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ジェイミー  作者: 神谷すみれ
序章
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2、月光ソナタ

2、月光ソナタ


ほどなく、3回目のワープが起きた。

3回目ともなると人々のワープに対する感度が高くなり、その瞬間「ワープした!」という歓喜とも恐怖ともつかない叫びが、唱和するように沸き起こった。

私も地震が起こった瞬間のようにワープを感じとり、来た!という緊張感で全身金縛り状態になった。一瞬か数分か数十分かわからないくらい時間の感覚がなくなり、自分の記憶を喪失している私がさらに別の自分になって、五感を超えた感性で異次元へ吸い込まれて行くのを体感した。

3回目のワープの結果、前の2回のワープの教訓通り、残った人々がルナティック症候群になった。ただ一人、私を除いて。

ルナティック症候群にかかった人たちが入るカプセルは生命維持装置はついているが、冷凍睡眠用ではない。おそらく目的地へ到達するのは1~2年以内で、冷凍睡眠を必要とする長さではない。人々がカプセル内で眠っていれば、水や食糧といった資源の節約にもなり、また、閉ざされた閉塞感のある世界でありがちな喧嘩やうつ状態などのトラブルを回避できるので、賢明な方法だと思う、といった説得力のある自説で私たちを啓発していた医者も、その例外ではなかった。

医者は何かに魅入られたような恍惚状態で、他人の姿など目に入らないといった様子で、まっすぐに睡眠室へと引き寄せられていった。

私は「ドクター!」と声をかけたが、その呼びかけは彼の甲羅のような背中にはじき返された。

私は一人きりになった。

千人が健在だった頃は、人が多すぎて雑多な言語が交錯して騒々しいと感じることがあり、一人になるためにコンパートメントにこもったりしたが、一人になった今、憧れていた静けさは次第に孤独を肌に押し付けてくる疎ましいものへと変わっていった。

自分がルナティック症候群から免れたという勝ち誇った思いは全くなく、置き去りにされた感じしかしなかった。早く皆の仲間に入りたいという焦りが、神経を駆け巡った。

私はすでに感性の中に常住している「月光」のメロディに安らぎを見出し、その中に身を投じるように夢への航路へと導かれていった。


ようやく私に待望の「夢」が訪れた。

解除を解かれたように一気にひしめき合いながら、無秩序に色々な場面や情景が切り替わり、正体不明の自分は混乱し、翻弄されるのだった。

ベースとなるのは次の情景だった。

寄木細工の床には毛足の短いカーペットが敷かれ、その上にアンティークな革張りの黒いテーブルと椅子が並べられている。部屋の隅には女神像を彫った大きなシェードのランプがあり、その横に置かれたピアノを照らしている。

ピアノの上にはオルゴールや楽譜、メトロノームなどが置かれ、私は鍵盤に向かって座っている。弾いているという感覚はないのに、手から電流のように音色が流れ出る。

それが「月光」の第一楽章だった。

指先から魔法のように流れ出ているかと思うと、次の瞬間には開け放たれたテラスのガラス扉から夜風に乗って聞こえてきた。夏の宵なのだろうか、レースのカーテンが夜風に心地よさそうに揺れ、魅惑的なものを選りすぐって部屋に招じ入れていた。

部屋のテーブルに飾られた清楚な花の香りを凡庸なものに貶めるほど、五感を激しく酔いしらせる香りが庭先から漂ってくる。ジャスミンに似たその芳香の元を辿っていくと、明かりが灯ったように花開く白い大きな花があった。

ひと夜だけ咲くといわれる月下美人。己の賛美者の元へ降臨するかのように、月の光がその稀有な花を探し求めてこの庭へやってくる。そしてさらに「月光」のメロディーに手繰り寄せられて、部屋の中へ差し込む。

それは、無粋な現実の侵入を許してはならない、貴重なロマンと美が織りなす恍惚の時だった。その場の主役は私だと思っていたが、一転して私は部屋の隅に移動して、ピアノの方を眺めている眼差しに変わった。

ピアノの前には誰もいないが、演奏は続いていた。「月光」の第二楽章へ。

はかない幻想や夢を壊さないよう静かにゆっくりと繰り返される第一楽章は、ムーンライト号のまどろむような停滞の空気そのものだが、第二楽章は意欲的な歩みや動きを感じさせる。幻想や夢に包まれてまどろむのではなく、それらを素材にして、明るく軽やかな輪舞を繰り広げていく。

そんなことを考えていると、場面は夢特有の自由奔放さで次々に切り替わっていった。

古びた修道院の屋根を打つ雨音。修道院の内部の部屋で、その雨音を楽曲に生まれ変わらせようと、熱っぽい顔つきでピアノを弾く男。

細長い嘴を持った鳥が、広大な砂漠の上を飛んでいる。古代の時間の軋みが鳥の軌跡に生じる。砂漠には、その鳥やサル、魚などが巨大化して描かれている。

山里にひっそり佇む樹齢6百年ほどの桜の大木。その満開の花を風が揺らすと、そこから妙なる音楽が生まれる。

山々に囲まれた青く大きな湖の畔、「ヴァイオリン協奏曲」が流れる中、その作曲家が愛しい学友の名を叫ぶと、彼方からこだまのように応える声がする。

そして、眺めの良い丘の上の草原、手つかずの静寂に響くギターの音と歌声。

「果てしなく広がる宇宙の片隅で

最後の光を放って消えていった星のことを

誰も知らない」

物悲しい懐かしさで心を捉えるその歌声。何だろう、歌声が呼び起こす、狂おしく甘美なこの感情は。

誰が歌っているのだろう。姿が見えず、ギターと歌声だけが鮮明に響き渡る。

誰? 誰なのだろう。


誰?という問いを軸の部分に残して、回転木馬のようにめくるめく展開する夢の情景は、再びピアノのある部屋へと戻った。そこでは誰かがピアノを弾いていたが、ピアノの前には誰もいなかった。いや、いたとしても姿が見えなかった。

その演奏に心を奪われるのに比例して、「誰?」という問いが高潮していった。しかし、その問いが耳に入らないのか、意に介することなく演奏は進行し、第3楽章へと移っていった。


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