その七 雫、許しがたきを討つ
時間跳躍、異次元世界などと、さして詳しくもない語り物の言葉が雫の頭をぐるぐる巡る。
さては、「異世界転生」とかいうのに巻き込まれたのだろうか。
同級生の男が教室で話していたのを聞いた憶えがある程度で、どんな内容なのかは知らぬが。
思案すればするほどに、混乱は深まっていく。
理の通らぬことに雫は滅法弱い。
そうして竹林の陰から出て暫く野路を歩いていると、颯太の云うとおり、忽ち制服が乾きだした。
そう云えば陽光も強く、何やら妙に暑い。
(……夏? さっき夏っていってたような……)
今は春のはずだった。先日雫は進級したばかり、制服も長袖を着ている。
しかしこの容赦ない陽の光は、間違いなく盛夏のものである。
気付けば、みんみんと云う蝉の囂しい鳴き声も響いていた。
雫は混乱したままの頭で考える。
(時代も変わって場所も変わって季節も変わって……これ、どうなってるの? どうしよう。私……どうしたら帰れるんだろう)
ここまで来て雫は、ようやっと不安を感じ始めた。
自分は果たして、どうなってしまうのだろう。
しかし何はともあれ、状況を確かめなければなるまい。
「あの……颯太君、今は……何年ですか。寛永? 元禄?」
町の端、襤褸屋の合間を抜けながら、雫は颯太に恐恐とそう尋ねた。
取り敢えず、江戸時代にしても何時の辺りかを把握しておきたかったのである。
此処で今何が起き、何が騒がれているかぐらいは判っていなければ、どうにも心許ない。
幸い雫は日本史に明るいので、時代さえ分かれば治世の具合も大凡判る。
動乱期ならば、それなりの覚悟が要るであろう。
そう考えて、雫は訊いた。
ところが。
颯太から返ってきたのは、如何にも間の抜けた妙な応えだった。
「知らん」
「知らん? 今が何年か、知らないの?」
「知らぬものは知らぬ。どちらでもよいことではないか」
何故そんなことを訊くのか、とでも云いたげな口振りであった。
「どちらでも……じゃあ、将軍様はどなた?」
「知らん。将軍様は将軍様だ」
当たり前のような顔をして、颯太はそう云い切った。
雫はまた混乱する。
一般の町民の常識はこんなものだったのだろうか。
それともただ颯太が残念な子だと云うだけなのか。
よく判らない。雫は首を傾げた。
(どういうことだ……?)
「それにしても――雫のその格好は目立つな。よく似合ってはおるが」
そう颯太に話しかけられてはっと気づけば、何時の間にやら二人は、随分と町中まで入り込んでいた。
風格のある家屋や店屋が辺りに立ち並ぶ。
そして雫たちを囲むようにして、江戸の町人たちがじろじろと怪しみながらこちらを眺めていた。
無論皆、雫の水兵服に驚いているのである。
颯太も雫の服の襟を頻りに弄りながら、興味津津に話しかけてくる。
「斯様な手触りの布は初めてだ。綺麗な色合だし、南蛮のものであろう。綻びもなくよく出来ておるな。それに――」
そう云うと。
颯太は徐ろに、雫の下衣を捲った。
「――変わった袴だ。風が吹いたら捲れるぞ。褌も珍しい」
雫の下穿を覗き込んで、ふん、と鼻を鳴らす。
「熊柄か」
雫は即座に竹刀を振り上げると、思い切り颯太に面を打ち込んだ。
しゃがみ込んでいた颯太の頭に、へし折れんばかりの勢いで竹刀が直撃し、パァン、と晴れ渡った空のような景気のよい音が鳴り響いた。
颯太は頭を押さえて悶絶した。
「痛っ、だぁああああああッ、な、何をするッ」
「それはこっちの台詞だ! 人前でな、何を堂々と」
ここまで無遠慮に男子から扱われたのは生まれて初めてで、頭から湯気を吹きながらも雫はどう対処してよいか判らない。
咄嗟に竹刀を構えると、雫は真っ向から颯太と向かい合った。
慌てて颯太は弁解する。
「いや確かに悪かったがしかし男同士なのだし褌ぐらいで」
「だから私は女だ! ば、馬鹿にしてるのか!」
裏返った声で雫がそう云うと、漸くそれを思い出したらしい颯太も顔を赤らめた。
「あ、い、いや違うッ、私はそんな、下劣なつもりではなく、単なる好奇心でッ」
「なお悪いわ! 許さん、成敗してくれる!」
つられて侍じみた言葉遣いになった雫は、再び竹刀を振り上げた。
ひっ、と颯太は縮こまり、両手で頭を守る。
その時だった。