと誓う。……君のことが、好きなんだ」
「殿下……」
「大聖堂なんか早く出て、僕のところへおいで。王宮に君の部屋を用意するよ。あいつらのいる場所に、一秒たりとも君をいさせたくない」
アナベルの頬に触れ、澄んだ紫の瞳からこぼれる宝石のような涙を丁寧に拭う。
「で、でも、殿下にご迷惑をお掛けしてしまいます……」
「そのくらい、何でもないよ。そんなにボロボロな君を放ってなんておけない」
ばらばらになって崩れてしまいそうなアナベルの心を、ヴィクトルの温かな言葉がつなぎとめてくれる。
もう、いいのかもしれない。ヴィクトルは誠実で、信頼できる人だ。何度も自分を助けてくれた。さっきだって、自分を庇ってくれたのはヴィクトルだけだったし、今もこうして傷ついた自分を気遣って慰めてくれている。
(ヴィクトル殿下なら、きっとお言葉どおり、私のことを守ってくれる……)
「アナベル、僕と一緒に来てくれないかな?」
ヴィクトルの懇願するような問いかけに、アナベルはゆっくりと頷いた。
その日、アナベルは大聖堂に帰ることなく、ヴィクトルとともに王宮へと入った。
そして大聖堂からは、瑞花の乙女はベアトリス・エルランジェ伯爵令嬢であると発表された。




