あなたに良い夢☆ドリームパンチ!
「――空想加工、【誰もが笑顔で眠れる夜】」
……【それ】は、叶うべくもない空虚な夢想。
絶対に実現などしない。
きっと幼児ですら「そんなの無理だ」と鼻で嗤う。
だからこそ【それ】を追い続ける鋼の心は、
時に怪獣をも殴り殺す力に成り得る。
「……さて、少年。この世で一番つまらないものとは何か、知っているかい?」
黒鋼に包まれた拳を振りかぶって、お姉さんは笑った。
「他人が見た悪夢の話さ」
禍々しい怪獣が、迫ってくる。
その巨大で獰猛な爪で、牙で、お姉さんを八つ裂きにしようと――
「だから、こんな夢はとっとと終わりにしよう」
黒い拳が、一度だけ振るわれた。
それだけだ。
その一発で、怪獣は粉微塵に吹き飛ぶ。
その余波で、この世界に蓋をしていた暗雲に風穴が空く。
暗雲の風穴から差し込んだ光は、まばゆい虹色。
虹の光は、まるでスポットライトのようにお姉さんの微笑みを照らし出した。
「さぁ、少年。今夜からは、楽しい夢を見られるよ」
◆
白冨寿リリは、今をトキめく女子高生。
短く切り揃えた髪と吊り上がった目つきが特徴的。
最近は寝不足気味で薄っすら隈が出て、目つきの悪さに拍車がかかっている。
「はー……まだ春だってのに、暑いったらないわ……」
アイス買わなきゃやってらんないっての。
と言う事でリリは、購買部への渡り廊下を突き進む。
授業はとっくに始まっているのだが、彼女の足取りに躊躇いは無い。
授業を抜け出した……訳ではない。
そんな不良みたいな事はしない。
少し遅めの登校からの、教室に行く前に購買部によっちゃお☆と言う実に賢い発想だ。
「ん?」
掲示板の前を通り過ぎようとした時。
ふと、ポップな色使いのポスターが目にとまった。
ポスターの中央には、虹のような色使いとキュートなフォントで大きく「考えよう、ポペートール週間」と書かれている。文字の周りには、デフォルメされたゴリラやオオカミが散りばめられどいつもこいつも陽気にこちらを威嚇(?)していた。
「……はぁ……」
……うんざりだわ。
肺ごと零れだしそうな深い深い溜息を吐き捨てて。
リリはポスターから目を逸らした。
――ポペートール症候群。
または獣夢性睡眠障害。
眠ると必ず「獣のような何かに襲われる悪夢を見る」と言う病気だ。
小型の獣にちょっと噛まれる、くらいの軽度な症状を含めれば、一〇〇人に一人程度は罹患しているとされるポピュラーな現代病。治療法も確立されているし、大概は放っておけば勝手に治るのだとか……まぁ、風邪のようなものだ。
しかし「風邪も侮れば致命傷」と昔の人は言った。
ありふれた病気だからって、必ずしも無事に根治できるとは限らない。
症状を自覚したら、すぐに治療を受ける事が推奨されている。
「……ちょっと寝覚めが悪くなる病気ってだけで、大袈裟なのよ」
テレビのコマーシャル。
通学に利用するバスの中吊り。
まとめサイトや動画の広告。
果てはこんなさびれた掲示板のポスターにまで。
世間様はご病気に敏感すぎる。
「……放っとけば治る症例も多いって、医療系ユーテーバーもみんな言ってるし」
「軽症で済む例が多いだけだ。全部が全部、そうじゃない」
不意に、背後から声が。
「その声は――げっ、やっぱり黒志摩……!」
「……クラスメイトの顔を見て『げっ』はないだろう」
それは酷いと思う、と眉をしょんぼりハの字にする男子生徒。
彼の名は黒志摩ジュウスケ。リリのクラスメイトである。
リリはジュウスケが苦手だ。
別にジュウスケに何かされた訳ではないのだが、体つきが良くて、顔も良い。更には声まで良い。そして当然のように性格だって良い。困っていたらすぐ助けてくれる。控えめに言っても好きだが、リリの思春期がその感情を素直に処理させてくれない。なのでこの世で一番、苦手だ。
リリはすぐさまジュウスケから距離を取り、ネコ科の何かのように毛を逆立てて威嚇する。
「あんた、今は授業中よ!? 何でこんな所にいる訳!? 不良じゃん!」
「すんごい勢いでブーメランを投げるんだなキミは」
ジュウスケは「どうしてキミはいつも俺を威嚇するんだ……?」と困惑しつつも、リリの質問に答える。
「何故ここにいるかと言えば、教室の窓からキミが見えたからだ」
「……え? あ、アタシに会うためにわざわざ授業を――」
「保健室はあっちだぞ」
「……………………」
一緒に行こう、と、にこやかに笑うジュウスケ。
リリはそれですべて察した。
先の発言は、「教室の窓から(体調が優れない様子の)キミが見えた」と。
そして、向かう先がどうも保健室ではない……なるほど、体調が悪すぎて、保健室がどこにあるかわからなくなってしまっているのか! それはいけない、助けに行こう。
……そんな所だろう。
そんな優しい所も好き!!
と叫びそうになるのを抑えて、リリはグッと立てた親指をゆっくり下に向ける。
「地獄に落ちろ」
「いきなりどうしてなんだ!?」
「(気遣ってくれたのはめっちゃ嬉しいけど、それはそれとして)心底ガッカリしたからよ!!」
「おい、あまり大きな声は出さない方が良いんじゃないか……? 少しフラついているし……」
「放っといて! ちょっと寝不足なだけだから!」
これ以上のあんたとの接触は心拍数の都合で耐えられないわ!
と心の中で威勢よく叫び、リリはジュウスケに背中を向ける。
「寝不足って……おい待ってくれ白冨寿、少し詳しい話を――」
「絶対的に断固拒否!!」
「そこまで!? どうしてなんだ!?」
必死に呼び止めるジュウスケの声を振り切るように、リリは足早に購買部へと向かった。
「ったく……朝から心臓に悪いってのよ……あードキドキする……ってかバクバク?」
心臓が痛い。
「アタシって、意外と乙女よねー……自分で自分がハズいわ……」
心臓が軋む。
「……?」
心臓どころか、胸全体が熱くなる。
「っかしいな……いつもなら、割とすぐにおさまるの、に――」
こぽっ……と言う音を立てて、喉の奥から何かが溢れ出した。
熱くて、どろっと重くて、鉄臭い。
「……ぃ……?」
血……? と言う一音すら、まともに紡げなかった。
制服の胸元に、じわじわと赤い染みが広がっていく。
まるで、獣の爪痕のような三本の筋から噴き出すように、熱い鮮血が、溢れ出していく。
「――、――」
声どころか息すらも吐けず、リリはその場に崩れ落ちた。
◆
「…………あ……?」
目を開けたら、見慣れた景色が広がっていた。
リリが通う学校の中庭。中央に大きなガジュマルの木が植えられている。
空は黒々しく厚い暗雲ですっぽりと蓋をされてしまっていた。
「……これ、いつもの……夢?」
そう、これは、現実でも夢でも見慣れた景色。
ここ一か月ほど、リリが毎日みる夢は、いつもこの光景から始まる。
「だとすると……そろそろ、あいつがくるわね……」
あいつとは、この夢の中に必ず出てくる犬の事だ。
犬種はよくわからない。たぶん雑種の小型犬。
いつもいつも、夢の中で鬱陶しいくらいにじゃれついてくるのだ。
ずっとずっと、本当に鬱陶しいくらい。引きはがしてもすぐ擦り寄ってくるし、逃げても回り込まれる。
おかげか、朝起きると疲労感がすごい。
ああ、これがウワサのポペートール症候群か……と気付いたのはつい最近。
世間で言う軽度な症状と言う奴なのだろう。
最初は病院に行こうかとも思ったけど、大した被害は感じていないし。
病院は面倒くさいし……何より、ポペートール症候群の治療法を聞いて、「絶対に嫌」と自然療法で行く決意を固めた。
「…………あれ? そう言えばアタシ、何で夢を見てるんだろう……? 購買部に向かっていたはずじゃ……」
眠りに落ちる前の記憶が曖昧だ。
何故か胸に違和感がある。
胸を押さえて首を傾げていると――
「わおぉおん……」
「……え?」
いつもとは違う地鳴りのような鳴き声に振り返り、リリは絶句した。
そこにいたのは、いつもの小型犬ではなかった。
デカい。ひたすらデカい、黒い大犬。
前脚で無造作にガジュマルの木を踏み折って、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「………………え、デカくない?」
「わふふふ……さっきまでここにいた小物なら、ワシが食っちまったのだわおん」
「喋ったァ!?」
割としっかり目に喋った!!
大きな犬が、喋った!!
「わふふふ……小物がじわじわ【夢パワー】を削った易い獲物を横からグワァときてガァーっとかすめとる作戦、見事に成功なのだわおん。もはや今日が貴様の命日だわおん」
「は……? いや、あんた一体なにを言って……」
「はじめましてだが貴様を殺す、と言っているのだわおん」
「殺……!?」
そんなバカな。
今朝まで、少し寝覚めが悪くなるくらいで大した害も無い小犬しかいなかったはずだのに。
ポペートール症候群なんて所詮、風邪と変わらないような――
――風邪も侮れば致命傷。
――ありふれた病気だからって、必ずしも無事に根治できるとは限らない。
――「軽症で済む例が多いだけだ。全部が全部、そうじゃない」
ああ、そうだ。
人は誰しもが見落としてしまう。
確かに、風邪で死ぬ人間はいない。
だがそれは、風邪がトドメになった人間がいないと言うだけだ。
風邪で弱った所に肺炎や腸炎その他さまざまな病気を合併し、死亡する事例はいくらでもある。
たかが風邪と油断して、人は死ぬ。
それと同じ事が、今この悪夢の世界で起きているだけ。
「そん……な……」
「わふふふ……さぁ、ワシは待てなぞ聞かぬぞでわおん」
「――怪獣クラス……いや、喋る知性があると言う事は、魔獣クラスの悪夢獣だな」
「ッ……!?」
中庭に、声が響き渡る。
よく通る、若々しさは充分だけどそれでいてちょっと低めの素敵ボイス。
リリは好きと言うほど聞き覚えがある声だった。
「わぬ……? 貴様、何者だわおん!?」
大犬が吠えた先、校舎の屋上に仁王立ちしている男――その姿は間違いなく、ジュウスケ!!
「獣に名乗る名前は無い!! とうっ!!」
威勢よく言い放って、ジュウスケが跳躍!
そしてリリと大犬の間に割り込むようにスタッと着地した!!
すごい高さから飛び降りたはずだのに軽やか!
しかし当然、だって今ここは夢の世界だから!
「な、何であんたが私の夢の中に……って、まさか……!」
「そのまさかだ! まだ六等級だが……俺は悪夢獣討伐権限――ポペートール症候群治療免許を持つ【悪夢祓師】だ!」
「チェンジで!!」
「どうしてなんだ!?」
「決まってんでしょ!?」
ポペードール症候群の治療法は二つ。
自然治癒を期待しつつメンタルと体調のケアに終始する消極的治療。
そして、専門のライセンスを持った【悪夢祓師】が睡眠領域――要するに夢の世界に介入して、病原である悪夢獣を討伐する積極的治療!
前者は基本、持病などの関係で睡眠領域への介入が難しい患者にのみ適用される。
つまり、普通の患者はまず間違いなく後者で治療される!
故にリリはポペートール症候群に罹患している事実を隠していた!
だって――他人が自分の夢の中に入ってくるなんて絶対に嫌!
思春期ならば当然の事!!
ただでさえそれだのに……片恋相手が入ってくるなんて!
病気の前に興奮で死んでもおかしくないじゃあないか!!
故にリリは速やかなチェンジを希望した!
決して嫌な訳ではない!
むしろジュウスケが自分の中にいるこの状況は奇妙な倒錯的多幸感すらある!!
でも止まれない思春期がチェンジを要求してしまうのだ!!
「一刻も早くチェンジを――」
リリの言葉を遮るように、巨大な影が落ちる。
それは、リリとジュウスケを狙って振り下ろされた大犬の前脚――わんわんパンチ!
「危険を察知!!」
「え、ちょ、きゃああ!?」
大犬のわんわんパンチをいち早く察知したジュウスケ!
素早くリリを肩に担ぎ上げ、その場から跳躍!
見事わんわんパンチを躱してみせた!
「わおん……! 外したか!」
チィッ! と大犬は牙を剥き出しにして敵意満開の舌打ち!
「おのれ忌々しきドリームパンチャー……! いつだってワシらの邪魔をする!」
「健全な睡眠を邪魔するお前たちよりはマシだ」
「それは良いから下ろして! 接触率が! 接触率が高い! 死ぬ!」
「大丈夫だ! 接触率とやらが何かを指すのかはわからないが、睡眠領域では悪夢獣の攻撃以外で死ぬ事はないぞ!」
「そう言う問題じゃあねぇのよォォォォォ!!」
今は春先。つまり、冬に蓄えてしまった負の遺産がお腹周りでぷにぷにな訳だ。
そこに、がっつり意中の男子の肩がめり込んでいる。
=相手にぷにぷにが伝わっている!
乙女に取っては致命傷に匹敵する事実である!!
「どう言う問題かはわからない。だがすまん! とにかく今はキミを放せない! 何故なら時間を稼ぐ必要があるからだ!!」
「そこは『今はキミを放したくない』って言い回しでドキっとさせなさいよスカタン! って、あんたドリームパンチャーなんでしょ!? 悪夢獣をパパっとやっつけるのが仕事じゃないの!?」
時間を稼ぐ、とは一体どういう事なのか。
「俺は六等級だ! 猛獣クラス以上の悪夢獣との戦闘は禁止されている! もし猛獣クラス以上と想定される悪夢獣発生睡眠領域に立ち入る場合は、事前に四等級以上のドリームパンチャーに連絡し、睡眠領域内にて患者の護衛に専念する! そう言うマニュアルだ! キミは現実に獣創痕が出ていたため最低でも怪獣クラスと判断、既に連絡はしてある!」
「へぇーそうなんだ詳しく説明ありがとうそして聞いといてごめん早く避けてぇぇぇーー!!」
ジュウスケが丁寧に説明してくれいる内に、大犬が狙いを定めてこっちに突っ込んできた。
「戦闘は禁止だが防御は禁止されていない! 白冨寿、しっかり捕まっていろ!」
そう言って、ジュウスケは大犬に向けて手をかざした。
「空想加工! 【世界平和】!」
ジュウスケの号令に応えるように、大犬にかざした手が黒い光に包まれる!
黒い光は一瞬にして、刺々しい黒鋼の手甲へと変わった!!
「おお、何かカッコいい!」
「対悪夢獣術式・空想加工だ! 人が見果てぬ理想を追求する果てしない【夢パワー】を武器に変換する! 加工時に描いた夢への情熱が、そのまま武器の出力になる!! この手甲は俺が世界平和を願う夢パワーで出来ている!!」
「要するにやりたい事とか目指しているものへのモチベーションを武器にしてるって事ね!?」
「その通り、だァァァァ!!」
ジュウスケが叫ぶ。
黒い手甲から、黒く透ける巨大な板――黒光のシールドが展開!!
「ぎゃわんぬ!?」
大犬の猛烈な突進をも、黒光のシールドはあっさりと防いでみせた!
「……と言っても、所詮、俺はまだ六等級……どれだけ情熱を注いでも拙い技量で紡がれる術式では限界がある……! そして相手は魔獣クラス……! 救援が来るまで持つかは正直不安な所もあるが!! 俺が目指すは世界平和だ! 魔獣クラス一匹程度に負けてやっている暇は無い!!」
「フッ……立派な口を叩くようになったね、ジュウスケくん!」
「ッ、その声は――」
芯のある声と共に降って来たのは、黒いメンズ向けスーツに身を包んだ女性。
艶のある黒髪はとんでもない毛量で、小学生くらいなら覆い隠せそうな巨大な三つ編みを形成している。顔にはこじゃれたスポーツサングラスに、火の点いていないカッコつけの咥えタバコ。
「逸等級ドリームパンチャー、黒斑テツコ、ただいま参上!」
「師匠! うおおおおお! 師匠が来てくれたぞ白冨寿ィ!!」
「え、いや、誰? 師匠? あんたの?」
バカみたいな巨大三つ編みお姉さんの登場に、バカみたいにテンションをあげるジュウスケ。
一方、リリは「全く知らない芸能人がどや顔で出てきた」ぐらいの印象である。
「師匠は俺の師匠で、一等級の更に上――世界でも七人しか認定されていない逸等級のドリームパンチャーなんだ!! めっちゃくちゃ強いんだぞ!! ついた異名は【黒色大好のテツコ】!」
「その異名は実力無関係なタダのアダ名だけど――その通りだよ少女! ボクが来たからにはもうそれはそれは安心安全! なんたってボクは一等級より更に上――世界でも七人しかぷぎゅん」
言っている間に、大犬のわんわんパンチがテツコを叩き潰した。
「………………師匠さん潰れたんだけどォォォォォォォ!?」
「ふっ、甘いな白冨寿。師匠なら平気だ」
ジュウスケは確信めいて言う。
「今に、無傷のドヤ顔であの悪夢獣の前脚を退かして立ち上がるぞ!」
「…………たす……けて……」
「助けてって聞こえたんだけどォォォォォオオオオ!?」
大の大人が高校生に助けを求めるってもうそれ以上は無い窮地だとリリは思う。
「いや、『この程度で攻撃のつもり? 片腹い【たす】ぎ。ふざ【けて】んの?』と言ったんだろう。さすが師匠」
「ポジティブ解釈!!」
ジュウスケは「さすが師匠」とマジな顔で言っている。
「ああ!? って言うかあの犬えげつない! 前脚をぐりぐりしてる!!」
「ドリームパンチャー死すべし。慈悲は無いのだわおん」
「師匠だから平気だ」
「…………んにゃ、ぁ、あああああやったらァァァアアアアア!!」
この弟子は助けてくれねぇ!! と諦めたのか。
ヤケクソパワーを発揮したらしい血まみれテツコがわんわんの前脚を持ち上げて立ち上がった。
「わぬ!? な、なんてパワーだわおん!?」
「あああああああああああ根性ですけど何かぁぁああああああああ!?」
「あ、すごい! 満身創痍だけど本当に立った!」
「なるほど……わざと満身創痍になってみせる事でカタルシスを演出するのか……! 俺の師匠はエンターティナーでもあったんだ!!」
「演出で攻撃を喰らったんだとしたら『ぷぎゅん』なんて悲鳴は上げないと思うけどね?」
ここまで盲目に信頼してくれる弟子がいると大変そうだなぁ、とリリは思う。
「づあらぁ!!」
女性として大事なものを捨てたっぽい低い掛け声と共に、テツコは大犬の前脚をぶん投げた。
「空想加工――【誰もが笑顔で眠れる夜】!」
テツコの声に応え、その右拳が黒く輝く。
ジュウスケが放った黒光より数段まばゆい!
黒光が収束し、テツコの右腕を黒鋼として包み込んだ!
ジュウスケと同じく刺々しいデザインに加えて、肘部分からは赤黒いプラズマが噴き出していてオシャレにカッコイイ!!
「わふふ……おのれ小生意気なドリームパンチャー……! パンチの真髄を教えてやるのだわおん!」
「パンチの真髄?」
「パンチは片方で撃つより……両方で撃った方が強いのだわおぉん!!」
大犬が両前脚を一斉に振り上げた!!
右と左、同時に二発のわんわんパンチを放つつもりだ!!
「これがこの世で一番強いパンチだわおん!」
「……勘違いも甚だしいね」
「何ィ!?」
頭っから血をだっくだく流しながらも、テツコはフッと不敵に笑った。
「この世で一番強いパンチは、そんな単純なものじゃあないさ」
テツコ、不退!
迫りくる強烈必至なわんわんわんわんパンチを前に、一歩も退かない!
その場で腰を深く落として、カッコいい手甲に包まれた右拳を振りかぶる!!
「わふふ、その構えは【正拳突き】わおん!? 古い! カビの生えた発想だわおん!! 正拳突き最強説はもはや原始時代の――」
「この世で一番強いパンチは、【ボクが撃つパンチ】だよ」
その一言と共に、テツコが拳を振るった。
黒い雷撃のような光で、世界が明転する。
一瞬だけ遅れて、雷鳴のような轟音が響いた。
「……え……?」
リリは、まばたきなどしていなかった。
否、正確にはまばたきをするような時間すらもなかった。
きちんと見ていたはずだのに、いつの間にか。
大犬の首から下は、既に塵埃となって吹き飛んでいた。
「わ……ぉん?」
大犬が自らの死を理解したのとほぼ同時。
辺りに突風が吹き荒れた。
それは余波だ。
余りにも強烈過ぎるパンチが、気圧を乱して刹那的な突風を、そして竜巻を引き起こしたのだ。
竜巻は紫電を帯びながら大犬の生首を天まで運び、空を覆っていた暗雲に風穴を空けた。
「――よし、一発退散」
暗雲の風穴から、光が差し込む。
神々しい、まさに夢の楽園に降り注ぐ陽光。
「最初ちょっとドジったけど、挽回できたかにゃ?」
光に照らし出されたテツコは、にししと子供のような笑みを浮かべていた。
……頭部から滝のように流血していなければ、同性のリリでも思わずキュンと来たかも知れない勿体なさがある。
「ほらな白冨寿! 師匠はすごいだろう!?」
「あ、うん。まぁ、それは異論無いけど……」
何かあの人、失血でちょっとフラフラし始めてない?
攻撃性能全振りの残念美人――と言う所だろうか。
「……誰もが笑顔で眠れる夜……」
フラフラしながらヘラヘラ笑うテツコを見て、リリはふと彼女が口にした夢パワーの源を思い出す。
ポペートール症候群なんて病気が蔓延し、ありふれたこの時代に。
一体、どれだけの人が何の不安も無く笑って眠りに就けるのだろうか。
彼女が口にした空想を実現するには、一体どれだけのパワーがいるのだろうか。
そんな願望が叶うはずがない、誰でもわかるはずだ。
それでも、彼女はその空想を加工した夢パワーで、あの恐ろしい大犬を一発退散してみせた。それだけ強く、その夢を叶えようとしているという事だ。
……ちょっと残念な人だけど、すごくカッコいい人なのかも知れない。
ジュウスケが師匠師匠と呼び慕い妄信する気持ちもわか――
「はぁ……師匠さすが過ぎる……」
「…………あ?」
リリがふいに感じた違和感。
ジュウスケの声が、かつてないほどに甘ったるくとろけているような気がした。
疑う気持ちでジュウスケの横顔を見る。
テツコを真っ直ぐに見据えるその瞳は――完全に、恋する男!!
「…………………………」
あ、はい、そゆ事。
乙女脳はダテではない。リリはすぐに察した。
そんなリリに、テツコがニコニコ笑いながら近付いてくる。
まぁ、テツコからすればリリは気遣うべき患者なのだ。
笑顔で話しかけて、悪夢獣に襲われたショックをやわらげてあげるのもドリームパンチャーの務めなのだろう。
「さ~て、少女。これで今日からは楽しい夢を見られるはずだよ!」
テツコは陽気に「ぶいぶい」と言いながら、リリに向けてダブルピースをひらひら。
「……ありがとうございます」
「どいたま! ちなみに参考までに訊きたいんだけど、どんな夢を見てみたいかにゃあ? お姉さんってば最近の女子高生の夢事情にちょっと興味があるお年頃だったり~」
「おまえに勝つ」
「いきなり宣戦布告!? どうしてだい!?」
ボクが何かしたかにゃ!? とテツコはサングラスがずれるほどびっくり。
ああ、ジュウスケに対して「カワイイ弟子だぜ」程度の認識しかないと思われるお姉さんにはわからないだろう。リリの燃え滾る乙女心の機微は。
「……なるほど、わかるぞ白冨寿。師匠のカッコよさに当てられて師匠を越えるドリームパンチャーを目指したいアドベンチャー魂に火が点いた――そう言う事だな?」
どや顔で見当違いも甚だしい――と言いかけて、リリは考える。
さて、ジュウスケは果たして、ただカッコいいだけの年上のお姉さんによろめくか?
否、ジュウスケはそんな短絡的男子ではない。
おそらく、蓄積。
テツコは師匠としてジュウスケ・ポイントを蓄積して、ジュウスケの心をわし掴みにしたと考えるのが自然だ。
即ちテツコからジュウスケを奪い取るには。
テツコ以上の蓄積値を稼ぐ必要がある。
そのための最短ルートは――
「ええ、まったく以てその通りよ。アタシはあんたの師匠すら超えるドリームパンチャーになるわ」
――ジュウスケよりも優れたドリームパンチャーとして、ジュウスケに活躍を見せ続ける事。
「にゃは、何だか知らないけどすごい夢パワーを感じる……! 逸材の予感だよジュウスケくん! キミの素養も目を見張るものがあるけど、キミの同級生もすごいね!? もしや黄金世代だったりするのかな!?」
「師匠をして逸材ときたか……すごいんだな白冨寿! 一緒に頑張ろう!」
「ええ、絶対に勝つ」
「……にゃんか、競争心とは違う敵意を感じるのは気のせい……?」
果たして、リリの恋心はどこへ向かうのか!
彼女の夢は叶うのか!?
後に八人目の逸等級ドリームパンチャー【失恋八当のリリ】と呼ばれる事になる少女の戦いは、始まったばかりである!!