弁えるのをやめた姉姫は、異国の帝に愛される
平安風異世界の妹ものです。
あるところに性悪な姉姫と善良な妹姫がいました。姉姫は黒髪に翡翠の瞳をして美しい容姿をしていましたが、大変に性格が悪く、妹姫をいつもいじめて泣かせていました。一方の妹姫は栗色の髪に柔らかいとび色の瞳をした愛らしい誰からも好かれる姫でした。
そんな訳で、国中の人が姉姫のことを性悪姫と呼んで嫌っていました。
しかし、そんな嫌われ者の姉姫にも恋する相手がいました。婚約者である隣の国の王子様です。性悪姫の国には王家の血筋を引く子供が姉妹だけでしたから、姉姫が婿を迎えてお国を継ぐ予定でした。そして、善良な妹姫は外国に嫁ぐ事が決まっていました。ですが、国中の人が反対だったらいいのにと思っていました。なぜなら、性悪姫は妹姫だけでなく、隣国の王子様に近づく女の子を全てイジメていたからです。
「身の程をわきまえなさいっ!ここは、あなたのような女がいていい場所ではないのよ。」
女の子達をいじめた結果、性悪姫は隣国の王子様との婚約を破棄されて、遠い国の後宮に貢物として送られました。そして、新たに蓮華と名付けられました。
「ねえ、わかっているの?蓮華さん?」
「はい…申し訳ございません。」
蓮華は目の前にいる自分よりも位の高い妃に頭を下げました。それが正しいことだと分かっていたからです。
「分かっているならこの場から立ち去りなさい!」
おきれいな妃に叫ぶように言われて、蓮華は帝の寝殿から立ち去りました。この後宮では帝に指名された者だけが、帝のお相手をするために帝の寝殿を訪れる事を許されていました。
蓮華は後宮にきた初日から、何故だか帝から呼び出されました。しかし、身の程をわきまえている蓮華はそれが正しくない事だと思っていました。
故国で性悪姫とよばれるほど、意地の悪い蓮華が一夜でも帝の情けを得られるなど、あってはならないのです。性格の悪さで婚約破棄された蓮華は、この後宮で捨て置かれることが故郷から求められていました。蓮華は弁えていましたから、故国の望みも理解していたのです。
ですから、お妃様から立ち去るように言われて、蓮華はどこか安心していたのです。
よかった。私のような性格の悪い女が帝に呼ばれるなんて何かの間違いだったんだわ。
蓮華はそう思いました。
蓮華は後宮の隅にあるうち寂れた自分の離宮に戻りました。離宮といっても、宮とは形だけです。恐ろしいほど長い間、放置されていたためにあちこちが壊れていて、いくつもある部屋のうち使えるのはたったの一部屋しかありませんでした。その部屋も雨戸に穴が空いていて、隙間風が入り夜はとても寒いのでした。
それでも、蓮華は自分の立場をわきまえていたので、文句はありませんでした。寒さを凌ぐために服を何枚も重ねて自分の体に巻きつけると、リスのように体を丸めて横になりました。
それから、自分に蓮華という名前を授けてくれた顔も知らない帝のことを思い浮かべながら、蓮華は瞼を閉じました。後宮に入るとそれまでの名前を捨てて、新しい名前を帝に名付けられました。帝に忠誠を誓うためです。
名前を捨てさせるというのはひどい話ですが、蓮華は今までずっと本当の名前で呼ばれず、性悪姫と呼ばれていましたから気にしませんでした。それに、蓮華という花の名前は故郷での唯一の甘い思い出を連想させるので、すぐに気に入りました。
だけど、いくら新しい名前になっても故郷と変わらず蓮華は一人きりでした。暗い部屋でじっとしていると寂しさが込み上げてきました。
これから私はどうしたらいいのかしら。
蓮華は不安を隠すように更に強く目をつむると、疲れていたからか、あっという間に深い眠りに落ちてしまいました。
次の朝が来て目が覚めると、蓮華の体が動きません。誰かに後ろから抱きしめられているようです。蓮華が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには神々しいまでに端正な顔立ちの男の人が眠っていました。寝ている姿でも高貴さで眩しいばかりです。
この後宮に立ち入れる男の人は限られています。自由に出入りできるのは帝だけ。つまり、その人はこの国で最も高い地位にいる帝でしかありえません。
「帝でございますか!?」
蓮華が思わず大きな声を出すと、帝は長い睫毛を震わせて目を開きました。帝の切れ長の黒い瞳が蓮華を見つけると、柔らかく目を細めました。
「起きましたか?」
「ええ…。」
どうしてここに帝がいるのかと、蓮華は不思議に思いました。しかし、蓮華は自分の立場を弁えていたので、雲の上の方である帝に直接質問をすることはしませんでした。蓮華が口を閉じていると、帝は尋ねました。
「隣に私がいることを不思議に思いませんでしたか?」
帝に問いかけられて、蓮華はその翡翠色の瞳を瞬きました。なぜなら、蓮華が心の内で考えていたことそのままを尋ねられたからです。
頭の中を見通されたようで気まずく思いながら蓮華は答えました。
「…おそれながら、少しだけ思いました。私の離宮になぜ帝がおわすのかと。」
「そうでしょう。私が貴女を迎えに来た時には、貴女は寝入っていましたから、気づかなかったのも無理はありません。ですが、周りをよく御覧なさい。」
蓮華は帝に促されて周りを見ると、そこは蓮華の見捨てられた離宮と違って、壁は立派な漆喰が塗りこめられていて穴一つありません。それどころか、豪華な調度品が所狭しと飾られていました。
こんなに豪華な部屋は後宮の中でも1つしかありません。
「帝のお部屋ですか…?」
帝は笑みを深くして頷きました。蓮華はあまりのことに恐れ多くて自らの服の裾で顔を隠してしまいました。
「貴女の離宮は風情がありますが、少しばかり寒いでしょう。こちらの方が過ごしやすいと思ってこちらに。」
布越しに聞こえてくる帝の優しい声に蓮華は黙っていました。蓮華の顔は真っ赤になっていました。
「まだ具合が悪いようですね。今日はここでゆっくりしてください。」
帝は蓮華の長くて黒い髪をなでると、部屋を去っていきました。蓮華は帝がいなくなったことを確認すると恐る恐る周りを窺いました。
「蓮華様、お加減はいかがでしょうか。」
「ひゃっ!!」
帝と入れ違いに、綺麗な服を着た女官が現れました。女官は穏やかで親切そうな顔をしています。蓮華は驚いて大きな声を出しそうになりました。
「まあ、お顔が青いですね。すぐに暖かいお召し物にお着換えなさってください。帝もお気遣いいただければよろしいものを。」
女官に促されるままに蓮華は着替えました。それは上等な絹に刺繍がされた美しい着物でした。厚地の着物はさっきまで着ていた蓮華の唯一の晴れ着よりも暖かでした。
「まあ、お似合いですわ。蓮華様の美しい翡翠の瞳に桜萌黄の重ねが良く映えます。」
「ありがとうございます。ですが、このような素晴らしい着物をいただく訳には参りません。離宮に戻りましたらお返しします。」
蓮華は自分の立場を弁えていたので、このような素晴らしい着物は借り物に違いないと思いました。しかし、女官はコロコロと上品に笑いました。
「蓮華様、それは帝からの贈り物ですから、受け取ってくださいな。それに離宮にはしばらくお戻りにはなれないでしょう。帝が離宮の修繕を指示されましたから。」
「あの離宮を…修繕?どうしてですか?私は何の後ろ盾もない小国出身の妃です。帝が気に掛ける人物ではございません。ここにいるべきでもありませんわ。」
「蓮華様を気に掛ける理由については、帝から伺ってくださいな。
ともかく、蓮華様がこちらでお健やかに過ごしていただけないと私が叱られてしまいます。」
女官が困った顔をするので、蓮華はひとまず大人しくすることにしました。
「わかりました。今日のところはお世話になります。
女官様のお名前を伺ってもよいでしょうか?」
「私に様はいりませんよ。菖蒲、とお呼びください。」
「では、菖蒲さん、どうぞよろしくお願いします。
私にお手伝いできることがあればおっしゃってください。」
「ふふ。蓮華様にお願いすることは、お身体を労っていただくこと。これだけですわ。
さあ、朝食を持って来させますので、召し上がってね。」
それから、蓮華は綿毛に包まれたように穏やかに過ごしました。本来であれば、朝日が昇っても帝の寝殿にいることは、はしたないことでした。それでも、帝は蓮華を外に出す事をお許しになりませんでした。
離宮を修繕しているからという名目でしたが、帝が蓮華を寵愛しているのは明らかでした。
そんな事が何日も続くと、放って置かれた後宮中の妃達が蓮華に嫉妬して、悪口を言いました。それが妃達の親兄弟に伝わり、ついには帝の耳にも届くようになりました。行き過ぎた寵愛は国を乱すことになる、と。しかし、帝は離宮の修繕が終わっていない事を理由に、蓮華への待遇を変えようとしませんでした。
一方の蓮華といえば、やはり立場を弁えていたので、帝の寵愛は一時に過ぎないと考えていました。
ですから、今のうちにせめてもの恩返しをしようと、得意の刺繍を使って帝や菖蒲やその他お世話になっている女官達に着物や帯飾りなどを作りました。
いずれは、離宮に戻って会えなくなるのですから。
季節が春から夏へと移り変わり、全ての贈り物が完成した頃、とうとう、離宮の修繕が終わりました。
蓮華は贈り物をお世話になった女官たち一人一人に手渡して別れを告げました。菖蒲には帝への贈り物を託しました。
菖蒲を始めとする女官達はその出来栄えにたいそう喜びましたが、何故別れを告げるのだろうと首を傾けていました。
「蓮華様、どうしてお別れなどと仰るのでしょう。離宮に戻られるだけではありませんか。」
「離宮に戻れば、霞のような私の身ではもう、帝にお会いすることもありませんでしょう。
きっと、今日が菖蒲さんにお会いできる最後の日になると思います。
短い間でしたが、菖蒲さんを始めとした皆様には良くしていただいてとても嬉しかったです。ありがとうございました。」
蓮華が水が流れるようにお礼を述べると、菖蒲は目を丸くしました。
「まあ、帝はまだ、何も仰っていないのですね。
蓮華様、私達は貴女様について離宮に行く予定でございます。これからも、ずっと一緒ですよ。」
「何故ですか?
何の後ろ盾も無い私について行っても良い事はありません。どうぞ、帝の元に留まってくださいな。」
蓮華は菖蒲のことを心から気遣って、説得しようとしました。しかし、菖蒲はにこやかに言いました。
「何の後ろ盾も無いなどと、とんでもございません。貴女様は今最も勢いのある立葵の大臣のご養女になられたのです。後でお義父上様からご挨拶があるでしょう。」
「まさか、私がそのような高貴な方の後ろ盾を得るはずがありません。理由がございませんもの。」
「蓮華様はお気づきになられていないのですね。
蓮華様は帝のお子をご懐妊されておりますわ。それだけでも後ろ盾となる充分な理由になりますでしょう。」
声を落として密やかに告げられた事実に、蓮華は驚きました。まさか、自分が妊娠しているなどと思いもよらなかったからです。蓮華は自分のお腹を見下ろしましたが、何の変化もありません。本当に懐妊しているのか、不思議に思いました。
「さぁ、共に行きましょう。新しい離宮へ。」
菖蒲に案内されて蓮華は数ヶ月ぶりに離宮に戻りました。そこは、本当に同じ建物かと疑うほどに美しく整えられていました。壁の穴も、柱の傾きもありません。そして、そこかしこに美しい調度品が置かれていました。荒れ果てていた庭も、整えられていてすっかり綺麗になっていました。
蓮華が惚けて庭を眺めていると、若い男性がやってきました。蓮華は咄嗟に扇で顔を隠しました。この国の女性は自分の夫以外の男性に顔を見せないと昔読んだ書物を通して知っていたからです。
ハキハキとした声は、やはり帝ではありませんでした。
「蓮華様、お会いできて光栄に存じます。
私は立葵の大臣と呼ばれる者です。
帝のご寵愛深き貴女様を我が家にお迎えする事ができ、大変嬉しく存じます。
義理とは言え、家族になりました。お年も近いですし、どうぞ兄を持ったとお考えになって、気安くお話いただけますか?」
やってきたのは義理の父親となった立葵の大臣でした。この若くて立派な方が自分の新しい父親なのかと、蓮華は驚きました。立葵の大臣と言えば、眉目秀麗で帝の覚えがめでたい優秀な方と聞いていました。
「立葵は仰ぎ見る…と申しますもの。会う日が来るとは夢にも思わず、戸惑っております。」
蓮華がやんわりと返すと、立葵の大臣は面白そうに微笑みました。蓮華が立葵を詠んだ古い詩歌を基に返したからでした。外国生まれの蓮華の思いもよらない教養の高さに興味を惹かれたのです。
「いくら背伸びしても天に届かない立葵よりも、神様がお座りになるという蓮の花の方が高貴ではありませんか。
私にお気遣いいただく必要はありませんよ。
さて、今日はそろそろお暇させていただきます。ご入用の物がありましたら、我が家から連れてきた女官の撫子に申し付けてください。」
立葵の大臣は、戸惑っている蓮華の様子を察して立ち去ることにしました。気を使わせてしまった申し訳なさから、蓮華は扇の端から立葵の大臣の様子を窺いました。目が合った大臣は、爽やかに微笑みました。蓮華は、はにかみながら笑い返しました。
「それでは、また明日お会いしましょう。」
立葵の大臣が去った後、撫子と呼ばれる女官が挨拶してきました。大臣が蓮華に付けた新しい女官です。撫子は蓮華に必要な物はないか、細やかに気遣ってくれました。
立葵の大臣が心から蓮華のことを配慮してくれているのがわかります。故国に捨てられた蓮華にとって、立葵の大臣はとても頼りになりそうな方でした。それどころか、故国でもこれほど蓮華を大切にしてくれる人はいませんでした。蓮華は立葵の大臣を後ろ盾としてくれた帝に感謝しました。
しかし、蓮華はやはり立場を弁えていたので不思議に思いました。どうして、私のような取るに足らない女を大事に扱ってくれるのでしょう。
ですが、立場を弁えていた蓮華はすぐに思い当たりました。この後宮には国内外から捧げられた女性がたくさんいましたが、帝のお子を産んだ女性は誰もいませんでした。菖蒲によれば、懐妊した女性も蓮華を除いていないようです。
なるほど、お世継ぎを産むかもしれない蓮華を大事にするのは、帝の治政を磐石にするために必要なことのように思えます。
「新しい離宮はいかがですか?」
帝がやってきました。政務の合間に様子を見に来てくれたのでしょう。蓮華は姿勢を正して帝に頭を下げました。
「美しく整えてくださって心より感謝しております。」
「それは良かったです。」
帝は美しく微笑むと、蓮華の体を起こさせました。帝の清廉な美しさに蓮華は顔を赤くしましたが、すぐにはしたない行為だと思って、顔を伏せました。
「今日は立葵の大臣が貴女に会いに来たようですね。どうでしたか?」
「とてもお優しくてご立派な方だと思いました。」
「そうですか。立葵も蓮華のことを褒めていましたよ。慎ましやかで穏やかであると。」
蓮華は耳を疑いました。故国では誰も蓮華のことを穏やかな性格をしているとは言いませんでした。誰もが性悪と口を揃えて言っていたのです。
「穏やかと言われたのは初めてです。」
「そうですか?蓮華は穏やかな気性をしていると私も思います。いささか、心配してしまうほどに。
立葵が後ろ盾になっているから大丈夫でしょうが、何かありましたら私に言ってくださいね。もう貴女一人の体ではないのですから。」
帝に心配されて蓮華は再び顔を赤くしました。
「本当に私は妊娠しているのでしょうか。」
「間違いありません。産婆にも診させましたから。
ですから、どうかご自愛して元気な赤ちゃんを産んでくださいね。」
蓮華は帝の優しい声にこそばゆく思いながらも、頷きました。
――――――――――
それから、夏が過ぎ秋になりました。蓮華のお腹はだんだんと大きくなっていきました。立葵の大臣が後ろ盾についてからというものの、後宮の遊びに呼ばれることが多くなりました。妊娠していることを隠すため、ほとんどのお誘いは体調不良ということで断っていましたが、中にはどうしても断れない物もありました。
それが、今日の秋の香合わせでした。皇后が決まっていない後宮で最も位の高い妃である薔薇が主催者でした。薔薇は宮中で最も重要な役職である関白の娘で、帝の従姉でした。立葵の大臣が後ろ盾にいるとはいえ、蓮華が断ることができません。
蓮華は、膨らんできたお腹を美しい絹の衣装に隠しながら出席しました。
薔薇の宮は帝の寝殿からも近く、庭が見事なことで有名でした。また、薔薇が後宮に入ってからは、自らの名前に合わせて薔薇の花を植えさせて、年中咲き乱れるようにしていました。
秋に咲く薔薇の香りがそこかしこに充満していました。妊娠して嗅覚が敏感になっていた蓮華はその強い香りに、立ち眩みがしました。
「蓮華さん、体調がお悪いのかしら?」
薔薇が蓮華に声をかけました。心配しているように見えますが、その声には毒が含まれていました。蓮華が来るまでは、薔薇こそが最も寵愛深い、将来の皇后とされていました。しかし、蓮華が来てからというものの、帝に呼ばれることが無くなっていたのです。蓮華に良い印象を持っているとは思えません。
蓮華は慎重に答えました。
「いいえ。薔薇が余りに良い香りでしたので、少し酔っただけです。」
「まあ。そうでしたの。毎日のように香っているから気が付きませんでしたわ。」
薔薇はおっとりと答えました。薔薇の近くにいた他の妃が言いました。
「蓮華さんは北のご出身だから薔薇の香りに慣れていらっしゃらないのね。
そうそう、野山ではどのような花が咲くのかしら?私、一度も都を出たことがないのでわかりませんの。」
妃の無邪気を装った質問に、蓮華は素直に答えました。
「今の時季であれば花よりも紅葉が見事です。錦なりけり…と昔の歌にありますが、まさにその通り錦の如く美しいのです。秋の山は赤く染め上げられ、金糸で刺繍がされた煌びやかな錦です。山に分け入れば、風に舞う紅葉に身も心も染まる思いがします。」
蓮華は目を閉じて故郷の景色を瞼に映しました。染色や薬の材料を探す時、そして一人になりたい時に山に行きました。山でこっそりと異国の書を読むときだけが、蓮華の故郷での慰めだったのです。
妃たちは昔の歌を知っていても、誰一人として紅葉に染まった山を見たことがありませんでした。ですから、本物の四季の美しさを知っている蓮華に、言い返せる人はいません。それどころか、蓮華の紡いだ情景に感じ入ってしまいました。
蓮華の作った雰囲気を打ち払ったのは、薔薇でした。
「さぞかし美しいのでしょうね。それでは、偉大な自然の美に慣れ親しんだ蓮華さんにとって後宮は物足りないことでしょう。」
田舎者の蓮華には宮中の美がわからないだろう、と侮った言葉でした。しかし、蓮華は薔薇に素直に答えました。
「いいえ。確かに、山のような雄大な光景はありませんが、後宮の中にも季節の移ろいを感じることができます。それは、庭にやってくる小鳥であったり、設えであったり、お召し物だったり…。薔薇さまも、今日は蘇芳をお召しになっていらっしゃる。秋の実りの色ですね。」
それだけでなく、ここにいる女性たちは全員が思い思いの秋の色を身に纏っていました。それが後宮での季節の楽しみ方だったからです。後宮では、女性たちが花そのものなのです。蓮華は秋色に華やかに装う女性たちを見て自然と笑みを深めました。
田舎者と見下していた蓮華に後宮の美的感覚を的確に回答されて、薔薇は黙ってしまいました。悔しさを微笑みに隠して香合わせの会を進めました。蓮華が余裕でいられるのも今のうちだ、と思って。
香合わせは持ち寄られた5種類の香りを聞いて、同じ香りがいくつあるか当てる遊びです。そのために、香炉をじっくりと近くで嗅ぐ必要があります。これは、妊娠して香りに弱っている蓮華には酷くつらい遊びでした。ただでさえ、強い薔薇の香りが辺りに満ちているのです。蓮華の額にはポツポツと汗が浮かんできました。
「蓮華さん、どうなさったの?お顔色が悪いですわよ。」
蓮華の隣に座っていた妃が小さな声で尋ねました。
もともと、この国の人よりも白い蓮華の肌が更に白くなりました。
「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですわ。」
蓮華は心配いらないと返しましたが、薔薇が目ざとく口をはさみました。
「そんなに顔を白くして、今にも儚くなってしまいそうではありませんか。奥で休まれてはいかがですか?いい薬がありますのよ。」
「ご厚意ありがとうございます。いつものことですから、たいしたことはございませんわ。」
「帝の一番のご寵愛を得られている蓮華さんに何かあっては、帝に顔向けできません。さあ、どうぞ、意地を張っていないで休まれて?」
薔薇はあくまで親切な様子で、勧めました。しかし、蓮華は自分の立場を弁えていたので、弱みを見せては帝に迷惑がかかるとわかっていました。
深く呼吸をして、汗を引かせると言いました。
「薔薇さまはお優しいのですね。ありがとうございます。ですが、体調が良くなりましたわ。」
香合わせは一見何事もなく終わりました。
しかし、強い匂いを嗅ぎ続けたことで蓮華の意識は朦朧としていました。ただ、帝に迷惑をかけたくない、その一心で離宮に足を進めていました。
「蓮華様、お帰りなさいませ。」
「菖蒲さん…。」
留守を預かっていた菖蒲が蓮華を迎えると、蓮華はそのまま倒れてしまいました。
「まぁ!ひどいお熱が!」
蓮華はそのまま意識を失ってしまいました。
――――――――――
帝は蓮華が倒れたと聞いて、立葵の大臣と共に蓮華の元へ急ぎました。いてもたってもいられず、政務が手につかなくなったからです。
「蓮華は無事ですか?」
帝は離宮に入るなり、菖蒲に尋ねました。菖蒲は蒼ざめた顔で答えました。
「わかりません。熱でうなされておいでです。お医者様の話によれば、今夜が峠だそうです。」
震えている菖蒲を促し、蓮華が寝ている場所に帝は進みました。蓮華は白い顔を赤くして、横たわっていました。
体は燃えるように熱く、玉のように汗をかいていました。
熱を取るために額に載せられた、水で濡らした布はすっかりぬるくなっていました。
「替えの布と新しい水をください。水は井戸から汲むように。」
帝が指示をすると、すぐに新しい布と冷たい井戸水が届きました。帝は自ら布を絞り、蓮華の汗を拭きました。
「心配ない、気を確かに持って。」
蓮華がうなされているので、帝は声を掛けました。しかし、よくよく聞いてみると、ただうなされているだけではありませんでした。
「…を煎じて…いつもの薬を…。」
意味のある言葉を繰り返し言っていました。帝は聞き覚えのある単語から、生薬ではないかと推測しました。ならば、蓮華が故郷で使っていた薬の方が、蓮華にとってなじみがあるだろうと思われました。
蓮華が繰り返す生薬と思しき単語を紙に書きつけると、部屋の外に控えていた立葵の大臣に帝は命令しました。
「これらを湯で煎じて持ってきてくれ。」
「わかりました。宮中にはありませんが、市場に行けばあるでしょう。集めて参ります。」
立葵の大臣は優秀でした。1時間後には全て揃えて煮だした薬湯を品の良い漆器に入れて持ってきました。
帝はそれを受け取ると、蓮華に飲ませました。全て飲み終えると、蓮華の顔が少しばかりほっとしたように見えました。そのまま深く眠ってしまいました。
次の日、日が昇るころには蓮華の熱はすっかり下がりました。蓮華が翡翠の瞳をぼんやりと開くと、声がかかりました。
「目が覚めましたか。」
帝の声です。声のする方に視線を向ければ、帝がいらっしゃいました。幾分かやつれたお顔をしていて、疲れているようでした。
「帝がどうしてこちらにいらっしゃるのでしょうか。」
「蓮華のことが心配だったのですよ。貴女はまた、無茶をなさる。そんなに私が頼りないでしょうか?」
大変珍しいことに、帝は怒っているようでした。蓮華は迷惑をかけたことに申し訳なく思いました。
「申し訳ございません…。ご迷惑おかけしたくなくて、意地を張ってしまいました。でも、結果としてご迷惑をかけてしまいました…。」
「迷惑だなんて、私は思っていません。貴女を失うことの方がよっぽど怖いのです。」
帝は首を横に振って、蓮華の言葉を否定しましたが、蓮華はぴんと来ません。故郷では蓮華はいらないものとされていましたから。なので帝のお気持ちがわかりませんでした。ですが、女性から気持ちを尋ねることは、はしたないことです。ですから、蓮華は帝がどうお思いなのかを一切尋ねませんでした。しかし、いくら弁えている蓮華でも帝の行いの理由を知りたいと言う気持ちが我慢できなくなりました。
いよいよ、蓮華は弁えられずに帝に聞いてしまいました。
「それはどうしてですか?なぜ、私にこんなにも優しくしてくださるのですか?」
蓮華の疑問に、帝は絶句しました。そして、ためらいながら言いました。
「…ああ、申し訳ありませんでした。私の言葉が足りないばかりに貴女を不安がらせてしまいましたね。ただ、正直なところ、私はこの気持ちを本気で伝える相手が他にいなかったために、どのように言えばいいのかわからなかったのです。」
帝の曖昧な物言いに、蓮華は黙ってうなずきました。次にどんな言葉が続くのか、全く予想もしないまま。
「ですから、ありのままに伝えましょう。
私は貴女のことを愛しています。貴女の幸せのためなら、何でもしたいのです。」
「…帝が取るに足らない私を愛していらっしゃるというのでしょうか?」
蓮華は一拍遅れて繰り返しました。
「蓮華が取るに足りない、ということはありません。初めてみた時から、花の精のようだと思っていました。」
「でも、私は妹のように優しくも、愛らしくもありません。性悪姫と呼ばれてきました。
ここへだって、本当は妹が来るはずだったのです。」
「でしたら、私はとても残念に思ったでしょう。
私が北の国に望んだのは、貴女だったのですから。」
蓮華は耳を疑いました。反射的に帝に聞き返しました。
「どういう、ことでしょうか?」
「蓮華は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、貴女が幼い時にお会いしているのですよ。私は子供のころ、政変を恐れて都から離れていました。その時に、山の中でお会いしたのですよ。貴女は蓮華の花に囲まれて、春の精のようでした。」
蓮華は、過去の記憶を思い巡らせました。子供のころの甘い記憶。蓮華畑で出会った高貴な年上の王子様。
「もしかして、あの時の王子様ですか?」
「そうですよ、覚えていてくださったのですね。」
帝はニコニコと微笑みました。それは、蓮華の記憶にある少年の笑みと全く同じでした。
「あの時は知らなかったと言え、身分を弁えない無作法なことをしました…。」
「何を仰るのですか。貴女は私に蓮華の花で冠を作ってくれました。それがどれだけ嬉しかったか…。」
帝の言葉を聞いてますます蓮華は小さくなりました。というのも、蓮華は今の今まですっかり忘れていたばかりか、その時は帝のことを隣国の王子だと勘違いしていたからです。蓮華は婚約者の王子を初恋の相手だと思っていました。しかし、本当の蓮華の初恋は帝だったのです。
意識した途端に、蓮華は帝の顔をまともに見られなくなりました。蓮華の頬がかあっと熱くなりました。
「どうしたのですか?また熱が上がったのでしょうか?」
帝が蓮華の額に手を当てて熱を確かめます。帝の顔が近いことに蓮華は恥ずかしくて、寝具を引き上げました。
「隠されると、お顔の色が見えませんよ。」
そう言って、簡単に寝具を取ってしまいました。蓮華は今度は両手で顔を隠してしまいました。
「なぜ、愛らしいお顔を隠すのですか?」
「恥ずかしいからです。」
「子まで為した縁の強さだというのに、今更どうしてそのようなことを仰るのです?」
帝の言う通りです。本当に今更です。あんなことも、こんなこともしたのに、今更恥ずかしいなんてどうして言えたのでしょう。ですが、蓮華は帝の顔をまともに見ることができません。顔を見てしまえば、想いが溢れてくることが分かっていたからです。
でも、帝が辛抱強く話しかけるので、ついに蓮華は降参して顔を出しました。
「それで、どうして顔を隠したりしたのでしょうか?」
帝はもうこの頃にはすっかり理由が分かっていましたが、それでも蓮華の口から聞きたくて尋ねました。
「貴方のことが好きだからです。」
――――――――――
それから、帝は蓮華の妊娠を公表することにしました。蓮華を表立って守るためでした。その結果、蓮華は何事もなく新春のころに、玉のような男の子を産みました。
帝は大変な喜びようで、恩赦を出して、税を軽くしました。
その吉報は、遠くの蓮華の故郷まで届きました。故郷の王様は言いました。
「遠くの大国でお世継ぎが生まれたそうな。それも高貴な大臣の姫がお生みになったそうで、後ろ盾も万全だと。我らも何かお祝いをした方がよさそうだ。」
王様の言葉に、王妃様が返しました。
「あの大国と言えば、性悪姫が嫁いだところでしょう?あの子に会いに行くという建前で、妹姫と婿の王子を使者に出しましょう。」
「それもそうだな。」
王妃様の言う通りだと思った王様は、さっそく妹姫と王子を呼んで使者に仕立てました。特産の銀や玉や織物を沢山持っていきました。さて、妹姫と隣国の王子は蓮華がいなくなった後に結婚しましたが、仲はあまりよくありませんでした。蓮華がいなくなったことで、妹姫の本性が見えてきたからです。
それまで隠していましたが、妹姫はとても我がままでした。妹姫のわがままを抑えていたのが、姉姫である蓮華だったのです。姉姫に八つ当たりして、泣くことで妹姫は自分がわがままを言っても怒られないように過ごしていたのです。
王子は、我がままな妹姫にうんざりしていました。それなのに遠い国の大使に任命されてしまって、これからの長い道のりを妹姫と共にすることを憂鬱に思っていました。しかし、穏やかな気質だった姉姫に会えることを密かに期待し、我慢することにしました。
妹姫といえば、大国の都に行けると無邪気にはしゃいでいました。王子との結婚をつまらないものと思っていた妹姫は、都で帝に見初められることを夢見ていました。姉姫が嫁いだ後に、帝が大層な美男だと噂を聞いて悔しく思っていたからです。
バラバラな気持ちの二人は、それでも騙し騙し都までの道のりを耐え抜きました。そうしてようやく、二人は都に辿り着きました。帝は二人を歓迎し、宴会を開きました。
王子は宮中の立派さに驚き、妹姫は帝の美しさに惚れ惚れしました。
王子は帝に姉姫のことを尋ねましたが、はぐらかされてしまいました。その答えを帝は姉姫に興味がないのだと妹姫は解釈しました。一方王子は、姉姫が悲惨な境遇にあるのではないかと不信に思いました。王子は助けなければ、と正義の心を燃やしました。
宴会が終わった後、王子が女官を捕まえて尋ねると、あっさりと教えてくれました。宮中の外れにある離宮にいるとわかりました。
真夜中の人が寝静まったころ、王子はこっそりと忍び入りました。離宮は夜目にも輝いていて、まるで新しく造られたかのようでした。廊下を歩いていると、赤ん坊の泣き声がしました。王子は驚いて、咄嗟に近くの小部屋に隠れました。
「まあ、どうしたことでしょう。皇子様が泣いていらっしゃるわ。いつもはとてもおりこうさんなのに。」
そう言って、中年の女官が赤ん坊を抱いてあやしました。どうやら、泣いている赤ん坊が帝のお世継ぎのようでした。
「お母上さまは帝の元にいらして、ここにはいらっしゃらないのですよ。ですから、菖蒲がお相手して差し上げます。さあ、何のお話をしましょうか。」
どうしたことでしょう。この離宮の主は皇子を産んだ帝の寵姫のようです。つまり、都の有力な大臣の娘のはずです。ということは、姉姫はここの主ではないということになります。少なくとも、王子はそう考えました。
しかし、この広い離宮の中で人を探すには余りにも暗すぎました。王子は出直すことにしました。
そうして、菖蒲と名乗った女官が立ち去った後、王子はするりと離宮を後にしました。
次の日、王子は都を見学すると言って宮中を出たふりをしました。その実、昨日と同じように後宮の中に入りました。離宮は帝の寝殿から離れているため、慎重に行きました。
昼間の離宮は明るい声に満ちていました。生まれたての皇子様を中心に活気が広がっていました。こっそりと垣間見ると、昨日の女官と何人かの若い女官が集まっていました。そしてその傍には、一際質の高い絹でできた衣服をまとった高貴な女性が佇んでいました。長い黒髪が艶やかに流れていて大変美しく見えます。その高貴な女性の顔をよく見ようとしたとき、またもや皇子が泣きました。
「まあまあ!おしめですね。取り替えてまいりましょう。」
菖蒲がそういうと、女官たちは一斉に部屋の外に出て行ってしまいました。残されたのは美しい高貴な女性だけ。王子は思い切って、姉姫の故郷での名を呼びました。
すると、その高貴な人は振り返りました。
黒い髪に、翡翠の瞳。やはり姉姫でした。しかし王子の記憶よりも匂やかに美しく、女神様のようでした。
「王子様…!」
姉姫は美しい緑の目を大きく見開くと、すぐに困ったような顔をしました。
「どうしてここに来てしまったの?」
「君が不幸せじゃないかと心配で来たんだ。早くここから出よう。」
姉姫は首を横に振りました。
「いいえ。私はここでとても幸せです。王子様こそ見つからない内に早く帰ってくださいな。」
「君が帰らないなら、帰れないよ。」
王子が譲らずに言うと、姉姫はますます困った顔をしました。そうして押し問答をしていると、衣擦れの音が聞こえてきました。
「皆が戻って来ます。ひとまずこちらに隠れてください。」
姉姫は王子を小部屋に押し込み、手近な布を王子に掛けました。王子は布の間からこっそりと盗み見しました。
楽しそうな声が衣擦れと共に近づいてきます。部屋に現れたのは女官だけではありませんでした。帝も一緒だったのです。それも、皇子を大事そうに抱いていました。
「私たちの皇子様はご機嫌のようですよ。」
帝はニコニコと姉姫に向かって言いました。姉姫はしとやかにほほ笑みました。その笑みは、王子が見たこともないくらい慈悲深くて美しい笑みでした。
「皇子は、お父様がご一緒だからご機嫌なのですよ。」
「そうなのかな。それでは皇子のためにも、ずっとここで一緒にいましょうか。蓮華もその方が良いでしょう?」
「そんなことおっしゃらないで。政が滞ってしまいますわ。立葵の大臣に苦情を言われてしまいます。」
蓮華と呼ばれた姉姫はくすくすと笑いながら帝に言いました。王子からすると無礼ではないかと心配になるくらい随分と気安そうな態度でした。
しかし、帝は咎めることもなく、姉姫の横に座りました。日常的にそうしているかのように自然でした。
王子は不安になりました。まるで、帝と姉姫が夫婦のように見えたからです。帝に抱かれていた赤ん坊の皇子と王子は目が合いました。皇子の瞳は翡翠の緑色でした。
雷に打たれたような衝撃が王子を襲いました。無意識に下に見ていた姉姫が、自分よりも遥かに上の地位にいて幸せになっていることに気が付いたからです。
余りの衝撃に呼吸をするのも忘れていると、聞き覚えのある声がしました。
お待ちください、という女官の声を制して、その甘い声は部屋に侵入してきました。
「お姉さま、ここにいたんですね~?
あら、帝さま!帝さまもこちらに?なんて偶然かしら!」
妹姫がやって来たのでした。
妹姫は姉姫に近寄ると、甘えた声で言いました。
「お姉さま!私とっても寂しかったのよ。だって一度もお手紙を書いてくださらなかったのだもの。それにせっかく都に来たというのに、中々会ってくださらないし…。
私のことが嫌いなの?そうよね、あんなことがあったのだもの。許されないわよね…。」
妹姫は悲しげに言います。何も知らなければ、姉姫は唯一の妹に対してなんて酷いことをしているのかと思うほどに、涙を誘う姿でした。一心に姉を慕う妹にしか見えません。今まででしたら、姉姫は立場を弁えて我慢していたでしょう。ですが、姉姫はまたもや困った顔をしながらも、キッパリと言いました。
「手紙なら国王陛下宛に送っていましたわ。お返事をいただくことはありませんでしたが。
それと、ごめんなさい。私はもう貴女の姉ではありませんの。貴女にしてあげられることはありませんわ。」
「やだあ、そんなこと言わないで。私はお姉さまのたった一人の妹でしょう?」
妹姫はポロリと涙を流しました。同情を誘う、きれいな涙でした。しかし、姉姫は毅然として言い返しました。
「でも、仕方がないのよ。私は立葵の大臣の養女になったのだもの。大臣のご意向を尊重しなければ。」
「何をおっしゃっているの?あの素敵な立葵様が性悪なお姉様を養子にしてくれるはずがないじゃない。いくら私のことが嫌いだからって、そんな嘘をつくのはとっても悲しいわ。子供みたいにいつまでも拗ねているのはよろしくないのよ。」
姉姫の言葉を頭から信じようとしない妹姫に、帝はいよいよ口を開きました。
「私から説明しましょう。私はどうしても蓮華を私の唯一にしたかったから、万全な後ろ盾を用意したのです。それで、私の忠臣の立葵を蓮華の後見にしました。
そちらの国にも、正式な文書を出したはずですが。」
妹姫は、帝の言うことなので一応は黙って聞いていました。しかし、意味を理解すると突然大きな声を出しました。
「そんなこと知らない!私、知らないわ!どういうこと?
嫌われ者のお姉さまが愛されるはずなんてないっ!
一番に愛されるのは、いつだってこの私なのよ!」
そこでようやく、妹姫は帝の腕の中にいる赤ん坊を目にしました。綺麗な翡翠色の瞳を持つ皇子を。動かない証拠を突きつけられて、妹姫はその事実を否定するかのように暴れました。
「ずるいわ、お姉さま。本当だったら私が後宮に嫁いで、帝さまに愛されるはずなのにっ。お姉さまばかりいつもずるい!」
妹姫は癇癪を起しました。王子にとってはいつものことでしたが、帝や周りの女官達は驚いているようでした。無理もありません。こうなったら手のつけようがないのですから。姉姫だけは、あきらめた顔をしていました。
癇癪を起こした妹姫の高い声にびっくりした皇子が泣き出してしまいました。すぐに我に返った帝と姉姫が二人してあやし始めましたが、まったく泣き止みません。
すると、注目が皇子に向かってしまったためか、妹姫はますます甲高い声で怒鳴り散らしました。
「うるさい!早く泣き止んでよっ!なによ、その緑色の目っ。生意気なのよ!」
そうして、妹姫が皇子に手を伸ばそうとしました。ですが、妹姫の手は皇子に届かず床に落ちました。
王子が咄嗟に這い出てきて、妹姫を床に押さえつけたからです。
「数々の無礼を働き申し訳ございません。
この者の夫として処遇は決めますので、どうか、命だけはご容赦いただけないでしょうか。」
王子は妹姫と共に床に額をつけて赦しを乞いました。帝はその様子をちらりとも見ずに、皇子をあやしていました。皇子が泣き止み、落ち着いてからようやく王子と妹姫の方に顔を向けました。
「そうですか。蓮華はどう思いますか?」
「何のことでしょう?皇子のご機嫌が直って良かったですわ。」
姉姫はさらりと何でもないように答えました。つまり、姉姫はここで起きたことをなかったことにするつもりなのです。
「という訳です。貴方達が許可を得ず後宮に立ち入ったことは罰しないといけませんが、それ以上のことは何もありません。」
「ありがとうございます。」
王子は感謝して再び頭を下げました。妹姫は何やら騒いでいましたが、王子は妹姫を引っ張って連れ帰りました。
それから急いで王子と妹姫は都を後にしました。
帰り道、ずっと騒ぎ続けている妹姫を見て、王子は後悔しました。どうしてあんなに美しく慈悲深い姉姫を捨ててしまったのだろうかと。本当に性悪なのはこの妹姫じゃあないかと。
しかし、いくら自分の愚かさを呪っても時は戻りません。王子は自分も一緒になって性悪姫と呼んでいたことも忘れて、蓮華の女神のような美しさを懐かしむのでした。
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「あれでよかったのですか?」
2人きりになった時、帝は蓮華に尋ねました。
「良いのです。妹とあの方は惹かれあって結ばれたのですから、きっと上手く乗り越えられると思います。」
蓮華は迷いなく断言しましたが、帝は蓮華とは違った見解をお持ちでした。あの二人はいずれ仲違いしてしまうだろうと。ただ、その時に累が及ばないようにこの人の好い蓮華を守ろうと帝はひっそりと誓いました。
「今回は私も大人げなかったですからね。お相子ということにいたしましょう。」
「そうですわ。すぐに妹達と正式な面会の機会を与えていただければ、あんな風にこじれることはなかったのですよ。」
「貴女があの王子に心を残してはいないかと、不安になっていたのです。だって、貴女の初恋はあの王子でしょう?」
「まぁ、誤解されていたのですね。嘘偽りなく申し上げますと、私の初恋は貴方ですわ。」
「そうなのですか?!」
帝はすっかり驚いてしまいました。あの王子が蓮華の初恋の相手だと思い、勝手に嫉妬していたからです。蓮華は初めて見る帝の驚いた表情に、ますます愛しさが込み上げてきました。
それからというもの、帝は蓮華を一番に愛しました。2人の間には3男3女が生まれ、蓮華は皇后になり、蓮華の後見となった立葵の大臣は新しい関白になりました。
前の関白は帝の財産を勝手に使っていたことがバレて、左遷されました。薔薇は、後宮にいづらくなって関白と共に出て行ってしまいました。噂では、山奥の捨てられた屋敷にいるとか。
帝と蓮華の治世は大変平和で、国中が幸せに暮らしたそうです。