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私はあの時、あの瞬間、あの場所で、美についてすべてを知った。風に舞う花びら、街灯に照らし出された桜花。それらが私に美を享受し、私と美を一体化させた。
そこから数メートル歩き、享受した美を再確認しようと振り返ると、そこには美とは無縁な、陰気な街路が続いているだけだった。私を取り巻いていた花びら、宵闇を切り裂く夜風、儚く照らし出された樹木は突然黙り込み、冷たく私をあしらう。その時、私に寄り添うのは孤独だけだった。私のために敷き詰められた花びらの絨毯は、途端に薄汚れたアスファルトへと変わり、私を拒絶する。私の中に芽生えた美への忠誠は夜風に吹きすさび、闇に消えた。私は悟った。私がこれほど美を理解し、美に身を委ねることは今後ないだろうと。その時、その瞬間に、その場所だけで、美は私にすべてを教えた。その瞬間にしか訪れないものだった。私はその時、美と同化した。美は私で、私は美だった。だが、美は去った。私がいくら望むとも。それ以降、あの美は訪れなかった。それは啓示だったのだろう。私を美に導くための、美を創り出すための。
あの日以来、私に第三の目が開眼した。表層の美を享楽し、深層の美を探り出す目。有機物と無機物が織りなす整然とした無味乾燥な世界が、無秩序で感情に溢れた混沌の世界に変貌した。今までなんの色も持たなかった私の行為が、誰かの行為が、不思議に色付き始め、美と醜悪が生まれた。私の信じた道、私の欲したものは極彩色に染まり、私はそれを美だと信じ、貪るように求めた。美を求め、美を受け入れ続ければ、私が望む美となれると信じて。
私の美が完成に近づくたびに、それは邪魔された。信念も持たぬ風見鶏な有象無象どもが溢れ返っていたせいだ。奴らの醜悪な感情が、振る舞いが私の美を汚す。私の繊細な美は、奴らの傲慢で醜悪な性質に影響を受け過ぎた。どれだけ奴らの影響を防ごうとしても、それは叶わなかった。奴らはこの世界に蔓延り過ぎていた。生まれ落ちたばかりの華奢で繊細な私の美は、私一人で維持し続けることができなかった。奴らの醜悪な影響が私の美を辱め、汚そうと日夜待ち伏せていたから。私は疲弊した――日夜続くこの戦いのせいで。そこで私は虚構と妄想の世界へと逃げだした。
無数の単語の羅列。それ一つでは役に立たないものが、作家の技法により意味を持ち、物語を創り出す。そんな小説の世界に私は心酔した。作家の創り出す世界、登場人物の感情、景色の描写、巧妙な比喩、それらは作家によって創り出された一つの美だった。揺るぐことのない、孤立した美。誰の影響を受けることもなく、改変されることのない完成された美。私の求めたものがそこには広がっていた。彼らの織りなす物語は、誰もが語ることのない心の奥深くに眠る思想であり、倫理であり、規範であり、真理であり、美であったから。それは世間が持つ画一されたものではなく、彼ら独自の独特なものだった。彼らこそ、私が議論を交わすべき仲間であり、師であった。彼らとの物語を通した一方的なやり取りが私を強化し、世間との劣勢を強いられた戦いを均衡へと導きかけていた。
彼らを味方につけても、この戦いを優勢に覆すことはできなかった。私の敵である世間は愚かで醜かった。だが、その愚かさにも醜さにも一定の秩序が存在した。それはいつでも大多数であることだ。彼らはそうして大多数であることに無意識に安心感を覚え、少数派を排除した。私が信じるものや、私の信奉する作家はどこまで行っても少数派でしかなく、世間の数の暴力に抗うことはできなかった。
なぜ私は受け入れられず、作家たちは――少なくとも作品については――受け入れられたのか。それは作家たちが作品をこの世に生み出し、世間から認められたからだ。それに対し、私はどうだろう。私は世間から認められる人間だろうか。――もちろんそんな人間ではなかった。傍から見れば世間と同じで、世間の方から見れば異端、どっちつかずで何物にもなれない、私が卑下する世間と同じ俗物でしかなかった。
「私はどうあるべきなのだろう」
そんな問いを抱きながらも、私は小説の世界に浸り続けた。来る日も来る日も幾多の世界を覗き見、完成された美をただ私の中にため込んだ。
いつものごとく虚構の世界を堪能していると、私はある物語に出会った。それはなんの気なしに手に取った、幾冊もの中の一つだった。それを読み始めて、すぐにこれが私の求めていたものだと気付いた。己が人生を、己がルールのもとに飄々と生きる様。登場人物の陳腐にも思える逆説に富んだ魅力的な言葉。美への飽くなき探求。自らの罪を、本心を偽るための際限ない嘘……。どの章、どの節、どの行を取っても、私に必要なもので溢れていた。一字一句が、私の血となり肉となっていくのがわかった。まるで、私を教え導くために存在するかのようだった。私がその物語を幾度となく貪るように読み返すたびに、作者の込めた意匠を新たに見つけ出し、私をより強固な砦へと増築していく。
いくらこの物語に浸ろうとも、主人公の最後を受け入れることはだけはできなかった。自らの罪の重さに、自らの醜さに耐えられずに命を絶つ……。私はそんな主人公の弱さだけは受け入れられなかった。醜くもがき、押しつぶされていく様。いつまでも宴が続くと思い込んでいた浅薄な思考。それまでは愚直に美を追い求め、すべからく美を見つけ出してきた主人公の陰惨で陰鬱で醜悪な最後。それらが完璧な物語を、私の追い求めていた人物像を粉々に打ち砕く。
なんて醜い最後なのだろう。美の化身と呼んで差し支えなかった主人公は、愚かにも自らを汚辱へと導き、醜い死にざまへと自らを追いやった。私には考えられなかった。あそこまで栄華を極めた人物なのならば、自らの終わりも豪奢に飾り立てなければいけなかった。主人公には何が足りなかったのだろう。彼はすべてを手に入れていたはずだ。富も名声も、女も師も、彼を崇拝する信者も……。
私は彼の悲惨な最後について長いこと考え続けた。どうすれば私の望む最後を、優美な結末を迎えられたのか……。
答えは唐突に現れた。それはふとした拍子に目に入った、艶めかしく浮かぶ月に誘い出され、痛いほどの静寂が鳴り響く街中を一人あてどなく彷徨っていた時だった。月の明るさに邪魔をされ、かすかに輝く星を眺め私は歩いた。通りは死んだように静かだった。辺りには誰もおらず、信号と街灯がいつか来るであろう通行人のために健気に輝き続けている。時折通る自動車だけがこの町もまだ生きていることをかろうじて思い出させる。気付けば古ぼけたアーチ状の歩道橋へ向かっていた。階段のない、ゆるい坂だけの歩道橋。黒く濁ったその坂をゆっくりと、誰に邪魔されることもなく登っていく。歩道橋の両脇には申し訳程度にレンガが積まれ、今は何も植わっていない花壇が今や遅しと主役を待ちわびている。思いのほか息の切れた私は、みすぼらしい歩道橋の頂上で一息つくことにした。古びた欄干に手をつき、呼吸を整える。掌に触れる剥げかけたペンキと錆びた金属が、この歩道橋も生きていることを、いつかは朽ち果てることを教えてくれる。死と哀愁が漂い、そこには盛衰の美が滲んでいた。この歩道橋は自らの運命を潔く受け入れ、抗うこともせず時間に身を任せている。達観した美。私にはない経験からにじみ出る、余裕ある振る舞い。おそらくいつかたどり着く境地なのであろうが、私にはそれに至るまでの経験がなかった。
死を待つばかりの歩道橋で、あの物語に思考を向ける。
主人公は友人に導かれ、変貌した。彼は創造物であり、創造主ではなかった。それが彼を悲惨な最後へと導いた所以なのだ。創造物である彼は、どこまで行くとも創造主の意向に従っていくしかない。創造主の描いたゴールへ向け、多少の脱線をしつつも難なく到達する。私が彼の最後に納得できなかったのは、創造することをせず、創造物の立場に甘んじ続けたことだ。彼は創造主になることができたはずだ。だが、既存の概念をこねくり回すことを創造と勘違いし、自らの可能性を唾棄した。それが彼の間違いだった。彼は創造しなければいけなかった。惨めで唐突な最後を迎えてはいけなかった。私は彼のようになってはいけない。創造物から脱却し、創造主へと変貌を遂げなければならない。自ら何かを想像しなければならない。
自らの最後を、自らの望む形で終わらせる。醜悪で、汚辱にまみれた最後であってはならない。あの主人公は、自らの美ゆえに傲り高ぶり、それが永久に続くものだと勘違いした。美とは一瞬の輝きにすぎない。いつかは終わりが訪れ、それを受け入れなければいけない。私はそれを桜花の舞うあの夜に享受した。唐突に訪れる醜悪な最後ではなく、計算づくされた甘美な最後を迎えなければならない。私が望み、私が選ぶ最良の方法で迎える最後。私はそんな最後を迎えなければならない。