16. 近づく距離
それから一週間ほど、アナベルは毎日ヴィクトルとダンスの練習に励んだ。
ステップを習得した後は、姿勢や手の位置を教えてもらい、アナベルが一人で踊る様子を見てヴィクトルが指摘をし、最後に二人で踊るという流れになっていた。
初めはあまりにも近すぎる距離に緊張していたアナベルだったが、毎日指導してもらううちに段々と慣れ、だいぶリラックスして踊れるようになったし、ヴィクトルとも少し打ち解けてきた。
「うん、だいぶ上達してきたね。僕の足を一回しか踏まなかった」
「い、いつもすみません……。お怪我はないですか……?」
「あはは、冗談だから気にしないでよ。それに、毎回言ってるけど、君に踏まれたところで大して痛くもないから」
ヴィクトルは何でもなさそうに言うが、王子の足を踏むだなんて、よくよく考えるととんでもないことだ。それなのに不機嫌な様子も見せずに許してくれるヴィクトルに、アナベルは本当に感謝した。
「あ、そういえばヴィクトル殿下……」
「ん? なに?」
「実は来週、授業で習っている科目の試験がありまして……。私はたくさん勉強しないと及第点を取るのも厳しそうなので、しばらく自由時間は勉強にあてたいと思います。ですので、その間はダンスの練習を休ませていただいてもよろしいでしょうか」
これまで一週間も自分のダンスの練習に時間を使ってもらい申し訳なく感じていたアナベルは、試験勉強中にヴィクトルを解放できればと思っていたのだが、ヴィクトルの返事は予想外のものだった。
「わかった。じゃあ、試験まで僕が君の勉強を見てあげるよ」
「え……?」
アナベルがぱちぱちと目を瞬かせると、ヴィクトルはわずかに眉を寄せた。
「心配しなくても、君に教えられるくらいの知識はあるつもりだよ」
「あっ、いえ、そういうつもりではなくて……私の勉強のために殿下のお時間を使わせてしまうのが申し訳ないと思ったんです」
ヴィクトルの知識を疑ったわけではないのだと、きちんと本心を伝えると、ヴィクトルは機嫌を直したようだった。
「アナベル嬢が瑞花の乙女候補として成長する手伝いができるなら光栄だよ。気にせず僕を頼ってほしいな」
「す、すみません。ではよろしければお願いします……」
またも自分のことにヴィクトルを付き合わせてしまうのは心苦しかったが、こんな風に親切に言ってくれるのを突っぱねるのも失礼かと思い、結局アナベルはヴィクトルに勉強を見てもらうことにした。
◇◇◇
「アナベル嬢は何の勉強が一番苦手なのかな?」
「そうですね……やっぱり地理でしょうか。自分の国のことなのに、なかなか覚えづらくて」
図書室の奥にあるテーブルに並んで腰掛け、ヴィクトルが尋ねると、アナベルは溜め息を吐きながら答えた。
「まあ、自分に直接関係のないことって、なかなか覚えられないよね」
「そうなんです……! 故郷の領のことなら詳しく分かるのですが、他領のこととなるとこんがらがってしまって……」
勉強の苦労を共感してもらえたことが嬉しくて、アナベルはつい前のめりで返事をしてしまった。
ヴィクトルはそんなアナベルの勢いに若干押されつつも愉快そうに見つめると、ところで、と切り出した。
「アナベル嬢は、この図書室の司書のおじいさんはルクセン領出身って知ってた?」
「そうなんですか? 知らなかったです……」
「ルクセン領の場所は知ってる?」
「あ、はい、確か北のほうだったような」
「そうだね。ほらここ。猫の頭みたいな形の領」
「あ、言われてみると、本当に猫の頭の形みたいです……!」
味気ない地図に急に愛らしい猫の顔が見えてきて、アナベルは顔を綻ばせた。
「この猫の右耳のあたりには金鉱石の鉱山があってね。国内一の産出量なんだよ。ほら、あの司書のおじいさんの眼鏡も金縁だっただろう? きっと故郷で作ったものだと思うな。あとルクセン出身者は忍耐強い人が多いと言うけど、昔から冬の厳しい寒さに耐えてきたことで身についた気質なのかもしれないね」
ヴィクトルが地図を広げながら語る説明を、アナベルは目を丸くしながら聞き入った。
「そういえば、金鉱山が有名とか、豪雪地帯だとか習った覚えがあります……!」
授業でマルロー夫人から習いながらも、さらりと流れるような解説のせいか、どうしても頭に定着してくれなかった情報が、ヴィクトルの話を聞くとすんなり記憶に残るような気がした。
「あ、ではネザーラ領について伺ってもいいですか? 洗濯場のロナさんがネザーラ出身だと仰ってて……」
「ああ、ネザーラはここだね──」
それから、アナベルが質問してはヴィクトルが解説するという流れで勉強が進み、自由時間が終わる頃には、アナベルは地理への苦手意識がだいぶ薄れているのを感じた。
「殿下、今日は勉強を見ていただいて本当にありがとうございました」
「僕のこと、少しは見直した?」
悪戯っぽく笑って見せたヴィクトルに、アナベルが柔らかく微笑んだ。
「見直すだなんて滅相もないです。ヴィクトル殿下の知識は本当に素晴らしいと思います。それに教え方もお上手なので、するする頭に入ってきて、勉強するのがとても楽しかったです。ありがとうございました」
アナベルがきらきらと目を輝かせながら感謝を伝えると、ヴィクトルはわずかに目を見開いた。
「……それなら、よかった。明日は何を勉強するつもりなの?」
「明日は歴史の勉強をしようかと思っていますが」
「明日も付き合うよ。またここで一緒に勉強しよう」
「……ありがとうございます。でもお忙しかったら──」
「忙しくなんてないよ。じゃあ、また明日図書室でね」
「は、はい。本当にいつもありがとうございます」
アナベルがしっかりと向き直ってお礼を言うと、ヴィクトルはふっと目を逸らして立ち上がった。
「……気にしないで。じゃあ、もう時間だし、僕は行くよ」
ヴィクトルはそう言って片手を上げると、カツカツと靴音を鳴らして去っていった。
「ヴィクトル殿下って、本当に親切な方なのね」
遠ざかっていくヴィクトルの背中を見つめながら、アナベルは以前に警戒してそっけない態度をとってしまったことを反省したのだった。




