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最高の物語  作者: 谷中英男
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「今日は何をしてたんだい?」


 酔い覚ましに立ち寄った真夜中の公園で、私はそう訊ねた。松田君はアルコールのせいか頬を朱に染め、私を見つめる。子供のように純粋な瞳が私を捉え、己の純真さを主張する。彼は何もいわず、視線を左右に泳がすだけだった。そんな彼の仕草に微笑ましさを覚え、質問の答えに期待を募らせる。

 彼の答えを待つ間、私は空を見上げていた。真っ黒な空には煌々と輝く月だけ。白く優しい光を放ち、辺りを淡く照らしている。

彼は黙りこくったまま足元を見つめている。辺りに優しく立ち込めていた静寂は徐々に気まずさを携え、私たちの距離を引き離そうと侵食し始める。それでも私はその静寂を受け入れ、彼の言葉を待ち続けた。

 足音だけが暗闇に響き渡る。彼への期待を胸に募らせながらも、退屈さに屈し空想の世界へ歩みを進めようとした。そんな私の雰囲気を察知したのか、彼はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。私に会うまでの出来事を……。

 彼が話したのはどこにでもある日常だった。なんの面白味もない平凡な日常。そんな日常を淡々と話す。彼の言葉には不安や焦りなんてものは存在しない。平凡さを迷いなく受け入れている。それは岩に彫ったたような無機質で無変動な表情からも窺える。具象画のように正確で、論文のように生真面目で面白みのない話。私はそんな彼の話に、すぐさま興味を失った。期待は儚く消え去り、失望が漂う。彼に向けられていた視線は自然と彷徨い、夜空に映える月に再び吸い寄せられた。

 現象をただ羅列し続けるだけの彼だったが、物言わぬ私に不安を覚えたようで、急に口をつぐんだ。私の顔を窺うような気配が感じられる。困惑と不安で歪んだ表情をしているのだろう。私は意地悪くも、その表情を拝もうと彼に視線を移した。

 月の光に照らし出された顔は、雪原に咲く一凛の白い花のように孤独で儚げだった。困惑と不安を湛えたその瞳は私を見つめ、私の言葉を待っている。放っておけば泣き出しそうな雰囲気を醸し出す彼に対し嗜虐心が芽生え、彼の表情の変化に魅せられながら問いかけた。


「君は嘘を吐いたことがあるかい?」


 私が口を開いたことに安堵を露わにした彼だったが、再び困惑の色を纏わせ、恐る恐る頷いた。そんな彼の行動に微笑ましさを覚えながら、語り掛ける。


「君の嘘は嘘ではないよ。私からいわせればね。君が思う嘘は、子供だましのお粗末なものだ。あんなものは嘘でもなんでもない。自分の過ちを隠すため咄嗟に現れたものか、保身のために仕方なく発せられた、醜い戯言だ。私がいっている嘘とは、美意識を備えた、信念あるものだ。私は君の口からそんな美しいものが紡がれるのを期待したんだが……」


 彼は不満そうに口を歪ませ、「そういう嘘を求めているのなら、いってくれればそうした」といった。彼の言い訳がましくも愛らしい言葉が私を刺激し、彼を諭す。


「君にはできないよ。本当に君がそういう嘘を吐けるのなら、私の問いにそう答えていたはずだから。それに、君は私のいう嘘を理解できていない。私の吐く嘘は多分に真実を含み、誰かを惑わす。その嘘を聞いたものは、自分の愚かさを隠すために知った気になって、私に話を合わせ、それでおしまい。それについて調べることもせずに、私の言葉を鵜呑みにしたまま、時にはそれを自慢げになって吹聴する。嘘が真実に取って代わってしまうんだ。この話を聞いても、君は私のいう嘘を吐けるというのかい?」


 彼は煮え切らない表情をしたまま、反抗するように「嘘は吐くべきではない」とつぶやいた。


「君のいいたいことはわかる。嘘は人を騙す姑息な手段だといいたいんだろう。だがね、君はこの問題の一部分しか見えていない。騙される側にも問題があるということをわかっていない。人のいうことをなんでも鵜呑みにして、わかった気になっている愚かな人間がいるから、嘘なんてものが存在するんだ。そんな愚かな人間が、私のような人間に嘘を吐かせるよう仕向けるんだ。きっかけは彼らなんだ。真面目腐って聞き入るふりをする醜く太った男や、けばけばしく飾り立て自分にしか興味のない勘違い女、なんでも分かった気になっているいけ好かない奴ら、そんな俗物どもが自分でお膳立てして、私の掌の上で勝手に踊っているんだ。いつまでも受動的で、他人任せで、探求心の欠片もない奴らに嘘を吐くことは許されないのだろうか? 答えは否だ。自業自得なだけだ。いつまでも成長しない彼らのせいだ。少し考えればわかるはずだ。私は彼らを騙して財産を奪っているわけじゃない。彼らに知識を得る機会を与えているんだよ。それを活かすかどうかは彼ら次第だ」


 彼は依然納得できていないという顔をして、地面を見つめている。当然だ。誰だって自分のことを否定されればいい気はしない。彼の場合は露骨に態度に表し過ぎだが、そんなところも彼の魅力の一つだ。


「この世に嘘は溢れている。それは君にもわかるだろ? 映画やドラマ、小説なんてものが最たる例だ。誰もが愛し、受け入れ、この世に蔓延っている。君が嘘を否定するとしたら、それらも否定することになる。君はそれとは話が違うというかもしれないが、それは間違いだ。映画や小説だろうが、私の嘘だろうが、それが偽りであるのには変わりなく、その事実を素直に認められるかどうかだ。そして、私のいう嘘とは、醜く見るに堪えないものを飾り立て、華やかで美しいものにさせることなんだ。映画やドラマ、小説と同じもの。一部の才能ある人間にしか創ることのできないもの。フィクションを創り上げる才能人を批判する人間がいるだろうか。もちろん、作品の善し悪しについての議論はある、だが、フィクションを創ったからといって、批判する人間はいない。それと同じことが私の嘘にもいえる。私のいう嘘は一つの作品。嘘のできについての批判は歓迎だが、嘘を吐いたことについての批判はお門違いだ」


 彼の困惑は混沌を極めているようだ。眉間に皺を寄せ、私の話をどうにかして飲み下そうとしている。そんな彼の表情に目を向けながら、少し間を置いて彼の出方を見守ろうとしたが無駄だった。私の口から湯水のごとく言葉が溢れる。


「確かに嘘は真実を覆い隠す。地表を覆い隠す雪のように。だが、真実とはいかなる時も美しく正しいことだろうか? もちろんそんなわけはない。白く輝く雪の下に、泥にまみれた地面が隠れているのと同じだ。真実は残酷だ。そして、醜悪だ。人を傷つけ、現実を突きつける。人は年を取り、草木は枯れて、同じ風景は二度と拝めないのと同じだ。それを承知で真実のみを求めるのなら、私は止めない。残酷さと醜さに彩られた真実の世界だけに住まえばいい。だが、真実の残酷さや醜さに耐えられるだろうか? 耐え続けることができるだろうか? もし耐えられるというのなら、なぜ真実しか身にまとわない人がいないのか? 誰もが大なり小なり嘘を吐き、嘘がはびこる世界で生きている。それはなぜなのか? それは嘘がなくてはならないものだからだ。誰もが本能的にそれを理解している。真実を知り、苦難の時を過ごすより、嘘で覆われた美しい空間で時をすごす方が良いことを。真実を知れば、もう後戻りすることはできないということを。真実を受け入れれば、嘘で固められた甘く麗しい世界は姿を消し、醜悪で厳しい真実の世界が待ち受けているということを」


 彼は私の話に聞き入り、何もいえずにいる。眉間の皺は消えていた――困惑の表情とともに。


「忘れてほしくないのは、私がすべての嘘を肯定しているわけではないということだ。私は美しい嘘を愛する。多分に真実を含み、他人を惑わす嘘を。そして、その嘘があたかも真実であるかのように働きだすのを望んでいるんだ。すなわち、騙された人間が騙されたことに気付かずに、真実と信じる嘘を誰かに教え、その嘘で騙された誰かが、再びその嘘を知らない誰かに教える。嘘の連鎖が生まれ、真実を知る人をも騙してしまう。そんな嘘こそ私が望み、愚かにも君に求めてしまったものだ」


 彼は依然として黙りこくったままだった。

 陰鬱な公園に別れを告げ、住宅街へと歩みを進める。

 深く眠りについたこの場所は、なんの気配も感じられない。

 うるさいほど静まり返り、私たちの足音だけが時を刻むようにこだまする。

 彼の表情からは何も窺い知ることはできなかった。ただ無表情に月を見つめている。私はその虚無に見惚れた。白く輝く肌に映える無に偽りを見つけたから。

 彼は私を無視することはできない。彼は礼儀正しく、忠義を重んじる男だから。それに反し、あたかも物思いに耽り、私を無視するかのような行動に出ている。静寂に一人残され、淡く輝く月に見惚れているふりをする彼。心の中では私の話に興味を抱き、私の話を求めている。だが、世間一般のいう常識や世間体を忘れ去ることができず、私と世間の間で揺れている。彼は常識を取るだろう――今この時は。そして、私に反発し憎悪を抱くかもしれない。だが、その憎悪はいつしか融解し、私の言葉は彼の血となり肉となるだろう。私にはそれがわかる。興味を抱いていないのならば、反発や憎悪なんて感情は生まれない。

 迷路のような住宅街を抜け、気づけば町を見下ろす高台まで来ていた。どちらかともなく足を止めた。頭上には月だけが艶めかしく輝いている。視線を眼下に広がる街並みへとゆっくり向ける。そこでは孤独に浮かぶ月を憐れむかのように、町が星空のごとく光輝いていた。その輝きが孤独をより実感させ、苦しめているとも知らずに……。

 相も変わらず、私たちの間には沈黙が横たわっていた。私はこの沈黙を受け入れ、偽りの星空を楽しもうとしていた。彼はこの沈黙に耐えられず、話しかけるタイミングを窺っているようだ。私に悟られぬように、密かに視線を向けている。子供のようないじらしさを感じる行動に、心が温まるのを感じる。それと同時に、失望がにじみ出る。純真と謙虚に対する失望が……。確かに純真と謙虚は彼の魅力の大きな部分だろう。ひたむきに物事を取りくみ、相手を慮る姿――その振る舞いが人々を惹きつけ離さない。だが、純真と謙虚は視点を変えれば幼さと臆病にもなる。ものを知らなくともなんの恥じらいも抱かず、溢れ出るいらだつほどの「なぜ」。相手の反応を窺い過ぎるがために己が主張は掻き消える。私が望む彼にそんなものは必要ない。無知を嘘で覆い隠し、どこまでも傲慢に自分の意志を貫く。そんな強さを私は望んでいる。

 私は眼下に広がる家々を眺めながら、彼の視線には答えず、彼の出方を見守ろうとしていた。彼には試練が必要なのだ。私の望む彼になるための。無数に光る偽りの星々が、唐突に思い出させた。彼と出会ってからの歳月を。彼と出会い、私の話を聞かせたのはほんの数回。その彼に私の求めるものを感じ取るのは難しいだろう。彼の心はまだ幼子にすぎない。非情で冷酷な現実や、醜悪で残酷な人間との接触を受け入れていない。美しく温かい世界しか知らない。そんな彼に私の真意を汲み取れというのは無理な話だろう。まだ私の外面を把握することさえ満足にできていない状態の彼には。

 焦る必要はないのだ。じっくり物事を進めなければ。これは私と彼に下された試練なのだ。彼は私の色に染められ、私は彼が染め上がるのを辛抱強く待ち続ける。

 幸運にも訪れた絶好の機会を逃してはならない。

 密かに私を窺う彼を逃さぬよう、不意を突くように視線を投げかける。一瞬、お互いの視線が重なり合ったが、彼はすぐさま下を向いた――自らの不甲斐なさから目を背けるように。それでも私は彼を見つめ続ける。彼のため、私のために……。彼の顔は薔薇のように真っ赤に染まった。その変化にまたしてもいじらしさを感じ、好意が湧きあがる。好意が私を飲み込み、彼を純真さの象徴にさせようと誘惑する。誰もが求め、誰もが羨むもの、気づいた時には失っている儚いもの。それは彼を今以上に魅力的な存在へと昇華させるだろう。だが、そんな儚い存在はこの世界では生き残れない。この世界は厳しく残酷だ。誰もが所持し、いつの日か失ってしまった存在を世界は否定する。あたかも、そんなものは存在していなかったかのように。彼にとってこの世界は醜すぎる。エデンの園のように純粋で美しい世界しか彼を受け入れることはできない。だが、そんなものは存在しない。夢物語でしかなく、彼はどこまでも異端な存在になってしまう。ならば彼をこの世界に適応させよう――私の望む存在へと創りあげるだけでなく。

 依然として薔薇を咲きほこらせる彼の顔を見つめながら、私はつぶやいた。


「君は幸せ者だよ……」


 私の言葉が聞こえていなかったのか小首をかしげて、彼は私を見つめた。目を合わせることを避けていたのが嘘のように私を見つめ、私も彼を見つめた。彼は目を逸らさなかった。私たちは見つめ合った――まるで二人だけの世界に入り込んだ恋人のように。二人の間に気まずさなんてものはなかった。心地良い沈黙が漂い、二人でそれを分かち合った。それもいつかは終わらなければならない。終わらせなければならない。まどろみから抜け出すように、私はしぶしぶ口を開いた。そんな態度はおくびにも出さずに。


「君もいつしか嘘を吐かねばならない」


 私の声が沈黙を切り裂き、静かに響き渡る。沈黙を分かち合った優しげな瞳は消え去り、憎悪と悲哀に満ちた光が宿った。両手は固く握られ、怒りのせいか小刻みに震えている。彼は「なぜそこまで嘘にこだわるのですか」と怒りを押し殺しながら私に問いかけた。

 私は彼の問いを無視した。語らなければいけなかったから――彼のために。彼が知らなければいけない世界のことを。それを語れば、彼も私の真意が汲み取れるかもしれない。


「嘘を吐くというのは、自分の心を曝け出すことだ。なぜなら、本来語られることのない心の中の妄想を言葉にし、紡ぎださなければいけないからだ。そして、その妄想を自分の中で真実にする。己を信じさせなければ誰も騙すことはできないからだ。もし、自分が信じることのできない出来損ないの嘘を吐けば、ほとんどの人間は信じないだろう。仮に騙せたところで、その醜悪な代物はすぐさま白昼のもとに曝されてしまう。そうならないために自分を騙せ。自分に嘘を吐き、その嘘を自分の常識にし、真実にする。そして、騙すためにその常識を話すのではなく、真実を教えるために誰かに話す。何気ない会話の端々に潜みこませ、呼吸をするように自然に嘘を吐く。最初のうちはバレてもかまわない。笑って相手を称えればいいだけだ。より巧妙で現実的な嘘をまたの機会に用意すればいい。そのために、日頃から準備を欠かさぬことだ。その嘘のために立ち居振る舞いや言動をコントロールしろ。人は細かなところを常日頃から無意識に見ているものだ。ちょっとした声の調子や、くだらないマナーで相手に対する印象が変わる。それを逆手に取り、うまく利用するんだ。もちろん、自分の中で譲れないものまで装飾する必要はない。突き通したいものがあれば、突き通せ。もし、突き通すべきものがないならば作るべきだ。その突き通すべき何かが、嘘に、振る舞いに、マナーに真実味を持たせる。誰もが信念を持つ人間には尊敬を抱く。尊敬を抱く人間には、疑いなど抱かない。そうやって、無意識に信じるに値する人間になるんだ。相手を自分のフィールドに誘い込み、自分の思いのままにするんだ。そうやって嘘のための環境を整える。そこまでしてやっと、嘘を吐く権利が、価値が得られる。ただの思い付きで、後先考えずに嘘を吐く人間には、そんなことをしようという思考はない。その場を切り抜けるための醜い嘘しかない。そんな軽薄な人間のせいで嘘は醜悪なものというレッテルを貼られてしまったんだ。だが、嘘はそんなものであってはならない。選ばれし者の、高貴な駆け引きでなければならない」


 彼は私の話を受け入れられないのだろう。再び眉間に深い皺を寄せ、通り雨に打たれたような顔をしている。気に入らなければ真面目腐って聞かなければいいものを、彼は真摯に聞き入っている。まったく素直な男だ。彼は一言一句聞き流さない。それが彼の流儀だから。どんなくだらない話でも彼は真剣に聞き入るだろう。そして適切な回答をいくつも用意しようと奮闘する。それが彼の信念なのだ。そんな強固な信念が必要だ。彼が変わるためには。

 長いこと彼は考え込んでいた。私に反論するためなのか、それとも私の話を理解しようとしていたのかはわからない。ただ、一人で黙り込んで、夜空を見上げていた。

彼の思うままにしておこうと、私はタバコに火をつけた。ゆっくりと紫煙を燻らせ、私も夜空を見上げる。慈悲深い光が私の瞳に映り込む。そこには聖母のような優しさで私たちを包み込む月がいた。月は私たちを見守るためだけに存在しているかのように感じられた。

 私は彼の方に視線をやった――無意識に孤独と儚さを探し求めて。しかし、私の求めていたものはなかった。そこには白銀の神々しい光に照らされ、理知と勇気を湛えた人間がいた。常識という名の剣を持ち、私という敵に挑む勇ましい戦士が。

 そんな彼を見つめながら、予想以上の変貌に困惑した。彼はほんの短時間で、ここまで成長したのだろうか。それとも、私にバレぬよう隠し通してきたのか。疑惑が頭の中を駆け巡りだしたが、そんなものはすぐさま消え去った。彼を見つめ続けていたから。彼は甘い芳香を放つ花のように私を惹きつけ離さない。私の思考は彼の魅力を貪ることに集中し、彼を見つめ続けた。彼の新しい一面を垣間見たという事実に震えた、歓喜した。

 彼は確認するように、ゆっくりと正確に私に問いかけた。


「大門さんの考えについてはわかりました、わかったつもりです。でも、それを世間は受け入れるでしょうか? もし受け入れる人がいたとしても、それはごく少数で、大門さんの行為が認められるというわけではないはずです。それでいいんですか?」


 彼の新しい一面のせいで私の思考は霞がかかったように神秘的で不明瞭だったが、彼の言葉をゆっくりと噛み締めていくうちに、ゆっくりと晴れ渡っていった。

彼の言葉を心の中で反芻し、彼への返答をゆっくりと構築していく。彼は私が言葉を紡ぎだすのを恐怖と喜びが入り混じった複雑な表情で見つめていた。


「私は世間など気にはしない。たかが世間だ。世間などというのは、くだらない常識をなんの疑いもなく迎合する愚かな集団にすぎない。そんな連中に受け入れられたところで何が得られる? 周りと一緒だという安心感? 大多数に属しているという優越感? それらが得られたところで、一体なんの役に立つというんだ。自らの個性を唾棄し、周りと同じになった瞬間、私は私ではいられなくなってしまう。君は否定するかもしれない。個性ある人々が、各々の選んだ道を自由に進んでいると。だが、所詮それはまやかしだ。世間が用意したいくつかのレールの上を、世間の見えない圧力を受けて、選んでいるかのように錯覚しているだけだ。それを世間は個性といい、自由と呼んでいるに過ぎない。自由や個性とは程遠い醜いものを押し付けてくる下卑たる存在になど、私は認められたくない。そんなものは無視して、私は私のやり方を突き通す。私のルールに従い行動する。私のルールに則り他人を判断する。その中に、私の嘘についての解釈が存在しているわけだ。世間はそんなことを受け入れないだろう。だが、そんなことは構わない。私が私の唯一の主人なのだから。世間が認めないから嘘は吐かない、などという愚かな判断はしない。私が認めたのなら、それが最良なのだ」


 私の思考を彼に一気に吐き出した。彼の反応など気にはならず、私は一息ついた。目の前には徐々に色付き始めた空が広がっている。言葉で形容できぬ絶妙な配色が私の目の前に広がり、私たちを見守る月は姿を消していた。もう日が昇る。世界に朝を告げる光が、希望を象徴する光が満ちようとしている。もうそろそろ潮時だろう。彼との邂逅はお開きの時間だ。最後に彼に伝えておかなければ。


「それに君は勘違いしているよ。嘘とはバレなければ嘘にはならない。すなわち、世間がどれだけ私に騙されようと、その事実に気づかなければ、真実であり続ける。だが、そこに私が直面している一つの問題がある。嘘は完璧であればあるほど、バレることがない。ひとたび私の嘘がバレてしまえば、嘘としての価値がなくなってしまう。世間を騙せば騙すほど私の嘘の価値は高まるが、私の嘘を評価するものがいない。バレてしまえば、その嘘はその時点でなんの価値もなくなってしまう――どれだけ世間を騙せていようとも。皮肉なことに、私の嘘を評価できるのは私が忌み嫌い蔑んでいる連中だけなのだよ。私が認めぬ連中に評価してもらわなければ、私の存在は認められない。本当に皮肉なものだよ。そんな皮肉な現実にこそ、真理が潜んでいるのだろうがね」


 そう彼に告げると、彼の反応など気にもせず、最寄りの駅へと歩みを進めた。彼は私の後ろをおずおずと付き従っていた。先ほど垣間見せた雄姿は鳴りを潜め、純真と謙虚が幅を利かせている。いつもの彼だ。だが、確実に成長している。


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