1、雨だれ
1、雨だれ
古びた修道院の屋根を打つ雨音に、その男は誰よりも早く気付いた。彼の聴覚と感性は、磨き抜かれた宝石のように研ぎ澄まされ、特に天上から自然現象の形をとって伝わってくるメッセージを受信する能力は、ずば抜けていた。
天に選ばれた才能、すなわち天才、その名をほしいままにした男は、自身の生命を音楽にすべて捧げたかのように虚弱で憔悴していた。
最初の雨音をいち早く捉えたかと思うと、まるで端緒をつかんだ男めがけて一斉に襲ってくるように、雨音は乱舞の勢いで激しくなった。
次の瞬間、男は雨音に刺激されたように咳込んだ。血を吐かんばかりに咳き込んで、男は顔面蒼白になって懸命に息をしようと喘いだ。
ようやく咳の発作が収まると、男は雨が先刻よりますます勢いを増していることに気付いた。窓の外はすっぽり闇に覆われていたが、その闇も今は雨の支配下にあることが伺われた。
ここ地中海に浮かぶマジョルカ島は気候温暖であることから男の病の療養には適切だと思われたが、雨期に入ってみれば、雨がもたらす湿気と寒さが彼の病状を悪化させる羽目になった。パリの喧騒を逃れてこの島で静養することを提案した恋人の女性は、買い物に出かけた切り戻らない。もしかすると彼女は嵐の中、行き倒れたのではないかという不吉な妄想が、男の心に渦巻いた。
修道院の森閑とした部屋で一人恋人の帰りを待つ男は、嵐の中で孤立したような心もとない気分だった。外の闇と雨粒が彼の心に浸透してきて、心の中の想いをすべて黒く塗りつぶそうとしていた。彼は闇と嵐に占領された心の中で、溺れそうだった。救いとなるのは音楽、ピアノしかない。
ピアノを弾こうと立ち上がった男は、窓の外を一瞥した。その時、まるで稲妻が閃いたかのように、闇の中に一筋の光が現れた。それは稲妻ではなく、この世のものではない神秘なものを光源とする光だった。男はその神秘の光を知っていた。神に選ばれた天才だけが体験することのできる光、彼の卓越した鋭敏な感性めざして天から差し込む光、すなわち霊感だった。
何かに取りつかれたように男はピアノの前に座り、霊感に操られて音を迸りだそうとする指で、鍵盤を叩いた。
初めは変ニ長調の優しく温かみのある曲調。陽光が緑の多い風景に注ぎ、自然はおおらかに陽光に身をゆだねている。しかし長調ののどかさ、明るさの中にも、左手の連打が生み出す雨や悲しみの予兆が潜んでいる。
そして、嬰ハ短調への劇的な転調。
連打は右手に移り、黒鍵を叩くその音は今やまぎれもなく雨音であり、やがてその背後に死の足音が浮かびあがってくる。黒鍵を叩くたび、意識下の暗黒から、おぞましい記憶や亡霊がよみがえる。この黒い死の包囲から抜け出すには、生への叫びを孕んだパッションを叩きつけるしかない。
迸る情熱に圧倒されて、死の足音は雷鳴が遠ざかっていくように弱まっていった。
再び長調に転調し、最初のメロディーが戻ってくると、その温もりが失われた大切なものの有難さを感じさせて肌にしみわたっていった。
曲を弾き終えると、男はまた咳の発作に襲われ、よろけるようにベッドに倒れこんだ。しかしその顔は苦痛に歪みつつも、嵐の恐怖に打ち勝ったことと名曲を完成させたことの満足感がありありと浮かんでいた。
「ジェイミー!」と叫んで、レミは夢から目覚めた。
夢の中で聞いたピアノ曲は、これまで何度も聞いたショパンの「前奏曲雨だれ」だったが、夢の中では自分自身がショパンになったかのように、霊感が危険と紙一重の電流となって体内を駆け抜け、強要するような力強さで音楽へと開花させるよう促した。
自身の血潮と感性が曲を生み出していくのがリアルに体感できた。
ショパンの曲の中でも特に愛着のある曲だったが、作曲家のインスピレーションの瞬間を共有したような夢の中で、レミはその音色から、ジェイミーの存在を感じ取った。それは感動と戦慄とがないまぜになった、魂を揺るがす稀有な体験だった。
「雨だれ」の霊感の源はジェイミーだった?
しかし「雨だれ」がマジョルカ島で作曲されたのは1838年、そのころジェイミーはまだ地球に来ていなかったはずだ。するとジェイミーの種族なのだろうか。歴史に残る作曲家や天才の霊感(天啓)は、ジェイミーの種族ら異星人によるテレパシーなのかもしれない。
レミがジェイミーと名付けた異星人と出会い交流したのは、夏の終わりから春の初めにかけて、約半年という短い間だったが、何百光年もの彼方からやってきたジェイミーの存在は、地球の時間や観念をすべてリセットした。半年であろうと百年であろうと何ら違いはないと思えるほど、ジェイミーと過ごした時間は濃密で意義深かった。
ジェイミーとの交流の記憶は、レミの心の中心に不動の確かさで据えられた。
忘れることができないというのは、通俗的な恋愛のありふれた表現のひとつだが、宇宙を包み込むようなジェイミーの愛の形態に比べて、レミのそれが一異星人への愛なのかただの独りよがりの妄想なのかと自問自答するような不安定なものだったのは、両者の種族間の懸隔を考えると仕方のないことかもしれない。
ジェイミーと会っていた時レミはよく夢を見るようになり、明らかに夢の中で自分の能力が進化したことを感じた。そう、夢は単なる休息の中の幻ではなく、未知と神秘への禁断の扉を開く場なのだ。
レミは毎晩のように夢を見た。ジェイミーそのものは出てこなかったが、その気配、噂、幻、表徴、暗示といったようなものは夢の背後からにじみ出てきた。
今回の「雨だれ」もそうだった。
また、ジェイミーと出会って以来、それまで積極的に信じていなかった異星人の存在に興味を抱くようになったのも、当然の成り行きといえる。ただ、精神体であるジェイミーと直接かかわりがないということで、UFOなどへの関心は持たなかった。興味の対象となったのは、ピラミッドやナスカの地上絵といった古代の謎(建造物や産物)だった。そうした何千年も昔の解き明かせない謎と異星人を結びつけるのは安易な想像力の欠如だとみなしていたが、今では異星人がそこに介在していたことをほとんど確信していた。