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その五十五 雫、見抜かれる

「ほう、此の期に及んでまだ一戦交えると申すか、御剣。面倒なことよのう――」


 腐れた眼を細め、姫は詰まらなそうに云う。


「しかしお主。気を張っても判るぞ――まだ、迷いがあるな」


 その言葉に動じて、雫は思わず刀を握り直した。


「迷いなど……」


「透けて見えるわ。そなたには初めからそれがあった。

 江戸を見て回る時も、桜の話を聞く時も、鴉を退治に行く時も、どこか醒めておった。斯様なことをして一体何になる。人を救うて何になる。江戸を護って何になる。そう思うておるのじゃろう。ええ。


 一歩引いて、恰も虚言でも眺むるかの如き眼差しで、己が振舞を定め、世の万事を嘗めてかかっておったな」


 雫は息を呑んだ。

 心中をさとられていた。


 ――そうだ。

 ――自分は、迷っていたのだ。


 これは絵巻の中のこと。

 現実に非ず、ただの作り事の物語。

 ならばどうすべきか、何を為すべきか、何が正しい答なのか。

 どうすればちゃんと、お話が終わるのか。


 そんなことばかり、考えていた。

 甘えたことばかり、思っていた。


「未だ斬りかからぬがその証。迷いがあるから動きが鈍る。惑いがあるから想いが弱まる。世捨人でも気取ったか。達観でもした気か。計算そろばん尽くで動こうなど百年早いわ。

 そのような浮ッついた未熟者に我が斬れるか。さあ、それでもまだ――剣を向けるか」


 雫は刀を下ろさない。否、下ろせない。

 動けない。

 どうすればよいのか。


 ――判らない。


 だが。

 その時である。


「おい――」


 雫の背後から声を掛けたのは、

 颯太だった。

 ひょいと顔を覗かせた颯太は、尋ねた。


「――今物凄い音がしたぞ。何かあったのか」


「颯太! 来るな!」


 しかし、手遅れであった。


「丁度良い、この者を貰うていこう」


 云うなり姫の艶めかしい黒髪が、蜘蛛の脚のようにずるずるずるずると畳に沿って、不気味に此方へ向かって這い伝い伸びる。

 そして、颯太の左足首へ、蔦の如くに固くぎちりと巻き付いた。


「えっ――」


 抗う間もなくその場に倒された颯太は、そのまま畳の上を引きずられ、仕舞いに鬼姫の脇へ、あっけなく転がされた。


「颯太!」


「人質じゃ。この姫の躰もそろそろガタが来る。その後は――この者の躰を借りるとするか」


 んん、何か云いたいことはあるか東雲、と姫は虚ろに空いた穴のような眼で、颯太の顔を覗き込む。

 いきなりのことに何が起きたか判らぬ様子だった颯太も、これで全てを解したらしく、愕然とした。


 そうしてから、颯太は雫の方をちらりと見遣った。


 雫は、まだ動けない。


 ところが突然何を思ったか、颯太は両の手で這うようにして、ずりずりと後ろへ下がっていく。そして壁際に至り、黒鬼たちの陰になってすっかり隠れてしまった。何故のことか判らず、雫は困惑する。

 颯太の姿は、見えない。


「何じゃ、何をしておる。情けない己が姿、恥ずかしゅうて見られとうないか。よいよい。今の内が華じゃ」


 口振りだけ寛容にして、姫はほくそ笑んだ。

 ここへ来て何とか身を起こした桜が、咳き込みながらも姫に向かって云った。


「このまま、逃げられると思うのかッ」


「笑止。外は火の海。人の脚でどうやって抜けるというのじゃ。精精江戸から抜け出すが関の山、我の後など追えるはずもない」


 軋むような声を上げて、姫は哄笑した。くっ、と桜は口惜しげに洩らす。万事休すか、と雫は身を震わせた。


しかしふと――。

 雫は気づいた。

 陰に隠れた颯太が、壁に向かって何かをしている。


 あれは――。


「さあ、そろそろ時間じゃ」

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