一杯の珈琲
私には、気になる人がいた。
私が働く喫茶店の常連で、スーツがとても良く似合う紳士だ。
いつも朝の九時に来て、窓際の席に座り、必ず珈琲を一杯頼む。
ピッチャーのミルクを少しばかり入れて、混ぜずにひとくち。
ゆったりと、時間を掛けてその一杯を堪能し、お会計の時に軽くお辞儀をして立ち去る。
その一つ一つの動作が、あまりにも綺麗で、私は見蕩れてしまうのだ。
最初のうちこそ、素敵な人への憧れでじぃっと見入っていたのだが、今や彼の人への恋慕となり、朝の九時ともなれば彼の人を目が探してしまう。
「今日も来て下さるかしら」
なんて零せば、同僚に白けた目で見られるし、いざ彼の人が店に入って来ると、「あんたの彼氏が来たわよ」なんてからかわれる。けれど、彼の人の注文を、必ず譲ってくれるのは、同僚なりの応援なのだろう。
けれど、臆病な私には、彼の人と話すことも、名前を聞くことも出来ない。そんな私に、この気持ちが実を結ぶ事なんてあるのだろうか。
ある雨の日に、彼の人は店にやって来た。濡れた彼の人にタオルを差し出した時、私はチャンスだと思った。少しでも仲良くなれたら、なんて浮かれた気持ちを抱いたのに、まともに話せなかった。
「散々なお天気ですね。風邪を召されませんように」
ありきたりな、店員文句に私は「馬鹿ね」なんて胸の奥で自虐する。気になる彼の人に、愛想笑いをされてしまい、私は「あぁ、終わった」と直感した。
その次の日から、彼の人は店に来なくなってしまった。そんな日もあると思っていたが、ぱったりと見なくなってから一週間も経つ。
私は彼の人を案じると同時に、自分の淡い想いの行く末を知った。
好きになり、行動し、実ることなく散っただけ。
臆病な自分にしては、よくやった方だろう。
私は丸めた背中を、しゃんと立てた。
だがその直後、彼の人は店に現れた。きっかり朝の九時、いつもの窓際の席に着く。
尻込みする私の背中を、同僚がぐいと押した。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいます?」
注文用紙を片手に、私はぎこちない笑みを浮かべる。
彼の人は「珈琲を一杯、いただけますか?」と、いつも通りの注文をした。
私は注文を厨房に通す。とっくに用意されていた珈琲を持って、私はテーブルに向かった。
テーブルにとん、と置かれた珈琲とミルクピッチャー。あぁ、いつもの朝だ。と、実感する。
私がテーブルを離れようとすると、彼の人は私の袖を、きゅっと握った。
「先日は、タオルを貸していただき、ありがとうございます」
彼の人は、私の方を見なかった。そして私はまた、抱いた期待を落とす。
「すべき事をしたまでです」と彼の人手に自分の手を重ね、袖から離そうとした。けれど、惚れた人の手を離すのが惜しくて、手を重ねるこの温もりが愛おしくなってしまう。
彼の人はようやく、私の方を見てくれた。
「──タオルを貸していただいた時、貴女の笑顔が、あまりにも美しすぎて、私は胸が熱くなりました」
彼の人は私の袖を、一層強く握った。
「次の日も、店に行こうとしましたが、貴女の笑顔を思い出して、緩みきった情けない顔を晒すのが恥ずかしく、ついつい避けてしまいました」
熟れた林檎のように赤い頬が、その熱意を教えてくれる。私の顔も、つられて赤くなるのが分かった。
「けれど、貴女の仕事をする姿が、笑顔が見たくて堪らなかった。貴女の笑顔を見て、元気になる自分がここに居る。女々しい男だと、思ってくれて構わない。けれど、またこの店に来てもいいでしょうか?」
袖を握る力が弱くなった。
代わりに私が、彼の人の手を強く握る。
「いつでも、お待ちしております」
今この時ですら、私は彼の人の名前を聞く勇気がない。
けれど、二人で真っ赤な顔で笑いあった。
「この楽しい時間が、ずっと続けばいいのに」
「そうですね。そうなれば、とっても素敵ですわ」
いつもの朝に、今日は少しのスパイスが混じった。
私はこの想いの、本当の行く末を知った。