22. 僕の前では
ノックの音がしたほうを向くと、そこにはうっすらと微笑みながらこちらを見つめるヴィクトルの姿があった。いつの間にか部屋の中に入ってきていたようだ。
「マルロー夫人、あなたは僕のことをそんな風に思っていたんだね。悲しいな」
「ヴィ、ヴィクトル殿下……! いつからそちらに……」
「割と最初のほうから聞いていたよ? 僕は放蕩王子だから、いつもフラフラ出歩いているんだ」
笑顔で皮肉を言われ、マルロー夫人は冷や汗を浮かべながら弁明を始めた。
「あの、それは、違うのです……! 言葉の綾と申しますか……その、噂の話をしただけでして……。怒りのあまり不適切なことを口走ってしまったようで……」
「ふうん? アナベル嬢が試験で不正をしたって怒ってたんだっけ?」
「そ、そうなのです! アナベル嬢が試験で不正を働いたうえに、言い訳にヴィクトル殿下のお名前まで出すものですから、あまりの悪びれなさに呆れて、厳しく叱責しようとしていたところなのです」
マルロー夫人がいかにも正義に燃える教師といった風情で話をまとめようとしたが、ヴィクトルは納得しなかった。
「夫人、あなたはアナベル嬢の実力を見誤っている」
「はい……?」
「アナベル嬢、王国暦135年、208年、314年の出来事は?」
「ええと……135年はカミーユ王の治世で辺境貴族による内乱を鎮圧した年、208年はアドルフ王の治世で隣国との和平条約が締結された年、314年はドミニク王の治世で新たにミストラル公爵家が誕生した年です」
「は……?」
ヴィクトルの問いにすらすらと答えるアナベルを、マルロー夫人が信じられないといった表情で見つめる。
「では、古語で《ガズ・ブーレ・リング・フェル・ティリ》はどういう意味?」
「たしか……《神の祝福が豊穣をもたらす》という意味だったかと……」
その後もアナベルは、ヴィクトルから出される王国内の各領の特色や名産品などの質問に間違えることなく答え、マルロー夫人は言葉を失ったまま、その場に呆然と立ち尽くした。
「夫人、これで分かったかな? アナベル嬢は不正なんてしていない。自分の実力で結果を出したんだ」
「で、ですが、今まで授業ではこんなこと……」
マルロー夫人が目の前の事実を認めたくないとばかりに首を振る。
「それは夫人の力量の無さじゃないのかな。夫人はアナベル嬢にきちんと向き合って教えていた? ベアトリス嬢ばかり構っていたのでは? 教え方は適切だった? ベアトリス嬢と比較ばかりしてやる気を削いではいなかった?」
ヴィクトルから畳みかけるように問い詰められ、マルロー夫人は真っ青な顔で俯いた。
「もう一度言う。アナベル嬢は不正などしていない。あなたは一方的に決めつけて侮辱したことを謝罪するべきだ」
普段は飄々とした雰囲気のヴィクトルが、鋭い口調でマルロー夫人の罪を咎める。その姿には、王族らしい堂々とした風格が感じられた。
「ア、アナベル嬢……誤解で失礼な真似をしてしまい、大変申し訳ございませんでした……」
マルロー夫人が頭を下げ、小さな声で謝罪する。
「……謝罪を受け入れます。ですが、マルロー先生、ヴィクトル殿下にもきちんと謝罪をしていただけますか。そちらのほうが酷い誤解です」
アナベルが静かにそう答えると、マルロー夫人はさらに頭を低くして謝罪を述べた。
「……ヴィクトル殿下にも大変な不敬を働き、申し訳ございませんでした。どうかご容赦くださいますようお願い申し上げます……」
震えながら謝罪するマルロー夫人を、ヴィクトルが冷めた目で見つめる。
「不敬については許そう。だが、夫人の偏見に満ちた行為は教師としてあるまじきものだ。この件は僕から教皇殿に報告させてもらう。何らかの処分が下されることを覚悟しておくように」
そう言い捨て、ヴィクトルはアナベルの手を取って部屋を出た。小さく震えるアナベルの手をしっかりと握りながら、人目につかない柱の陰へと連れていく。
「……せっかく頑張ったのに、嫌な思いをしてしまったね。すぐに助けてあげられなくてごめん。僕が割って入るとややこしくなるかと思って、ためらってしまった」
申し訳なさそうな表情で詫びるヴィクトルに、アナベルは慌てて首を振った。
「いえ、そんな、殿下に謝っていただくことなんてありません。むしろ、助けてくださってありがとうございました」
実際、ヴィクトルが詫びることなど何一つなく、彼の機転のおかげで不正の疑いを払拭することができた。巻き込んでしまったことは申し訳なかったが、窮地を救ってくれたヴィクトルにアナベルは心から感謝した。
「君から試験結果を聞こうと待っていたんだけど、ベアトリス嬢だけ戻ってきて、君がなかなかやって来ないから、何かあったのかと思って様子を見に来たんだ。そうしたら酷い言葉が聞こえてきたから……」
「そうだったんですか。やっぱりヴィクトル殿下はお優しいですね。……あ、おかげさまで《優》の成績を取ることができたんです。ありがとうございます」
アナベルが小さく微笑んで見せると、ヴィクトルは悲しそうに眉を下げた。
「……無理して笑わなくていい。疑われて悲しかったんだろう?」
ふいにそんなことを言われ、アナベルは言葉を失ったまま、ヴィクトルの碧い瞳を見つめた。
「僕の前では強がらないでよ。泣いたっていい。誰にも見られないよう、僕が隠してあげるから」
ヴィクトルの言葉がなぜか心にすっと入り込んできて、気がつけばアナベルの瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。
「す、すみません……」
「謝らないで」
焦って涙を拭こうとするアナベルの腕を、ヴィクトルがぐいと引いて抱きよせる。
「たくさん泣いて、理不尽な言葉は記憶から洗い流してしまえばいい。……こうすれば、君が泣いているのは誰にも見えないから」
「……はい」
「君がすごく努力していたのは、僕が一番よく知ってるよ。よく頑張ったね」
「……はい」
涙声で返事をすると、大きな手がアナベルの頭をゆっくりと撫でてくれるのを感じた。
(温かい……)
アナベルを労るように、何度も何度も優しく撫でてくれるその感触に、アナベルは胸の痛みが癒やされていくのを感じた。




