プロローグ
「フェリクスさま、丘に行きましょう!」
「待て、アナベル」
笑顔で駆け出す亜麻色の髪の少女を、黒髪の少年が追いかける。
風を切ってなだらかな丘を駆け上がると、ふわりと甘い香りが二人を包んだ。
少女は楽しそうに目を輝かせ、色とりどりの花が咲き乱れるお気に入りの花畑に座り込む。
「フェリクスさまに花かんむりを作ってあげますね」
白い花を手に取って器用に花冠を編みながらアナベルが話しかけると、隣に立って彼女を見下ろしていたフェリクスがぶっきらぼうに答えた。
「俺はかぶらないからな」
「ふふ、じゃあ、わたしがフェリクスさまに花かんむりをあげたら、わたしの頭にかぶらせてください」
「自分でかぶればいいだろ?」
「フェリクスさまにかぶらせてもらうのがいいんです」
「はあ、おかしな奴だな」
フェリクスは溜め息をついて悪態をつきながらも、アナベルの正面に腰を下ろして頬杖をつき、花冠を編むアナベルを見つめる。
「そんなに花冠ばっかり作って飽きないのか?」
「はい。今日はどの花で編もうかなってかんがえるだけで楽しいですよ」
「ふうん」
「それに、わたしの花かんむりを喜んでくれる人がいるので」
編みかけの花冠を空にかざしながら、アナベルが嬉しそうに顔を綻ばせる。フェリクスは一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐに「ああ」と納得した。
「……妖精のことか」
「わたしのまわりに妖精さんがいるって、ほんとうなんですよね?」
「本当だ。今もアナベルの周りを飛んでる」
アナベルは妖精の姿を見ることはできなかったが、フェリクスには不思議な力があり、普通の人には見えない存在を感じ取ることができた。
「……と言っても、丸い光がふわふわ飛んでるとしか分からないんだけどな。声も聞こえる訳じゃないし」
「光がみえるだけでも、すごいことですよ。きっときれいなんでしょうね」
アナベルが辺りを見回し、自身の周囲に浮かぶ七色の光を想像しながら目を細める。
本物の妖精は絵本に描いてあるように、花のドレスを着て、蝶のような羽を持ち、花の蜜や薔薇の朝露を飲んだりしているのだろうか。
「……まあ、綺麗だよ。いつもアナベルの周りから離れないし、アナベルのことが気に入ってるんだろうな」
「ふふ、うれしいです」
アナベルがフェリクスの目を見て笑いかけると、フェリクスはなぜか急に目線を外した。そして、外した先で何かに気がつき、わずかに眉を寄せた。
「……首のそれ、痣か?」
アナベルの首筋に、妙に整った形の痣のような模様が浮かんでいた。数日前に会ったときには無かったはずだ。
「そうなんです。昨日、森から帰ったらこんなあとができちゃってて……。でも、お花のかたちみたいでかわいいから気に入ってるんです」
六枚の花びらのようにも見える痣を撫でながらアナベルが言うと、フェリクスは急に真面目な表情をして、目の前の少女の名を呼んだ。
「──アナベル」
「なんですか?」
アナベルがきょとんとした顔で首を傾げる。
「……今日、俺が叱られて落ち込んでると思って遊びに誘ったんだろう?」
「え? わたしはフェリクスさまといっしょに遊びたかっただけですよ」
アナベルは何でもないことのように返事をして花冠づくりを再開したが、瞬きの回数が多い。誤魔化すのが下手な幼馴染を見て、フェリクスはふっと小さく笑った。
「……じゃあ、今日はたくさん遊ぼう」
「いいんですか? おうちの方に叱られませんか?」
アナベルが心配そうに尋ねる。
没落した男爵家の娘であるアナベルは、レアンドル伯爵家の令息であるフェリクスの母親からよく思われていないため、いつもこっそり会っているのだった。
フェリクスの父親は伯爵位を持つうえに、国教であるヴェリテ教の頂点に君臨する教皇でもあり、一年のほとんどを王都にあるフェネオラ大聖堂で過ごしているため、アナベルが会うことは滅多になかった。
息子であるフェリクスも神力と呼ばれる特別な力を持つことから、将来は父親と同じ教皇になると言われていた。
だからフェリクスの母親が、没落男爵家の娘でしかないアナベルとフェリクスを引き離そうとするのは、幼いアナベルからしても当然のことに思われた。
「別に、上手く誤魔化せばいいだけだ」
「そんな……。でも、フェリクスさまといっぱい遊べるのはうれしいです」
「そうだろ? じゃあ、早くその花冠を完成させてくれ」
「はい!」
結局、夕方になるまでたっぷりと遊び、フェリクスからかぶせてもらった花冠をときどき嬉しそうに手で触りながら、二人並んで丘を下っていると、正面から大人の男性がやって来るのが見えた。
「フェリクス」
男性がフェリクスの名を呼ぶと、フェリクスがぽつりと呟いた。
「……父上」
どうやら、伯爵がフェリクスを探しにやって来たらしい。
今のアナベルとフェリクスを見れば、二人一緒に遊んでいたことは一目瞭然だ。
またフェリクスが叱られてしまうかもしれないと焦ってアナベルが一歩後ずさると、伯爵がアナベルのほうを向いた。
「君は……」
逆光になっているせいで伯爵の表情がよく分からない。
「あ、あの、フェリクスさまと遊んでしまってすみません……!」
とにかく謝らなければと思い、花冠を取って深々と頭を下げると、伯爵がアナベルの身長に合わせるかのようにしゃがみ込んでくれた。
「謝らなくていいから、頭を上げなさい」
アナベルが恐る恐る頭を上げると、伯爵はアナベルの手から花冠を取って、頭にかぶせてくれた。どうやら怒ってはいないようで、アナベルは心の底から安堵した。
「息子と仲良くしてくれてありがとう。これからもフェリクスのことを頼むよ。──さあ、家まで送ってあげよう」
伯爵はそう言ってアナベルと手をつなぎ、家まで送ってくれた。
フェリクスは叱られなかったことが不思議だったのか、訝しむような表情をしていたが、アナベルはこれからはフェリクスと気兼ねなく遊べるようになるかもしれないと期待に胸を膨らませたのだった。