24. 隠れていた優しさ
その日の夜。アナベルは一人静かに庭を散歩していた。
昼間、久しぶりに大泣きをして部屋に戻った後、ベッドで横になって赤くなった目を冷やしていたのだが、そのままうっかり眠ってしまったせいで、夜に寝つけなくなってしまったのだ。
眠れないまま部屋にいるよりは、外の風にでも当たろうと思ってこっそり庭へと出てきた。
爽やかな夜風を感じながら、ゆっくりと小道を歩いていると、木陰から誰かの溜め息のような声が聞こえてきたので、アナベルはびくりとしながら顔を向けた。
「……フェリクス様?」
アナベルの視線の先には、木の幹に背中を預け、物憂げな表情で夜空を見上げるフェリクスの姿があった。
「……アナベル?」
アナベルの呼びかけに気付いて振り向いたフェリクスがわずかに目を見開く。
「フェリクス様、こんな時間にどうしたのですか?」
「……ああ、酒を飲んだら思いのほか酔いが回ってしまったから、外の空気を吸いにきたんだ」
「そうでしたか。フェリクス様はお酒を飲まれるのですか?」
「いや、普段は飲まないが、今日は少し飲みたい気分になって……」
フェリクスが額に手を当てながら答える。心なしか瞳も潤んでいるように見えるし、酒にはあまり強くないのかもしれない。
それにしても、酒を飲みたい気分だなんて仕事で何かあったのだろうか、とアナベルが心配に思っていると、フェリクスがアナベルのほうへとやって来た。
「アナベルこそ、こんな時間になぜ外へ……? まさかヴィクトル殿下に会いに……?」
フェリクスに不安そうな表情でそんなことを尋ねられ、アナベルは驚いて勢いよく両手と首を左右に振った。
「そ、そんなんじゃありません……! なかなか寝つけなかったので気分転換に散歩しに来たんです」
「そうか……」
フェリクスがほっとしたように呟く。そして、しばらく無言が続いたあと、フェリクスが意を決したようにアナベルの名前を呼んだ。
「……アナベル。ヴィクトル殿下から試験のことを聞いた。本当にすまなかった」
フェリクスが潤んだ瞳で切なげに見つめてくるので、アナベルはどぎまぎしてしまった。
辺りが暗いおかげで顔が赤くなっているのが知られなくてよかったと思いつつ、俯きながら返事をする。
「あ、いえ、フェリクス様が謝られるようなことではないので、気になさらないでください」
……と正直な気持ちを伝えるも、フェリクスはだいぶ責任を感じているようで、相変わらず悲痛な表情のままだった。
「いや、あの教師を選んだ俺に責任がある。……君がいろいろ勉強をしたいだろうと思って評判のよかった教師を選んだのに、とんだ誤りだった」
フェリクスが悔しげに眉を寄せる。
そもそも、ベアトリスと二人一緒の授業にしたのも、教師のマルロー夫人が「そのほうがアナベルの学習の伸びも早い」と言うから従ったのだ。しかし、今思えばベアトリスと近づきになりたいだけだったのかもしれない。
アナベルのためにと思ってしたことが盛大な裏目となってしまい、フェリクスは落ち込まずにはいられなかった。
その上、窮地のアナベルを救ったのが自分ではなくヴィクトルだったという事実が、さらに悔しさを膨らませる。
彼がアナベルを特別視している様子なのも気に入らなかったし、そんな荒れた感情のまま、気がつけば飲み慣れない酒を口にしていた。
「……すぐに新しい教師を雇うから、少しだけ待ってくれるか? 今度はベアトリス嬢とは別々に授業を受けられるようにしよう」
先ほどからのフェリクスの言葉に、アナベルは驚きで固まっていた。
(あの授業は、私が勉強できるようにフェリクス様が配慮してくださったものだったのね……)
フェリクスの話しぶりからすると、きっとそういうことなのだろう。アナベルの実家が貧しく、まともな勉強ができなかったことを分かっていたから、大聖堂で授業を受けられるようにしてくれたのかもしれない。
(フェリクス様が、私のために……)
そう考えるだけで、嬉しさでいっぱいになる。
彼の優しさに触れ、アナベルは萎んでいた心にやる気が満ちていくのを感じた。
「……フェリクス様、本当にありがとうございます。私、頑張って勉強しますね」
笑顔でお礼を伝えると、フェリクスの長くて美しい指がアナベルの髪を優しく撫でた。そうして、まるで大切な宝物を扱うかのように、そっと掬い取る。
「無理はしないでほしい。アナベルが楽しんで学べるなら、それでいいんだ」
酒のせいか、いつもより近い距離、そしていつもとはどこか違う雰囲気に、アナベルの心臓が跳ねる。
「あ、ありがとうございます……。でも私、最近は勉強するのが楽しくて仕方ないくらいなんです。瑞花の乙女として恥ずかしくない女性になりたいんです。ですから……もっともっと頑張りますね」
アナベルが頬を赤らめながらそう宣言すると、フェリクスは「……そうか」と一言呟き、なぜか悲しそうな笑みを浮かべた。
「……ああ、だいぶ話し込んでしまったな。ほら、もう部屋に戻って休んだほうがいい」
「そ、そうですね。そろそろ戻ります」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
フェリクスのどこか憂いを含んだ眼差しに見送られながらアナベルは部屋へと戻ったが、今度は顔の熱と胸の高鳴りのせいで、なかなか寝つくことができなかった。




