1、丘の上の出会い
1、丘の上の出会い
その丘の上の空間に出会ったとき、レミは興奮と感動で雷に打たれたように立ち尽くした。
現実から逃れたいという強い欲求と衝動がレミを導いて、うっそうと茂った森の道なき道をかれこれ1時間ほどさまよわせ、丘の上の空間にたどり着かせたのだった。
それは地下の鍾乳洞を匍匐した末に幻の地底湖を発見したような驚きだった。灌木が点在するほか、草花が地面を覆っているだけの野原。傾きかけた夕暮れの日差しが降り注ぎ、そこに非現実の舞台のような趣を与えていた。まさにそこは想像力の魔法によって出現した空間と思われた。
人の気配がなく、あるのは木々や風など自然の基礎代謝というべき、太古の昔から地上にあった幽玄な音ばかり。そして木立の向こう、遥か遠景にはレミが暮らす街が広がっていたが、夕もやに包まれてどこか彼方へ運び去られるかのように、現実感が希薄になっていた。
レミはその空間の空気の安全性を試すように深く息を吸い込んだ。純粋な清々しさが体内にいきわたり、細胞が喜びに沸き立つのを感じた。レミはほっと安堵するように息を吐きだした。と、その時、異質の空気にきれいに磨かれた感性が、何かに感動するように打ち震えた。
正体もわからず感動するというのは異例なことなので、レミは動揺し、出会ったばかりのこの空間を目で探検するように見回した。何か小動物か虫でもいるのだろうか。いや、それは生き物の動きといった無機的なものではなく、感性に訴えかける意図を孕んだ音なのだ。
その「音」は耳を澄ますうちに徐々にはっきり聞こえ、音楽へと変化した。どこか物悲しく、どこか懐かしく、肌の温もりに似た温かみのある音色。その音の源を求めて探し回ったレミの眼は、灌木の根元に半ば草に隠れて存在する楽器を見出した。それは誰もが知っている楽器、ギターだった。真新しいとはいえないまでも、6本の弦がちゃんと張られていて、十分演奏できる状態だった。
自動演奏するピアノは知っているが、独りでに曲を奏でるギターは初めてだった。そもそもそんなことが可能なのだろうか。そういった疑問や驚きは、それから流れ出る楽曲の魅惑にかき消されていった。
その曲はクラシックの古風さとフォークの民話的な親しみやすさを備え、物悲しい懐かしさで心をとらえていった。何より不思議なのは、その曲が空気を媒介せずに心に直接伝わってくるように感じられることだった。その曲はレミのために作られ演奏され、レミの生命を織り込んでいるようにも思われた。
知らず知らずのうちにレミの目から涙があふれ出た。遥か昔に失われ、ずっと探し続けていたものにようやく出会ったという感慨に襲われた。それが何かわからないまま、心の中の空白感や憧憬に促されて、無意識のうちに探し求めていた。
慢性の病のような空白感にさいなまれ、逃れるように、あるいは追われるように何かを探し続けること、それが人生だった。
曲に心地よく浸っていると時は止まり、世界は陶酔の中に溶けていった。子守歌が夢と現の境をその指先で優しくなぞって溶かしていくように。
そんなまどろむような状態で、どれほどの時が過ぎていったのだろう。
突然、頭の中に声が聞こえ、レミははっと我に返った。音楽が言葉に形を変えたようにも思えた。
「こんにちは」
確かに声はそう言っている。夜半の葉ずれの囁きにも似たひそやかな音色で。
「誰!?」とレミは声に出して問いかけた。
自分の呼びかけに反応があったことで確信を得たのか、声はより明瞭になった。
「僕は地球外生物です」
「地球外生物?UFOとかの?」
「そうではありません。僕は心(精神)だけでここに来ました。だからUFOのような乗り物は必要としません。」
とても丁重で敵意のかけらもないその声に、レミの当初の警戒心は薄れていった。他人との間に壁を作って心を閉ざしているレミにとって、それは予想外の出来事で、その声が壁を透過して直接聞こえてくるということを抜きにしても、かつてない親しみが瞬時に形成されたことに間違いなかった。
異星人は地球から何百光年と離れた遠い星からやってきた。その星の生物は進化の究極の域に達し、精神(心)が肉体から遊離して自由に動き回れた。その距離は次第に長くなり、宇宙空間を制覇し、ついには時空を超えて何百光年もの彼方にまで行くことができるようになった。
肉体は堅牢になるために物質化し、耐久性を手に入れる代わりに動くことがほとんどできなかった。それは精神の容れ物であり、帰ってくる巣であり、さらに長い宇宙の旅から戻って疲れ果てた精神が、休んでエネルギーを満たす充電器でもあった。
年齢や性別は無論のこと、名前も地球の尺度からするとないといってよかった(識別のための記号の羅列のようなものはあった)そこでレミが好きなミュージシャンの名前を異星人に付けた。「ジェイミー」。それによって異星人はより親近感のある存在になった。
ジェイミーは時空を超越しているので時の観念は持ち合わせなかったが、もうずいぶん長い間宇宙を放浪し、多くの星を訪れた。中でも地球はお気に入りで、地球の概念で1年ほど滞在している。地球には天が授けた音楽があふれている。
風が木の葉をそよがす音は、太古からの地球の暦
海の潮騒は、母の胎内への回帰の調べ
川のせせらぎは、とどまることなく流れてゆく水の心情
雨音は人々の心から悲しみの旋律を呼び覚まし、雪の降り積もる音は静寂の楽譜に記される
滝の音、鳥の鳴き声…
神の創造した大自然の交響曲がそこにはあった。
ジェイミーは風と同化して、梢を鳴らしながら自然界を旅した。やがて、地球には音楽を生み出す楽器が存在することを知り、機会があればその楽器に触れて音を出した。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット、太鼓、笛、などなど、楽器の多さとその魅力に圧倒された。風と同化できる身にとって、楽器をマスターし演奏することは何の苦もなかった。
地球人との接触に関しては、用心深かった。異星人との接触がその星の運命を変えるほどの重大な意義を持ちうるものだというを事前に把握していたこともあり、ジェイミーは地球の風景や音楽を享受するのみにとどめようと考えていた。地球人に興味はあったが、いくらこちらに悪意がなくても、うかつに接触することで引き起こされるリスクを思うとブレーキをかけざるを得なかった。
ジェイミーが生み出す音楽に地球人が反応し、耳を傾けることがしばしばあったが、超常現象だと騒がれるのを回避するため、音楽の源を追求されそうになったらすぐに演奏をやめた。
街からそんなに遠くないこの丘の上の原っぱにジェイミーが初めて来たのは、ほんの数週間前のことだった。自然の音と景色に恵まれたこの場所をすぐに気に入って、以来ここを「基地」にした。不思議に訪れる人間もなく、かといって人跡未踏というわけでもなかった。
人が訪れた痕跡としてジェイミーが見つけたのが、ギターだった。それは自然物で構成されたこの場所の調和を乱すことなく、人の気配をひっそり匂わせていた。弦がちゃんと張られていることから、そのギターを持った人物がここへやってきたのはそんなに前のことではないと推測できた。
その人物はやはりここが気に入り、ギターを弾いて、その音色で自分が発見し独占しているようなこの空間を芳醇なワインを注ぐように満たしていったのだろう。その後ギターだけを残してここから立ち去った事情は分からないが、愛用のギターはこの場所への置き土産のようにも思えた。
ジェイミーはそのギターを周囲に気兼ねなく演奏し、その繊細だが心にしみいる余韻のある音色に、自分の生命を溶かし込んだ。
そして、演奏に没頭する毎日に、レミの存在が交差した。
地球人の気配を感知したにも関わらず演奏を続けたのは、レミから放たれる雰囲気が他のそれと異なっていたからだった。ジェイミーは人間の気配から、その性質や個性をある程度推察できるようになっていた。レミの気配は希薄でおぼろげで、ギターの音色と同質の物悲しい影をまとっていた。
レミはギターから流れる曲に魅入られたように聞き入り、感動の涙を流した。それは音楽を通した心の共振であり、触れ合いだった。電流のように通い合うものを直感したジェイミーは、その直感にうながさせるまま、ためらいなく話しかけた…。