26. 秘密
その頃、ヴィクトルは、お付きの従者から剥ぎとったローブを羽織り、一人の男を尾行していた。
短く刈った短髪で腕に大きな刺青のある人相の悪い男。
先ほど馬車を囲んでいた人だかりの中にいて、こちらを見つめながら嫌な笑いを浮かべていた男だった。
もしそれだけだったら、どうせ町によくいるゴロツキの一人だろうと流していただろうが、ベアトリスがその男を見て顔色を変えたのが気にかかった。
普段目にしないような種類の男だったから恐怖を感じたのかもしれない。そうも思ったが、何か勘のようなものが警鐘を鳴らすのを感じた。
男に気づかれないよう距離を保ちながら後をつけると、男は薄汚れた建物の中に入っていった。ヴィクトルは建物の裏手に回り、窓の外から様子をうかがう。どうやらこの建物で彫り師の仕事をしているようで、部屋の中のあちこちに男の商売道具が乱雑に置かれていた。
すると男が引き出しから何かが書かれた紙を取り出して、にやにやと笑い始めた。
「……やっぱり、あの図案を取っておいてよかったぜ」
(図案……?)
ヴィクトルが紙に書かれたものを見ようと少しだけ頭を出す。
「誰だ!」
男がバッと顔を上げて叫ぶ。
ヴィクトルは一瞬、見つかってしまったかと冷や汗をかいたが、男が反応したのは自分ではなかった。
ヴィクトルがいるのとは反対側の扉がギィと耳障りな音を立てて開き、フードを被った女が現れる。
「へへ……やっぱり来たか、お嬢さん」
男は今しがた眺めていた紙を隠し、にやりと笑って女のほうを向く。
「──まさか、こんな場所であなたに会うなんて……」
女の声が聞こえ、ヴィクトルがハッとする。フードから覗く顔にも完全に見覚えがあった。
(──あれは、ベアトリス嬢……)
つい先ほどまで見聞きしていた顔と声。彫り師を訪ねてきたのは、間違いなく、ベアトリス・エルランジェだった。
(なぜ彼女がこんな場所に……?)
ヴィクトルは息を殺して二人の会話を盗み聞く。
「たしかに王都からずっと離れた場所へ引っ越すよう言ったけど、よりによってこんなところにいただなんて……」
苛立ったように額を押さえるベアトリスに、彫り師の男が馴れ馴れしく話しかける。
「さっきの様子だとバレてねぇみたいだな。さすがオレの実力だ。なぁ、あんたはもっとオレに感謝すべきじゃねぇのか?」
「……何が言いたいの?」
「分かるだろ? もっと援助してくれてもいいはずだってことさ」
「なっ、もう十分すぎるほどの報酬を渡しているでしょう!?」
「そうだけどよ、賭博でだいぶ負けちまって、ほとんどスッカラカンだ」
「自業自得じゃない」
「あと少しくらいいいじゃねぇか。オレがあんたの体に花の形の痣を彫ってやったから、あんたは今、瑞花の乙女候補になれてるんだろ?」
「ちょっと……! 黙りなさい!」
ベアトリスが彫り師の男を睨みつけるが、男は構うことなく続ける。
「あんたがこのまま無事に教皇夫人になれば、富も権力も思いのまま。オレにくれる金なんて、はした金も同然だろ。だからあと少し、頼むよ。な?」
男がぎらぎらした目つきでベアトリスの顔を覗き込むと、ベアトリスは大きな溜め息をついた。
「……分かったわ。ただ、今はお金を持ってきていないから、手持ちの装飾品でもいいかしら?」
「まあ、ちっとばかり面倒だが、それでもいいぜ」
「じゃあ、外すから待ってちょうだい」
ベアトリスがはめていた紅玉のついた指輪を外し、男へと差し出す。
「ははっ、すまねぇな!」
男が手を出し、ベアトリスから指輪を受け取ろうとした瞬間、男が呻き声を上げて膝をついた。
「ぐああっ、何しやがった……」
手首を押さえて悶える男をベアトリスが冷たい目で見下ろす。
「お前の手首に毒針を刺したのよ。じきに全身に毒が回って死ぬわ」
「ふ、ふざけんな……!」
「ふざけてるのはそっちでしょう。このわたくしを強請るだなんて……」
「お、おい、なんとか、しろ……」
だんだんと声に力がなくなり、床へ倒れ込む男を見てベアトリスが鼻で笑う。
「最初からこうしておけばよかったわ。平民が一人死んだところで何も変わらないもの」
「た、たすけて……く……」
「欲をかいて、馬鹿な男ね」
男が動かなくなったのを見届けると、ベアトリスはフードを目深にかぶって部屋を出て行った。
ヴィクトルはベアトリスが引き返してこないのを確かめ、窓から部屋の中に入って、倒れた男の様子をうかがう。
「……まずいな」
赤黒く変色していく男の顔を見て、ヴィクトルが呟いた。
◇◇◇
翌日、アナベルたちは町を出発して火の神殿へと向かった。
火の神殿は、フランメ火山の麓に建てられている。
奉納品は、この神殿で絶えず燃やされている神火の火で打った剣だ。
流れるように儀式は進み、乙女たちが誓いを捧げる順番がくる。
三度目ともなると慣れたもので、アナベルはつつがなく誓いを捧げ終えた。
そして次にベアトリスが祭壇へと近づく。
ところが、ベアトリスが近づいた途端、それまで静かに揺れていた神火が突然ゴオッとうねり、火花を散らしながら大きく燃え上がった。
「これは一体……!?」
神官たちが騒めくが、ベアトリスは動揺することなく、微笑みさえ浮かべている。
「──火の神がわたくしを祝福してくださったのを感じますわ」
まるで自分が瑞花の乙女であるのを認められたと言わんばかりだ。
そんなベアトリスをフェリクスはただ無言で眺め、ヴィクトルは険しい顔で睨んでいた。
◇◇◇
儀式を終えた後、ベアトリスは休憩がしたいと言って、一人別室で休んでいた。
(……あの男がこの町に住んでいたのは想定外だったわね)
目が合ったときはどうしようかと思ったが、何事もなく口封じできて安心した。
本当に、どうして最初からこうしておかなかったのだろうか。毒殺なんて恐ろしいことができるか不安もあったが、案外簡単だった。
平民の分際で貴族の自分を強請ったあの男が悪いのだから、罪悪感もない。
男はあのまま死んで、誰からも悼まれることなく死体が処理され、ベアトリスの秘密は永遠に守られるだろう。
(……火の神殿での騒ぎも焦ったけれど、うまく誤魔化せたわね)
あのときは驚いた。まるで自分が偽者であることが見透かされているかのようだった。
(でも、フェリクス様は何も仰らなかったわ)
初代教皇アンセルムの再来という異名がつくほどの実力らしいが、それも名ばかりということなのだろうか。
(もしかすると、わたくしを手放すのが惜しくて、わざと見逃してくださっているとか……?)
あれだけ色気を振りまいても全く靡く様子がなく、どうしようかと思っていたが、立場上我慢していただけで、内心ではベアトリスが欲しくて堪らないのかもしれない。
(そうよ、教皇の妻の座はわたくしが手に入れてみせる)
瑞花の乙女だなんて、しょせんヴェリテ教のお飾りのような存在に過ぎないのだから、たとえこの徴が偽物だとしても、見目麗しい自分が瑞花の乙女になることに文句を言う人間などいないはずだ。
機嫌を直したベアトリスは、ふっと艶やかな笑みを浮かべて部屋を出て行った。




