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考えているうちに、那智は透子の言葉を聞き逃した。
聞き返すと、
「同じ名字の人がいっぱいいて、ややこしいから私のことは下の名前で呼んで」
「それじゃ、お互いさまだ。君も俺のこと那智って呼ばないと」
「……努力します」
「うわあ、何か傷つくな。その言い方」
那智は飄々(ひょうひょう)と笑う。
「じゃ、島から戻るまで、期間限定の彼氏ってことでよろしく。透子さん」
右手を差し出すと、透子は耳たぶをほんのり赤くして握り返した。
「よろしくお願いします」
冷えてきたね、戻ろうかと言い合い、二人はデッキから出る。
もう陸地は見えなくなった。船は強い風を帯びて南へ南へと向かっていく。
黒い水晶のような夜空と、形のない予兆を孕んで。
――本当は分かっていた。
天上河原という姓を持つ氏族は、豊玉島にしか存在しない。
その珍しい名字を聞いたときから、彼女が豊玉島出身であることを那智は察していた。
けれど今まで島の話題を持ち出したことも、知っているそぶりを見せたこともなかった。
天上河原と豊玉島の名を出されることを、透子がひどく恐れていることくらい、最初から分かっていた。
【序章・終】