23. やめてくれるかな
「……もう落ち着いちゃった?」
昂っていた感情が次第に落ち着き、ようやく涙も引いた頃、頭上からヴィクトルの柔らかな声が降ってきて、アナベルは我に返った。
「あの、もう大丈夫です……! お恥ずかしい姿をお見せしてしまって、すみません……」
慌ててヴィクトルの腕の中から抜け出すと、ヴィクトルは「もっと泣いててもよかったのに」などと冗談めかしつつ、アナベルの涙の跡を指で優しく拭った。
「今日はもう部屋で休んでいるといいよ。君の上司の教皇殿には僕が言っておくから」
「いえ、でも……」
「いいから。……それに、泣いたせいで目が真っ赤になってる。早く冷やしたほうがいいよ」
ヴィクトルが自分の目を指差しながら言う。アナベルは、はっとして目元に手をやった。
赤く腫れた目で神殿内をウロウロするのはみっともないし、何があったのかと心配されてしまいそうだ。
それに、涙でぐしゃぐしゃになった顔をもしフェリクスに見られてしまったら恥ずかしい。
「で、では、お言葉に甘えて失礼させていただきますね……」
「うん、ゆっくり休んでね」
アナベルはヴィクトルに何度も頭を下げてお礼を伝えながら、その場を後にした。
「……さて、それじゃ、あいつのところにでも行くかな」
アナベルの姿が見えなくなると、ヴィクトルはくしゃりと髪をかき上げて、目的の人物の部屋へと向かった。
◇◇◇
「やあ、お楽しみのところ邪魔してすまないね」
半開きの扉を躊躇なく開けた後、申し訳程度のノックをしながら、ヴィクトルは目の前の男女二人に声を掛けた。
「あら、ヴィクトル殿下ではありませんか。申し訳ございませんが、わたくしが先約ですので後にしていただくことは──」
「フェリクスとの時間」を過ごしていたベアトリスが、ティーカップを優雅にソーサーへと戻しながら返事をすると、フェリクスが途中でそれを遮った。
「きっと急ぎの御用なのでしょう。ベアトリス嬢、今日はもう下がってもらえるだろうか」
「でも、まだお茶を飲みながら少しお話をしただけですわ。もっと一緒に……」
「一時間も共に過ごせば十分だろう。私も忙しい」
フェリクスが嘆息しながら言うと、ベアトリスはしぶしぶソファから立ち上がり、辞去の挨拶をして部屋を出て行った。
「……割り込んできてくださって感謝いたします」
フェリクスがヴィクトルにソファを勧めるが、ヴィクトルはそれを無視して立ったまま話を続けた。
「別に君のために来たんじゃない。……アナベルのことで話がある」
「アナベルの?」
「そう。彼女の勉強のこと」
「ああ、今日は試験の結果が返されたらしいですね。先ほどベアトリス嬢から聞かされました。彼女からアナベルの話が出なかったということは、良い成績だったのでしょうね」
フェリクスが満足そうに口もとを緩めたが、ヴィクトルは険しい顔つきで返答する。
「ああ、素晴らしい出来だったよ。教師から不正だと濡れ衣を着せられて叱責されるくらいに」
「……は? 濡れ衣? 叱責?」
怪訝そうに眉を寄せるフェリクスに、ヴィクトルは事の顛末を説明した。
フェリクスは一言も言葉を発することなく、無表情でヴィクトルを見つめる。ただ、両手は固く握りしめられ、わずかに震えていた。
ヴィクトルが話し終えると、フェリクスはしばらくの間、無言のままだったが、やがて静かに目を伏せた。
「──アナベルを助けていただいて感謝いたします」
フェリクスが後悔の滲む声でそう返事をすると、ヴィクトルは不快そうに目を細めた。
「その、アナベルは自分のものみたいな言い方、やめてくれるかな。君にそんな権利ないだろう?」
ヴィクトルから睨まれたフェリクスは、けれど反論することはなく、自嘲するように小さく息を漏らした。
「……そうですね。私にはそんな権利なんてない──……教師のほうは即刻解雇して、至急後任を探します」
「そうしてもらえるかな。またおかしな教師を雇ったら許さないから」
冷たい目を向けるヴィクトルに、フェリクスは何か問いたそうに口を開きかけたが、結局何も言うことはなかった。
「じゃあ、話はそれだけだから」
くるりと背を向けて部屋を出ていくヴィクトルを見送ると、フェリクスは握っていた拳を荒々しく壁に叩きつけた。
ダンッ! と大きな音が響く。
「アナベル、すまない……」
先ほどの物音とは対照的な弱々しい呟き声が、静まり返った部屋の空気に溶けて消えた。




