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その五十六 雫、微笑む

 姫は、背後の大穴を振り返った。


 それに合わせたように、遠方で火焔を撒き散らしていた獣の妖怪――颯太が火車と呼んでいたものが、此方へ向かって真っ直ぐ宙を飛んで来た。躰を波打たせ、中空を泳いでいる。

 そして、穴のすぐ前に止まった。


 黒鬼三頭に担がれた姫は、その背に悠悠と乗った。

 颯太も、残りの一頭に着物の背を掴まれて、抗うことも出来ず連れて行かれる。


 そこで、ようよう呪縛でも解かれたかのように、雫は穴へと走り寄ろうとした。


「雫ッ」


 鬼に捕らえられたまま、火車の背中で最後にそう叫んだ颯太は、不意に雫に向かって、何かを投げつけた。

 飛んできたのは何故か――颯太が何時も使っている、筆だった。


 墨がついたままの筆は、畳にぶつかり線を描いて、ころころと転がった。


「颯太!」


「――さらばじゃ、愚かなる剣客よ」


 しかしそんな雫を嘲笑うと、浄瑠璃姫はそう云い残し、

 火車はごう、と火の粉を上げ――。

 二人を乗せて、空の彼方の何処かへと、飛び去っていった。


 雫は穴の傍で、力なく膝をついた。


「そんな……」


 今すぐ追わねば。

 直ちに行かねば。

 見失ったが最後、颯太は手遅れになる。

 妖怪に取込まれる。


 けれど、見渡す限り町は轟轟たる炎で満ちていて――。

 追いかける前に、焼け死ぬのが落ちだった。


「こんなのって……」


 万策尽きたとしか、思えなかった。

 そして、颯太の投げた筆を、そっと雫は拾い上げる。竹林で最初に出逢った時、それはまだほんの数日前なのに、もう随分以前のことに思える。

 あの時、持っていた筆だった。


 雫は、それを握った。


 けれど――何も起こらなかった。


 何処かで誰かが物語っていたような、甘く優しい、二人を救ってくれる奇跡は、そこにはなかった。何時まで経ってもどれだけ待っても、それはそのままだった。


 当たり前だけれど。

 何もしなければ、何も起きない。


 ――涙でも、流せばいいのかな。


 自分でも馬鹿げたことだと思いながら、雫は考える。

 けれど涙は、出なかった。

 ぼうとしながら、雫はただその筆を、何時までも見つめていた。


 ――これで、終わるのかな。


 そう、思った。

 しかし、その時だった。


「――御剣様っ、あれをッ」


 離れたところから雫を見つめていた桜が、唐突に大きな声を出した。びくり、と背を震わせ、雫は振り返る。

桜は、颯太が最後に向かっていた、壁を指さしていた。


 そこには――。


 ――目を見張るほどに美しい、駿馬の絵があった。


 雫は言葉を失った。

 颯太は鬼の陰に隠れて、渾身の筆を振るっていた。壁一杯に描かれたその見事な馬は荒く力強く猛猛しく、風の如く軽やかに、水の如く涼やかに、駆け抜ける姿をしている。

 靡くたてがみ、嘶く口、筋骨隆隆として毛並みのよい躰、地を踏みしめる脚は、しっかと立って麗しい。


 そして何よりも。

 澄んだ優しい瞳をしていた。


 ――颯太の眼だ。


「……描けるじゃない」


 その眼と見つめ合いながら、雫は此処にいない颯太に向かって、そっと言葉を洩らす。


 けれど不思議だった。

 颯太が描いたのに、馬はまだ絵の中にいるままだ。


 浄瑠璃姫は颯太が力を遣うところを見たことがなかったから、恐らくは絵を描いていることには気づいていても、何も咎めなかったのだろう。それはよいのだが。

 何故出てこないのか――。


 雫は暫く馬を眺めて思案し、そして漸く、気がついた。

 馬にはまだ、尾がなかったのだ。


 雫はくすり、と笑う。


「……はいはい」


 握った筆を壁に押し当てると、さっと流すようにして、

 雫は最後の一筆を入れた。


 刹那。

 目が眩むほどの光を放つと。

 壁から葦毛の大きな馬が飛び出した。


 命を吹き込まれた堂堂たる体躯の若馬は、畳敷きの部屋へ身軽に降り立つと身を震わせ、声高らかにいなないた。

 雫はにっ、と笑った。


「……よし!」

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