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真っ赤な夕陽が夜の訪れを告げるころ、私たちは再び顔を合わせた。彼との運命の出会いを終えてから数日後に。私はその数日間、彼の中に芽生えた私の思想が枯れてしまっているのでは、と気が気でなかった。私の望む最後へ導いてくれる存在。それを失うことは私の死を意味する。私の忌避する、あの物語の主人公のような醜い死だ。
不安を募らせ、私が約束の場所に赴くと、彼は辺りを見回しながら私を待っていた。彼の整った顔に浮かぶ不安に愛おしさを覚え、その不安を存分に堪能するため、「気付かれないよう見守ろう」と私の天邪鬼な部分が囁きかける。確かに魅力的な提案だ。私のいないところでの彼を観察することは、彼のすべてを知るためには有効なことだから。だが、私は彼のすべてを知ろうとしているわけではない。そんなものは必要ないのだ。彼を新しく創り上げるのが目的なのだから。彼が純粋で謙虚な人間だという事実だけで充分だ。私は自分の魅力的な提案を退け、彼へ向かって歩みを進めた。彼との距離が徐々に縮まり、気づかれるも時間の問題だった。わずかな時間だけでも、彼の顔を彩る不安を余すことなく堪能しようとしていると、ある疑問が浮かんだ。この状況で、彼の不安はどこから現れるのだろう。私が来ないのではないかという不安? それとも、私との再会を望んだ自分の判断に不安を覚えている?
その答えを得る前に、彼は私を見つけた。不安を湛えた表情は花が咲いたように華やかになり、瞳が爛々と輝く。私に向かって軽く会釈をしてから、速足で私のもとへと向かう。
突如霧消した不安に疑問を覚えつつも、彼を迎え、私の馴染みの店へ彼を伴って歩いた。
客船を思わせるような、日常と乖離した空間。計算づくされて配置された間接照明が、胎内にいるような心地よさを生み出し、かすかに流れる音楽が沈黙さえも快楽へと変える。そんな空間が私のお気に入りだった。この場所でなら、彼に芽生えた私の思想を成長させることができる。
いつものカウンター席ではなく、ボックス席に腰を下ろす。ほのかに輝く照明が彼の顔に緊張を浮かび上がらせる。私はすぐさま店員を呼び寄せ、二人分の注文をすませた。彼は押し黙ったまま、自分の手を弄くっている。そんな彼から不安と緊張が桜花を思わせる微かで芳醇な芳香のように滲み出ている。私はその官能的な香りを味わうために、黙って彼を見つめ続けた。沈黙は二人の間に漂い、空間を支配する。私はこの沈黙に心地良さを覚えたが、彼には気まずく感じられたようだ。この沈黙から自ら抜け出そうと手指の動きを止め、視線を上げる。淡い光を受け、彼の瞳が煌めく――会話を始める決心と、私との再会を喜ぶ感情、不安と緊張を複雑に絡ませながら。
彼は型にはまった社交的な文言を並べ立てた。まさに世間を体現する、怠惰で愚鈍な恥ずべき行為。二人きりの空間でさえ世間からの目を気にし続ける彼に苦笑しながらも、私は彼のその愚かな儀式に付き合った。なぜなら、彼はまだ目覚めてはいないのだから。私が芽生えさせた思想は未熟で、私の言葉という養分を必要としている。
ここで不用心に語り掛ければ、心を開き切れていない彼はたちまち世間という強固な鎧を身に着け、私に全力で抗うだろう。そして、私は絶好の機会を失う。そんな事態を避けるために彼を安心させ、彼の心に侵入しなければならない。だから、私は彼の退屈な会話に応じた。
注文した品が届き、不毛な会話は一旦終了した。私のお気に入りの料理とアルコールに二人で舌鼓を打ち、幸福な沈黙を味わった。そうしている間に彼の緊張はほぐれ、不安も消え去っていた。彼の口から流れ出ていた不毛で苦痛な言葉も、いつしか消え去り、世間に対する不満を垂れ流していた。そんな彼の振る舞いが、私に気づかせた。彼の顔に不安が滲み出ていた理由を。彼は私と初めて会った時のような会話ができるのか不安だったのだ。あの時のように心を開けるか、自分を受け入れてもらえるか。それが彼に不安の影を投げかけていたのだ。
その心配は杞憂に終わった。彼はあの時のように本心を語っている。私はその事実に満足し、彼の発する甘美な音色に耳を傾けた。
彼の感情は徐々に高ぶり、ついにあの時の私の言葉の真意を訊ねた。待ちわびた瞬間だった。彼自身が、自らの意志で私の言葉を望み、受け入れる。私が一方的に語り掛けるだけでは駄目なのだ。彼の意志でそれを望まなければ。
「あれはね、君が抱える不安に妥協することなく、自分の望む君でいてほしくていったんだ。君があの時いったように、人は成長するにつれ、妥協し、それをさも当然のごとく受け入れる。だが、それは夢を諦めたつまらない大人の言い訳にすぎない。世間に屈し、自らの個性を投げすて、大多数の中の名前も持たない一つになってしまうだけだ。君はその愚かで格好悪い大人になりたいか? 君の青春時代にそれは受け入れられるものだったか? 悩むほどのものだったか? 答えはいうまでもないだろう。あの輝かしい時に個性を擲つなんて選択肢はなかったはずだ。大多数でいることを恥じ、自分が唯一無二の存在であることを願ったはずだ。利己的で、強者に迎合する卑しい大人を軽蔑していたはずだ。誰もがそう考えるんだ。あんな大人になりたくないと。だが、気付けば自らが嫌悪していた存在になってしまう。君のように疑問を抱きながらも。それはなぜなのか? 理由は簡単だ。世間に改宗された大人がこの世に溢れ、その醜悪な存在が未来ある若者を、愚鈍で卑小な存在へと創り替えてしまうからだ。数の暴力に圧死させられ、個性は消え去る。なんという悲劇だろう。彼らに少しでも抗うすべが、力があれば変わったものの、それはなしえなかった。薄弱な精神と、手を差し伸べる者がいなかったせいだ。だが、君は違う、君はほかの誰とも違う。君は素晴らしい才能を持ち、私と出会った。圧死した有象無象には君のような才能と、私のような人間との出会いはなかった。君は自らの運命を受け入れれば、素晴らしい人間になれる。自らの個性を燦然と輝かせた個人に。そのために、君は世間からの目を気にすることをやめるんだ。世間の反応を気にするということは、世間を迎合しているのと変わりない。今まで無意識に行ってきたことを意図的に取りやめることで、世間からの離反が始まる」
彼はアルコールのせいか赤く頬を染め、真剣な顔つきで私を見つめている。彼にどこまで理解できただろう。どこまで伝わっただろう。彼の真剣な顔つきだけでは窺い知ることができない。誰もが人の心を読めないのだから。彼はまだ世間からの完全な離脱をなしえていないのだから。それは彼が無意識にその場の雰囲気に合わせ、他者の意見に迎合する可能性があることを示唆する。他者に嫌われたくないという浅はかで傲慢な行為。そんなくだらない理由で、本心を隠すことはして欲しくない。己が信念を貫き、世間を騙すための特別な手段としてそれを行使しなければならない。そう、「特別」が彼を変えるキーワードだ。私が彼を「特別」だと思うだけではいけない。彼自身が自分を「特別」だと思わなければ。
「君の世間からの離反はもう始まっている。それは私に自分の不安を話した時だ。初対面の私に、あそこまで心情を吐露できる者はそういない。だからあの言葉を贈ったんだ。君は特別な人間だ。特別な人間には特別な言葉が必要だ」
彼の瞳に激しい煌めきが灯る。自分を評価してくれる人間への感謝と驚きなのか、理解されたことへの喜びなのか、それはわからない。だが、彼は私を「特別」な人間と認め、自分の可能性に目を向けたのはいうまでもない。