5
彼との邂逅は途切れることなく続いた。私は彼に会うたび、何かと理由をつけ、二人であの歩道橋に赴いた。私にとって特別な場所を、彼にとっても特別にするために。彼を私の望む存在にするための言葉を授け続けた。
私の言葉を聞く彼の反応は様々だった。私の言葉に感服し、自らのスタイルにアレンジし実践するときもあれば、猛烈に反発し、そのことを口にすることさえしなくなった時もあった。だが、彼は私のあらゆる言葉を自身に取り入れているのは明らかだった。私といるときの彼は、私が与えた思想を自分の言葉に換言し、我が物顔で披露した。そういった言葉は、私が自身で語ったことだと露程も思わぬ出来栄えのものが数多く見られた。
彼は確実に成長していた。私の望む存在へと。しかし、彼がいくら成長を見せようとも、世間と離別し、私の言葉を、思想を完全に実践するには至らなかった。彼の中に根付いていた世間は、私の予想以上に根深いものだったのだ。彼は私といない時には世間の仮面をかぶり続け、世間に迎合し続けた。彼が抱いた純粋な不安はその時だけ隠され、世間に取り入るためのつまらない御託を並べ立てた。彼は世間との離別を恐れたのだ。家族や友人からの扱いが変わり、世間の一員でなくなるのを。
それでも私は諦めることなく彼との関係を続けた。もはや彼なしでは生きられなかったから。私の言葉に瞳を輝かせ興奮する様、激情にかられ猛烈に私を批判する様――それらが私を魅了し、彼に対する感情を育んだ。
そんな歯がゆい毎日が続いた後、決定的瞬間が訪れた。それは彼が世間からの逸脱を拒否し、凡庸で退屈な仕事に就いてから、一年程が経った時だった。
彼が選んだ店で食事をしてから、酔い覚ましに夜道を歩いていた。画一的に整備された遊歩道を二人でゆっくりと歩く。肌を優しくなぞる風を感じ、時折かすかに聞こえる生活音に耳を澄ませる。街路樹に邪魔された街灯の光が異様な紋様を地面に映写し、二人だけの世界に花を添える。昼間には人の営みに溢れたこの場所が、今は私たちのために用意されたように錯覚させる。昼間の生を殺し、死で満たし、その中を生者の私たちが行進する。私たちしか知らない世界がここにあり、彼はいつものごとく自分の感情を抑えきれず、私にすべてを吐露すると思っていた。私はそんな彼の話に耳を傾け、彼の成長を実感し、来たるべき最後を夢想するつもりだった。
今日の彼には激情に任せた感情の決壊は見られなかった。黙々と歩き続け、自分の世界に閉じこもっていた。妄想と現実の狭間にある彼の世界を覗き見ることはできない。彼の世界を映し出す顔には何も浮かばず、ただそこに存在するだけだった。以前のように、私の視線に頬を赤らめることもない。彼は成長しているのだ――確実に。
その成長に一抹の寂しさを覚えつつも、彼から溢れ出る美を堪能した。透き通るように白い肌に艶めかしく脈動する血脈、女性のようにか細い喉元に逞しく隆起させた喉仏、宵闇に輝く均整の取れた中性的な顔、それを囲い飾り立てる緩く波打つ優美な毛髪、自己の規則に則った優雅で優美な立ち居振る舞い、自信に満ち溢れた言動、その他彼のすべてが私を惹きつけ離さない。今まで彼が持っていたもの、私が授けたもの、それらが滑らかに溶け合い彼を一つの美へと昇華させつつあるのだ。これは予想外の展開だが、私の最高の最後を彩るのにこれほどの存在は望めないだろう。私は予期せず自ら一つの美を創り上げることに成功したのだ。
私の手によって創り出された美を垂涎の面持ちで眺めていると、彼は軽く頷き、私に視線を向けた。彼の瞳には言い知れぬ強固な覚悟が宿っていた。あの頷きは私に向けたものではなかった。自らを鼓舞し、未開の地へ踏み出すためのきっかけなのだ。
私は彼の意志を読み取り、彼にこの場を委ねることにした。舞台は整いつつある。私の愛する歩道橋はもう目の前だ。
私たちはゆっくりと歩道橋を登った。苦しげな吐息と、重い足音が響き渡る。お互いに気遣うように視線を交わし、在りし日の栄光を懐かしみ苦笑いした。
頂上に辿り着き、期待と疲労のために激しく脈打つ心臓を鎮めるために足を止め、辺りを見渡す。なんの変哲もないどこにでもある平凡な光景だ。その平凡な光景は、私が迎える最後を鑑みると違って見える。全てが私のために用意され、役目を果たすのを待ちわびている――ペンキの禿げた欄干も、人知れず整備された花壇も、黒く渦巻くアスファルトも、辺りを照らす街灯も、場違いなファストフード店でさえも。
彼の存在を忘れて、辺りに見入っていた。私の場所であると同時に彼の場所でもあることも忘れ。一人で自分の世界に浸り、輝く未来に希望を抱いていた。だが、彼の柔らかな息遣いに気づき、一気に現実の世界に引き戻された。自分の世界に浸っていたことなどおくびにも出さず、緩やかに彼に視線を向ける。彼は瞳を潤ませながらも、しっかりと私を捉えていた。彼と出会ってから、こんな表情は見たことがなかった。儚く消え入りそうな勇気と、悲しみと喜びに満ちた複雑な感情、それらが複雑に絡み合い絶妙なバランスで共存している。今までの彼には成しえず、今の彼にしかできない複雑な表情。
彼は唐突に話し始めた。世間に迎合し、自分を偽って取り入った社会について。
憂鬱に押しつぶされそうになる朝。
出社に怯え、安らぐことのできない夜。
使い捨ての駒扱いされ、個人を否定する心ない言葉に耐える一日。
喜びや楽しみを見いだせず、ただ上司の命令を遂行していく日々。
いったいなんのために生きているのか……。
なんの目的も持てず過ぎゆく毎日に彼は絶望していた。くだらない見栄のために自分を押し殺す人生に後悔していた。
彼に初めて会った時に、彼が吐露した不安が現実のものになり、彼を苦しめていた。
彼はどうすればこの地獄から抜け出せるのか知っているはずだ。私が教え諭してきたのだから。
彼は抜け出すことができなかった、いや、抜け出さなかった――今この時までは。
優柔不断で醜悪な愚行もここで終わる。彼は私に自らの愚行を告白し、懺悔している。私は悔悛する彼に、今までいい聞かせてきたことの整合性を証明し、これから進む私の望む未来へと今度こそ導かなければならない。
彼は私を完全に受け入れ、道を誤ることはなくなるだろう。
「私は以前いったことがあるはずだ。君は世間を気にしすぎていると。たかが世間だぞ。君がいちいち気にしている世間は君のために何かしてくれるのか? 世間のために自分を捨てて奉仕したところで何が得られる。周りと同じという安心感? 周りと同じというなんの役にも立たないレッテル? そんなもののために自分を捨てる意味はない。君の現状を見てみろ。精神はすり減り、身体にはガタが来かけている。そんな状況を誰が望む。君は胸を張って、両親や友人に最高の人生だといえるか? もちろんいえるわけがないな。私に弱音を吐いているのだから。そんなことでどうする。君は自分のみならず、大切な人まで不幸にするつもりか? だとしたら、私は止めない。君のその無意味で愚劣な生活を続けるがいい。だが、君はそれで満足しない。不満だからこそ私に打ち明けた。それは正しいことだ。君はそんな惨めな人生を送る人間じゃない。君は自分を過小評価している。君はどこまでも心優しく素直で、内に秘めた熱い思いを持っている。それを大切にするんだ。今のままでは君の大切な人も、君のアイデンティティもすべてを失ってしまう。君は恐れているんだろう。仕事を辞めれば、自堕落な生活に溺れてしまうと。だが、心配することはない。そういうことを思っている人間に、自堕落な生活はできない。現状に甘んじず、未来を見据えて精進することができる。君はよく頑張っている。たまには羽休めも必要だよ。そして、いつもと違う風景が、君をより成長させるはずだ」
彼の瞳から一筋の光が零れ落ちた――今まで隠していた苦しみや悲しみ不安と一緒になって。
新しい彼は完成目前だ。今まで世間に対し仮面をかぶり自らを偽ってきたが、彼の涙とともに仮面は消え去り、本当の自分を曝け出すことになる。
あの日から彼は吹っ切れたように世間から離脱した。仕事を辞め、自分の好きなことに精を出し、幸福な毎日を送っている。
あれだけ他人の目を気にしていた彼だったが、今までの反動なのだろうか、自分の欲望の赴くままに行動した。最初のうちは彼の周りの人間も、ストレスから解放された故の一時的な変化だと気にも留めなかった。だが、彼の行動は日を追うごとに傲慢になり、自分だけのルールに則った自分だけの世界に閉じこもった。自分の気に入らないものは寄せ付けず、彼の周りからは人が消えていった。彼はその状況に困惑した。本当の自分を曝け出し、本心で接しているのにもかかわらず、受け入れられない理由がわからなかったから。それでも彼は自分を変えなかった。以前の惨めな自分に戻りたくなかったから。
自分を受け入れない人間を嘲笑し、蔑んだ。
彼は孤立を深めた。彼を支えてくれていた大切な人でさえ彼のもとを離れた。今では彼の家族と私ぐらいしか彼を受け入れる者はいなかった。
彼は以前にも増して私と過ごす時間を求めた。自分の耳に心地よく響く言葉を聞き、世間への不満を私と共有したかったから。
私は彼と会う頻度を増やすことはなく、むしろ、多忙を装い会う頻度を減らしてさえいた。私と過ごす時間が短くなり、私に会いたいという気持ちが強まることで、彼の中での私という存在は大きくなり続けた。