その六 雫、珍奇な少年と邂逅する
(え、ふぇ、ふぇえ、らにこれ!?)
何が起きたのかさっぱり分からぬまま、泉の中でばたばたと雫は藻掻く。
武芸の類万事達者な雫は当然水泳も得手ではあるが、衣服を着たまま泳いだことはない上、高空からの飛込経験もない。
濡れた制服が重く躰に纏い付いて、上手く動くことが出来ない。
慌てた挙げ句、思い切り口の中に水が入って息が出来なくなり、雫は今にも溺れそうになった。
(だ、だえか、たすけて……!)
すると――。
不意に、手に持っていた竹刀を、くい、と引かれる感触があった。
誰か竹刀の先を握っているらしく、くいくいと釣りでもするような気軽な調子で繰り返し引いてくる。
何者かは知れぬが、雫を引き揚げようとしてくれているようだった。
藁にも縋る思いの雫は、その引手に引かれるままに身を任せる。
そうしてゆらゆらと水中を動いていって、何とか雫はその泉から、揚がることが出来た。
地面に膝をついた雫が咳き込んでいると、その誰かは、背中をとんとんと軽く叩いてくれた。
ようやっと人心地ついた雫は、その救い主の顔を見るために濡れ髪を払い、顔を上げる。
「――お主、大丈夫か」
きょとんとした顔でそこにいたのは――あたかも時代劇から抜け出てきたかのような身形をした、一人の少年であった。
歳は雫と丁度同じくらい、月代を剃り上げていない、元服前の髪をしていた。
少年らしい愛らしい声音で、衣服はそれなりに高価な物に見える。
澄んだ綺麗なその瞳で、彼は雫の顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。
「いきなり空から墜ちてくるから驚いたぞ。何があったのだ。鳥から落ちたか、物怪妖怪の類か――それとももしや其方、天つ国の住人かっ」
一人勝手なことを云っては、何やら眼を輝かせている。
雫は最前とは違う意味で混乱しだした。助けてくれたのが不審者では元も子もない。
取り敢えず立ち上がった雫は、徐ろに薄暗い辺りを見廻した。
周囲は気の安らぐ青竹が連なった、静かな竹林である。竹の葉が揺れて立てる、さらさらという音が耳に心地よい。
首を傾げながらも雫は、濡れそぼった服の裾を簡単に絞り、それから目の前の不審な恩人に向かって、礼を云うことにした。
「ええとその……とにかく、助けてくれてありがとうございます。私は、御剣雫といいます。あなたの、お名前は?」
無邪気な眼をした少年は、にっこりと笑って応えた。
「私は颯太と云う。東雲颯太だ。雫は天つ国の侍か」
「違います。ただの中学生です」
「ちう、がくせい」
颯太と名乗った少年は、今度は当惑した様子で頻りに首を傾げだした。
歳こそ雫とさして変わらぬものの、その表情や振る舞いは、まるで幼子のように素直で判り易い。
(ヘンな子……)
「それでその、颯太君のその格好は、コスプレか何か……?」
「こすぷ――聞いたことのない言葉だ。ははあ、雫は外つ国の生まれか。それにしてはその相貌、如何にも日本男児と云った風だが」
「私は、女です!」
端麗な顔を引き攣らせ、雫ははっきりと応えた。流石の雫でも、男と取り違えられたことはない。
すると颯太は、失敬なまでに驚いた。
「え。あ。そうなのか。髷を結い竹刀を持ち袴を穿いておるのだから男かと思うたが――ならば、男装の女剣士か」
大真面目に颯太は尋ねてくる。
否定するのも面倒になり、ああまあそうですと雫は投げ遣りに返した。
何が袴か。確かに下衣は、一度も切りも折りもしていない膝丈ではあるが。
「それはいいんですが……ここは、どこですか。何が起きたのかはよく分からないですけど、とにかく私、家に帰らないと」
「此処は町に程近い竹林だ。もう少し行けば、江戸の町がある。私は其処に宿を取るつもりだが。雫の家とは何処なのだ。空ではないのか。女子ならば、天女様だな」
云うなり颯太は、ニカッと笑った。
今度は雫も、そう悪い気はしない。
(それにしても、江戸って……東京? この若さでお祖父ちゃんみたいな江戸文化愛好家、か何かか。ちょっとヘン、というか、ヘンすぎるけど……悪い子ではない、かな。たぶん)
しかし帰るにせよ、何が起きたか事の子細を確かめるにせよ、取り敢えずその「江戸の町」とやらへ行ってみる必要はあるだろう。