19. 過ぎ去りし日の夢
「フェリクス様、失礼いたします」
アナベルが本を抱えながら部屋に入ると、フェリクスは艶のある重厚な執務机の上に頬杖をつき、分厚い本を開きながらうたた寝をしていた。
(寝不足だったのかしら……。こんなに山積みの本に囲まれて、きっととてもお忙しいのね)
アナベルは持ってきた本をローテーブルの上に置いた後、なんとなくその場を離れがたいような気がして、フェリクスの寝顔を見つめた。
目を閉じたまま微動だにしない姿は、まるで神々を模した彫刻のような神聖な雰囲気をまとっていて、思わず息をひそめて見入ってしまうような美しさがあった。
(フェリクス様……。こんなに凛々しく立派になられて、仲良く遊んでいた頃が嘘のようね)
懐かしいような、切ないような気持ちが胸を包み、アナベルは寂しそうな笑みを浮かべて、小さく嘆息した。
◇◇◇
「フェリクス、また同じところで間違えているぞ。何度も言わせるんじゃない。私の息子がそんなことでは困るだろう!」
「申し訳ありません、父上」
まだ十歳にも満たない幼い少年は、その月のような金色の瞳に虚ろな影を宿しながら、父親からの厳しい叱責に謝罪の言葉を述べた。
王都の大聖堂で国教であるヴェリテ教の最高位・教皇を務める父親は、普段は大聖堂で暮らしているが、たまに屋敷に帰ってくると、こうしてフェリクスの勉強を見ては学習が不十分だと叱りつけるのだった。
フェリクスは他の同年代の子供たちと比べたら遥かに優秀で、神童と言ってもいいほどだった。しかし父親はフェリクスに完璧な息子であることを求めた。
「今日は昼食は抜きだ。この第五十七節の書き写しを百回済ませるんだ」
「はい、分かりました」
父親からの指示をフェリクスは淡々と受け入れる。少しでも反抗すれば、書き写しを二百回にされるか、夕食まで抜きにされるかのどちらかしかないと知っているからだ。
虫の居所が悪い場合は、さらに教鞭で背中を打たれる可能性もあるため、やはり素直に従っておくのが最善だ。神力で傷は治せるが、叩かれるときの痛みを感じなくなるわけではない。
いつからか、こうして自分の感情に蓋をして上手くやり過ごすことが当たり前になっていた。
「書き終えたら見せに来なさい」
そう言い残して父親は部屋を出て行った。
フェリクスは椅子に座り、父親から言われたとおりに聖書の第五十七節を書き写し始める。
だんだんと手が痺れてくるが、そんなことには構っていられない。これを書き終えれば休憩ができる。痺れを無視してひたすらに同じ文章を書き連ねた。
そうして五時間かけて書き写しを終わらせ、父親から「よし」の一言をもらうと、フェリクスは自室に戻ることなく足早に玄関へと向かった。
「フェリクス様、お出かけですか?」
慌てて尋ねてくる使用人に、フェリクスは書き写した用紙の束を無造作に手渡す。
「庭を散歩するだけだから、ついてこなくていい。それより、このゴミを処分しておいてくれるか」
「かしこまりました」
五時間かけて生み出した無用の紙屑を使用人に託し、フェリクスは屋敷を出た。
ひと気のない裏庭に回り、誰も知らない抜け道を通って塀の外へと出ると、なだらかな丘を駆け下りた。
いつもの場所へ行けば、彼女に会えるはず。
一度も立ち止まることなく走り続け、小さな清流の流れる場所に辿り着くと、そこには案の定、小川で野草を洗うアナベルの姿があった。
雑草を踏みしめる音で気がついたのか、アナベルがフェリクスを仰ぎ見て笑顔を浮かべる。
「フェリクスさま!」
アナベルの屈託のない笑顔を目にした途端、フェリクスは冷たく凍っていた心が瞬く間に溶けていくのを感じた。
「……アナベル」
彼女の名前を呼ぶだけで、自然と口元が緩む。
「今日のおべんきょうは、おわったんですか?」
「……帰ったらまた勉強しないといけないけど、今は休憩時間だ」
そう告げると、アナベルは目を輝かせながら飛び跳ねて喜んだ。
「やったぁ! そしたら、いっしょにあそびましょう?」
「いいよ、遊ぼうか」
フェリクスがアナベルの頭を撫でると、アナベルは嬉しそうに微笑んでフェリクスの手を握った。
「フェリクスさま、今日はちゃんとおひるごはん食べたんですか? この間みたいに食べないで来てませんか?」
「……ちゃんと食べてきたよ」
「うそ。今、おなかのなる音が聞こえました」
アナベルがぷうと頬を膨らませる。
「ごめん、でもそんなにお腹は空いていないから大丈夫だ」
妹分の愛らしい姿に思わず噴き出しながらそう言うと、アナベルは納得していないようで、ふるふると首を横に振った。
「だめです。わたし、おいしい果物がなってるばしょを知ってるので、いっしょに行きましょう」
アナベルがフェリクスの手を引いて森の方へと案内する。連れて行かれた先には、鮮やかな赤色の果実が鈴なりに生ったルピアの木があった。
「これ、わたしが見つけたんです。みんなにはないしょですよ?」
「分かった」
フェリクスがうなずいて見せると、アナベルはルピアの木に近づき、くりくりとした大きな目をさらにまん丸にして、じっくりと眺めはじめた。
「……これと、これがいちばん熟してておいしそうです」
アナベルは慣れた手つきで二つの実をもぎ取ると、得意げな顔でフェリクスに手渡した。
「はい、どうぞ! 甘くておいしいですよ」
手のひらほどの大きさがあるルピアの実に、かぷりと皮ごとかじりつくと、甘く爽やかな香りの果汁が口いっぱいに広がった。
「……甘い」
「ふふ、おいしいでしょう?」
空腹を思い出したかのように、ぱくぱくと食べ続けるフェリクスのために、アナベルが新しい実をもいできては手渡す。
「アナベル、ありがとう。とても美味しかったよ」
わずかながら腹が満たされたフェリクスは、最後の一口を食べ終わるとアナベルに感謝を伝えた。
「お礼をしないといけないな。アナベルは何が欲しい? お菓子がいいか?」
こうしてアナベルと会っていることは家族に秘密にしているので、大した礼はできないだろうが、家から高級菓子を掠めとってくるくらいのことはできるだろうと思い、そんなことを尋ねた。
しかし、アナベルは愛らしい瞳をぱちぱちと瞬かせながら、不思議そうな表情を浮かべた。
「お礼なんていりません。わたしが見つけた実を、フェリクスさまにおいしいって言ってもらえて、うれしかったです。こちらこそ、ありがとうございます」
見返りなんて全く求めていないと分かるアナベルの態度と言葉に、フェリクスは思わず言葉を失った。
家門と自身の名誉のために常に完璧を求める父親に、そんな父親の言いなりになるばかりで、実の息子の気持ちなど少しも慮る様子のない母親。
屋敷の主人に従うのは当然ではあるが、自分が虐げられていても下手に関わるべきではないとばかりに遠巻きに眺めるだけの使用人。
そんな心無い人間たちに囲まれていつの間にか擦り減っていた心が、アナベルの純真さに癒されていくような心地がした。
「──どうして……」
どうして君は、そんなに心が美しいのだろうか。
どうして俺は、こんなにも泣きたい気持ちになっているのだろうか。
「アナベル……。俺、もっと大きくなったらアナベルを守れるよう頑張るから」
真剣な眼差しを向けて告げるフェリクスを、アナベルはぽかんとした顔で見つめた後、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「うれしいです。わたしも、フェリクスさまのこと、たくさん助けられるようにがんばりますね」




