その五十七 雫、駆ける
斯くして――。
馬に乗った雫は、炎に包まれた江戸の町を疾走した。
家家が上げる炎で、頬が焼けこげそうなほどに熱い。
溶けた雪が蒸発していることもあるのだろう、靄が立ち籠め視界は揺らぎ、辺りはまさしく、この世の終わりのような様相を呈していた。
鬣にしっかと掴まりながら、雫は空を見上げる。
何もない中空を跳ねるように、火車が真っ直ぐ何処かへと向かっていた。夜の空を、妖物は真昼のように照らし出している。
――あの上に、颯太がいるのだ。
一つ結びにした自分の髪を靡かせながら、雫は宿での最後の話し合いを思い出した。
*
「――うちの宿はね、生憎ちょっとやそっとのことじゃ燃えないよ」
にやりと不敵な笑みを浮かべると、巴は胸を張った。
「何せあたしがあれやこれやの実験で、毎日小火出してるようなもんだからね。そんじょそこらの家とは訳が違う。
策を練って態勢立て直したら、あたしたちも何とか後追いかけて行くから。お侍さんは先に行きなッ」
岬の傍らで、桜も云う。
「岬様も鳥を使って追いかけられれば、と仰せなのですが」
その言葉を受けて、岬はぽつりと呟いた。
「――危ない」
桜がすぐさま補足する。
「あの妖怪の後を空を飛んで追っては、忽ち気づかれて襲われてしまいます。心苦しいですが、やはり御剣様に馬で追っていただくしかないようです――と仰せです」
「桜ちゃん、いつの間に岬くんの通訳に……」
馬上から雫は苦笑した。
大鴉を襲わせてしまった責任も感じてか、同じ部屋で寝泊まりして岬の世話をしている間に、桜は無口な子供とも意思疎通が図れるようになったらしい。
幼子に対して様付けの低姿勢で接しているその姿は、こんな状況であってもやはり愛らしかった。
「これを」
岬はまたぽつ、と云うと、袖の中から小さな鈴を取りだした。
手を伸ばす雫に、童はしっかりと両の手で握らせる。桜は、連中の行き先に辿り着いたらお鳴らしくださいとのことです、と云った。
巴がおほん、と咳払いをする。
「まあ、ともかく。細細したことはこっちに任せて。お侍――いや、雫は、行っておいで。颯太の処へ」
煤を頬に付けた巴は、そう云って魅力的に微笑んだ。
今更ながら、もしかしてこの女は全てお見通しだったのかも知れない、と気づいて、雫は恐縮した。
而して雫は――妖怪の開けた大穴から、炎の上がる表通りへと、馬に乗って出立したのであった。
いきなり、少し先の家から、火のついた柱が通りへ向けて倒れ込んでくる。くっ、と息を洩らして雫は馬の鬣を引き、跳び上がらせた。
馬は何の苦もなくしなやかに柱を越えて、そのまま走り続ける。
かんかん、と半鐘の音だけは何時までも頻りに聞こえるが――。
肝心の火消しが現れる気配は、一向になかった。
まるで、厭な夢のようだった。
けれど。
「お父ちゃあん、お母ちゃあん」
何処からか、子供の泣き声が聞こえた。
女の悲痛な叫び声が響き渡る。すぐ其処には、男が事切れた様子で倒れている。雫の胸が、きつく掴まれたように痛む。
ほんの数日前この世界に降り立ち、颯太に連れ廻されてこの町を見て歩いた。
雑然としながらも賑やかで、暖かで、憧れと懐かしさを感じずにはいられない町並み。
簡素で剛胆で美麗な文物。生気と活気に充ち満ちた町人たち。そして、幼気な愛らしい子供たち。
それらが今、失われつつある。
譬え全てが夢幻だとしても。
――この胸の痛みは、紛う事なき本物だ。
雫はそう思った。
ごうごう、ぱちぱちと周囲の全てが燃え上がり暗い煙を立ち上らせる中、家の陰からぬっ、と巨大な何物かが姿を現した。
醜悪な態をした、見越入道であった。
驚いた馬が後足立ちになり、雫は危うく振り落とされそうになる。
「どう、どう!」
馬を懸命に宥めながら、雫はその背の上で刀を抜く。揺らめく火の光を反射して、叢雲は目映く輝いた。
入道は雫に気づくや、胡乱で邪悪な笑いを口元に浮かべ、諸手を上げて襲いかかってくる。
雫は深く息を吐き、心を落着かせた。
逃げも避けもせず、雫は馬を巧みに操り正面から突っ込む。
そうして――真っ直ぐに刀を振り下ろした。
「ぐぉおぅ」
首から胸にかけて袈裟懸けに斬られた入道は、重い唸り声を上げ、地響きを立てて倒れた。
一滴も血は出なかった。
そしてそのまま見ていると、不可思議なことにゆらりと煙のようなものを上げ、入道の躰は消えてしまった。後には、何一つ残らなかった。
何が起きたか判らず雫は暫くその跡を見つめていたが、そうしてばかりもいられない。
空を見上げると、すぐに馬を駆って、火車の後を再び追い始めた。
――あの煙のようなものが、邪鬼の魅だろうか。
雫は思う。ということは、やはり雑魚の類をいくら倒したところで意味はないのであろう。
悪しき魅はその場に消え失せるのか、あのまま他所へ移るのか。判らないが、兎に角さしたる手応えはなかった。
しかしいずれにせよ、叢雲が妖怪退治に存分に効くと云うことが判っただけでも、よしとするべきなのであろう。
抜いたままの刀を右手に握ったまま、雫は馬を急がせる。
上空の火車の速力が上がった気がして、僅かに焦った。
すると。
「――覚悟」
不意に低い声がしたかと思うと――。
右脇の角から馬に乗って、鬼面武者が飛び出してきた。




