ネームレスマン
第一部 地獄の救世主
* * *
北ヴェストリアーク大陸の北西にその国はある。ハイランド。魔王ルシェールが八英雄に討たれ、雨後の筍のように人類の王国が現れては消えて行ったが、八英雄の一人、ファーディガン王の建国したハイランドは、その厳しい環境にも関わらず、気骨ある騎士たちを生み、エルテナ天帝国に並ぶ版図と、軍事力を持つ大国だった。
ハイランド歴三四二年――
気が付くと俺は牢獄の中にいた。みすぼらしいぼろを着て、汚らしい恰好だった。俺は牢獄に入れられているらしく、底冷えするその牢獄の鉄格子越しに周囲を見てみた。衛兵と思われる男が一人、槍を持って立っている。
「槍?」
この時点で俺はここが天国でも地球でもない、どこかの異世界ではないかと勘繰った。
俺は天国は知らない。だが、地獄は知っている。
狂気の最中に見たあの岩と砂漠の荒野。
それが地獄だ。
ここに来る前に起きたことはほとんど思い出せず、自分の名前さえ憶えていなかった。
部屋の中には冷えた食事と木のマグカップがあり、俺はそれを食べると、上着を脱いで左手で持ち、右手には木のマグカップをもってうずくまり喚いた。仮病で衛兵をおびき寄せ、牢獄から逃亡しようと目論んだのだ。
「いてえ! 腹が! おいあんた! 医者を呼んでくれ! このままじゃ死んじまう!」
それを聞きつけた衛兵がこちらに寄って来るのを確認すると、俺はマグカップを左手に持った上着に隠して、衛兵が来るのを待った。
「騒がしいぞ! 医者だと?」
「死んじまう。助けてくれ……後生だ」
「少し待て、水をやる」
衛兵は迂闊にも鉄格子を開け、同時に俺は寝ている体勢からブレイクダンスのように回って立ち上がり、衛兵の顎をマグカップで殴り、気絶させた。
寝て暮らしていた俺にはできないはずの芸当だった。
気絶した衛兵から槍と盾を奪い、鍵束も奪った。気絶した衛兵を部屋の隅に転がし、鍵束で両手の鎖を外す。
慎重に牢獄を出て、牢内を忍び足で歩くと、ある牢屋の中にいる女が声をかけてきた。
「エディ! 脱出したのね」
その女はブロンドのショートボブで、しかし当然俺の知らない女だった。
「エディ? お前はだれだ?」
「冗談やってる場合じゃないでしょ? レイリアよ!」
レイリアと名乗った女はぱっと見人間だったが、耳が尖っていた。エルフだろうか? こっちはまるで状況がわからないし、俺と面識があるらしい女に俺はさわやかな笑顔で言った。
「君もくるかい?」
俺は満面の笑みで親指を立てて言った。