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最高の物語  作者: 谷中英男
9/9

エピローグ

 そこは階段のない、ゆるい坂だけの弓なりをした珍しいタイプの歩道橋だった。彼のお気に入りの場所。何かにつけて大門さんはそこに向かい、幾度となく暗い夜道を二人歩いたところだ。

 僕たちはその歩道橋を静かに登っていった。両脇に小さな花壇が設けられている。人知れず、誰かの手によって整えられた花壇。季節ごとに色とりどりの花々がこの古びた歩道橋を彩っているはずだが、あいにく植え替えの季節だからか、それとも真冬だからなのか、そこには乾燥した赤茶けた土しかない。

 物悲しさを醸し出す花壇と、塗装の剥がれた古びた欄干に囲まれ、頂上を目指す。たかだか二十メートルほどの距離なのに、勾配のせいなのかすぐに息が上がった。吐息が白く舞い上がり儚く消える。

 頂上に着き彼に目を向けると、瞳を子供のように輝かせながら辺りを見回している。僕も視線を上にあげ、辺りを見わたす。そこには煌々と輝くファストフード店、ぽつりぽつりと点在する街灯、寒そうに佇む裸の街路樹、どこまでも続く閑散とした道しかなかった。

 何が彼をそこまで惹きつけるのだろう。今までの僕はこの場所で、彼の見る、彼だけの特別な景色が存在すると思っていた。いつかは僕にも見える景色があると。でもいくらここに訪れても、見えるのは寂れた風景だけ。特別な何かは存在しない。彼の自己満足にしか過ぎない。僕は彼の思わせぶりな態度に騙されていただけ。

 怒りがより一層煮えたぎってくるのを感じる。僕をおもちゃのように弄び、まっとうな道から逸らした彼への怒りが。そんな感情を悟られまいと、悦に入ったように頭上に広がる星々を眺めた。星々といっても、オリオン座と名前も知らぬいくつかの星だけだが。

 そんな僕をよそに、彼は歩道橋に設けられた花壇のレンガに上り、辺りを見回す。いつもは風景を眺めながら語らい、そそくさと歩道橋を渡りきるのに。

 僕を無視するかのように背を向けている。彼の表情は見えないが、いつもの訳知り顔で退屈な風景を見ているのだろう。そして、彼は僕に背を向けたままいった。


「どうだい? いつ見ても美しい風景だろ? この景色はいつでも私を受け入れてくれる。どんなに辺りが変わろうとも。私がどれだけ老いさらばえ、醜くなろうとも」


 僕は何もいわなかった。いや、何もいえなかった。口を開けば、彼への恨みや憎悪が堰を切って溢れ出しそうになったから。

 彼は僕の無言を意に介さず、依然として閑散とした風景を楽しんでいた。やるなら今しかない。僕を弄んだ罰を与えるんだ。正義や世間、道義や倫理なんてものは関係ない。自分の望んだ道を、自分の望んだ行為を果たすんだ。

 僕の真意を悟られぬよう、慎重に彼の後ろへと歩みを進める。一メートルも満たぬ距離。ほんの数歩の距離が途方もなく長く感じる。その間に僕の決心は揺れ動く。


 本当に彼は罰を受けるほどのことをしたのか? 

 彼は僕のことを思って行動したんじゃないか? 

 彼のいったという、僕を一つの作品に仕立て上げるということも、彼お得意の嘘じゃないのか? 

 彼に罰を下して、僕は変われるのか? 

 思考が混沌の一途をたどったところで、決断した。

 彼は僕に嘘を吐いた。

 僕が変わるかどうかじゃない。

 僕に嘘を吐いた罰を、彼は受けるべきなんだ。


 僕の思考は否応もなしに、罰を下す道へと突き進んだ。もう後戻りはできない、するべきじゃない。決断したことには責任を持たなければ。自分の信念を突き通さなければ。彼に罰を与えなければ。

 僕は彼の真後ろに来ていた。彼は微動だにせずレンガの上に佇んでいる。両手を彼の背中に突き出すだけで、ことは終わる。彼の人生は終わり、僕は彼から解き放たたれる。

 静かに、大きく息を吸い込む。

 僕は勢いよく両手を突き出した。彼の背中へ向かって。

 彼の背中を突く鈍い音が聞こえた。

 僕の両手には彼の着るコートのぬくもりと、彼の筋肉質な背中の感触だけが残った。

 欄干へと勢いよく突っ込む彼の背中が見える。欄干にしたたかに太腿をぶつけ、空中へ舞い踊る。虚空へと飛び出した彼は、一瞬、こちらに顔を向けた。その表情は突き落とされたことに対する驚きや憎しみ、突然のことへの無表情ではなく、称賛と親しみを込めた微笑みに見えた。

 すぐさま、彼は僕の前から姿を消し、アスファルトにぶつかり、ひしゃげた音が聞こえた。僕は欄干に駆け寄り、身を乗り出して路上の光景を見つめる。

 そこには四肢をあらぬ方向に投げ出し、糸の切れた操り人形のように倒れる彼が見えた。彼の黒々とした後頭部を中心に、薔薇のように広がり続けるどす黒いシミ。

 そんな光景を目にし、僕は花壇へとへたり込んだ。


 ついにやったんだ。

 彼に罰を下した。

 僕は自由だ。


 彼からの解放に安心して、僕はそのまま膝を抱えて座り込んだ。この後のことが脳裏をよぎるが、無理矢理締め出した。今は達成感に浸っていたい。

 今まで彼から吹聴された思想を思い出し、それから解放されたことを喜ぶ。偽りに満ちた、自己中心的で、矛盾を孕んだ邪悪な考え。そんな考えに染まり、彼の操り人形になっていたらと思うとぞっとする。

 彼の最後を思い出す。

 いまだに残る掌の感触、目に焼き付く最後の表情。あの場には不釣り合いな微笑みだった。今から考えれば、それは僕の見間違えだったんだろう。自分の死の瞬間にそんな表情を見せることなんてできない。あれは突発的に起こった、予期せぬ事態だったんだから。それを予期できていなければ不可能だ。予期していなければ……。

 そう、予期していなければ。なぜ彼がこの事態を予期していなかったと言い切れるんだろう。彼は僕を自分の作品へと仕立て上げようとしていたんだ。それなのに、こんな事態を予期していなかったと言い切れるだろうか。彼のことだ、酒を飲めばいつしか得意げに僕のことを語りだすのは想定していたはずだ。そして、いつしかその話は僕の耳に入る。もしくはわざと話したか。機は熟したと思い立って……。

 だから彼はいつも上がらぬレンガにのぼり、僕の後押しをした。僕の決心が鈍らないように。僕を導き、自らの望む作品へと仕立て上げた。

 僕はまんまと彼の策略に嵌ってしまった。彼の思い通りに、彼の敷いたレールの上を忠実に通ってきてしまったんだ。

 僕は絶望のあまり空を見上げた。

 そこにはさっき見上げた時よりも、少し沈んでいるオリオン座が見える。

 時間は無情にも過ぎ去り、時を巻き戻せないことを痛感する。

 立ち上がり、欄干に手を添え、彼の姿を確認する。

 彼は微動だにせず、依然として花を咲かせているだけ。

 これ以上彼を見つめていることができず、視線を上げた。

 周りには寂れた風景しか広がっていない。でも、彼を突き落す前とは何か違っていた。

 これが彼の見ていた景色なんだろうか。


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