17. これは彼女のためではない
数日後。アナベルの勉強を見る約束の時間にはまだだいぶ早い頃、ヴィクトルは図書室の書架の前に佇みながら一人黙々と書物を読んでいた。
表紙には鈍い金色の文字で『神聖文字とフェネオン古語』と書かれている。今から数百年前、初代教皇アンセルムが生きていた頃に使われていた神聖文字や、古フェネオン語についてまとめられた本だ。
こんな本、別に読む必要もないんだけど……と思いつつ、ヴィクトルは昨日の勉強の最後にアナベルと交わした会話を思い出す。
『ところで、ヴィクトル殿下は古語はお得意ですか?』
ノートとペンを片付けていたアナベルが、ふと顔を上げてヴィクトルに尋ねた。
『得意というか……まあ、普通に読めるけど、どうして?』
本当はそんなに得意ではないし、すらすらとも読めなかったが、なんとなく格好をつけたくて、そんな風に答えてしまった。すると、アナベルは困ったように眉を寄せた。
『古語も試験に出るので勉強しているのですが、出題される古語の詩を理解するのが難しくて……。少し殿下にお伺いしてもいいですか?』
『……何ていう詩?』
墓穴を掘るおそれもあったが、困っているアナベルを放っておくのもためらわれて、ヴィクトルはつい話を聞いてしまった。
『「神々への讃歌」という詩集の、水の神を讃える詩なのですが……』
水の神を讃える詩と聞いて、ヴィクトルは安堵した。水の神は王家との繋がりが深いから、その詩も幼い頃に覚えさせられて暗記だけはできている。意味はうろ覚えだったが。
『ああ、あの「柔く強き水よ」っていうやつかな?』
『あ、それです! すぐお分かりになるなんて、さすがですね』
ぱっと顔を綻ばせたアナベルに、ヴィクトルはなぜか一瞬心臓が跳ねるのを感じた。
『……まあね。それで、どこが分からないの?』
『中盤の恵みと試練についての表現が難解で、よく分からないんです……』
『ああ、あれね。たしかに理解しづらいよね……』
ヴィクトルがそう言うと、アナベルは少しほっとしたようだった。
『やっぱりそうなんですね。申し訳ありませんが、古語についても教えていただけませんか?』
『えーと、もちろんいいけど、今日はもう時間だから明日でいいかな?』
暗唱は完璧だが意味については自信がないため、とりあえず調べるための時間を稼がなくては。幸い、アナベルは疑うことなく了承してくれた。
『はい、大丈夫です。いつも教えていただいてばかりですみません』
『まあ、それが僕の役目だから。アナベル嬢はよく頑張ってるよ』
いつも恐縮してばかりのアナベルの気持ちを和ませようとそんなことを言えば、アナベルはふわりと花のような微笑みを浮かべた。
『殿下が親身に教えてくださるおかげです。授業だと、どうしてもベアトリス様と比較されてしまってお叱りを受けてばかりなのですが、殿下はそうはなさらないので。私にもできると信じてくださるから、私もそれに応えたいと思ってるんです。まだまだ未熟ですが、頑張りますね』
そう言って真っ直ぐな目を向けてくるアナベルを、ヴィクトルはしばらく言葉を失ったまま見つめ返した。
「……ありがとう」
やっと出てきた言葉は、なぜか感謝を伝える言葉だった。
古語の説明が書かれたページに目を落としていたヴィクトルは、小さく溜め息をついて顔を上げた。
アナベルのことを考えると、なぜか他のことが頭に入らなくなる。今だって古語の解説を読んでも目が滑るばかりで何も覚えられない。
そもそも、どうしてこんな調べものをしてまでアナベルの勉強を見ようとしているのだろうか。
初めは、フェリクスが大事にしているアナベルを奪うために、彼女と仲良くなろうと思って始めたことだった。
たしかに、初めてのことや苦手なことにも一生懸命に取り組む姿には好感が持てたし、一緒にいて居心地も悪くないし、笑顔はなかなか愛らしいとは思ったけれど、それだけだ。
特別気に入っている訳ではないし、そもそもこういう純粋な性格はタイプではない。
今まで恋人にしていたのは、もっと恋愛に慣れていて、後腐れなく付き合えるような令嬢ばかりだったし、そういう娘たちと気ままに遊ぶのが楽しかった。
付き合うのが面倒になってきたらお別れして、次の相手を探す。そんなことを何度も繰り返してきた。
令嬢たちも、自分のことは王家の放蕩息子と分かっているから、単に顔がよくて遊び好きで金持ちの男としか見ておらず、付き合うのも一時のお遊びと割り切っていて、お互いにさっぱりとしたものだった。
つまり、何が言いたいのかというと、アナベルは決して自分の好みではなくて、こうして労力を割いてまで助けようとしているのは、フェリクスへの嫌がらせを成功させたい一心からだということだ。
決してアナベルのために何かしてあげたいだとか、信頼を裏切りたくないだとかの理由で、こんな面倒なことをしている訳ではない。
そう結論づけて、再び古語の本を読もうとしたとき、ふとアナベルの声が聞こえた気がした。
彼女のことを考えていたせいで幻聴でも聞こえたのだろうかと思ったが、一応図書室の入り口を確認してみると、本当にアナベルが来ていた。
「まずい……」
ヴィクトルは咄嗟に死角となる位置に身を隠した。別に姿を見られたからといって何もまずいことはないのだが、古語の本を読んでいるところをアナベルには見られたくないと思った。
「頼まれていた本はこの四冊ですな。持てますか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
アナベルは司書から分厚い本を四冊受け取ると、落とさないように抱えて図書室を出ていった。どうやら頼んでいた本を受け取りに来ただけだったらしい。
ヴィクトルはアナベルと鉢合わせにならなかったことに安堵しつつも、少しだけ残念なような気持ちになった。どうせあと数時間後にここで一緒に勉強をする予定だというのに。
だめだ、アナベルのことに気が向くと途端におかしくなってしまう。とりあえず、今は古語の勉強のためにも彼女のことは頭から追い払わねば。
二、三度頭を振って、手に持っていた本を開こうとすると、今度は自分の名前を呼ぶ艶っぽい声が聞こえた。
「ヴィクトル殿下」
ヴィクトルは溜め息をついて声の主の方を振り返った。
「……なんだい、ベアトリス嬢?」




