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その五十四 雫、歯噛みする

「あの夜、私と颯太が襲われたのも」


「無論我が呼び寄せた妖怪あやかしどもじゃ。我が来た途端に宿の周りに妖怪が増えたのじゃぞ。何故おかしいと思わなんだ」


 小馬鹿にした調子で、浄瑠璃姫の身を借りた妖物は宣った。


「それじゃあ、あの大鴉やその遣いが、夜や明け方この辺りに来ていたのも……」


「夜になる毎、我の妖気が強まっておったからじゃろうな」


 事も無げに姫は応える。


「あの鴉はこの江戸の町を大昔から護ってきたもの。何とか結界を張って我の妖気を押さえ込み、あの者に気づかれぬようにしておったのじゃが」


 そう云って姫は、部屋の四隅に未だ置かれた、紙の雛人形を見遣った。

 雫は眼を円くする。


「それでも宿に妖怪を湧かせた日の翌朝と、それからこっそり宿の外に出てあの侍を殺した日、あの時は流石に気づかれて鴉が来てしもうた。まあそなたが、どれもこれも勘違いしてくれたおかげで助かったがの」


「結界って……」


「結界とはそもそも己が気を消して外敵に見つからぬようにするものじゃ。何も間違った使い道はしておらぬぞ」


 姫は身を揺らす。また嗤っているようだったが、もうその歪み崩れた貌からは、感情を推し量ることなど出来なかった。


「兎に角そなたらが、あの鴉のことを妖怪の親玉と取り違えておったから、これを利用せぬ手はないと思うての。桜もそれらしいことを云うておったから、そなたらに鴉を退治させてしまえ、と考えた」


 桜は最早蒼白であった。


「――それでは、わたくしに御剣様の伴に参れと仰せになったのも」


「そなたが我の命を狙うておったからに決まっておろうが。気づかれておらぬとでも思うたか。我をたばかろうなど百年早い」


 ふらついてそのまま倒れそうになる桜を、雫は慌てて支えた。

 そうして、きっ、と姫を睨み付ける。


「ははははは、うらうらうらめ。その悪しき想いが我の血となり肉となる――そして兎も角も、雫らが鴉を打ち倒してくれた御陰で、江戸の町の護りは弱まった。我も腰を据えて、妖怪あやかしを呼び寄せることが出来た」


 首をぐるりとねじ曲げて真後ろを振り返り、姫だった物は窓の外の燃えさかる町を見た。


「風邪を引いたとか言ってたのは……」


「なに、次第次第と我の妖気も、抑えが効かぬほどに高まっておったからの。そこな童はただの童にあらず、御前みさきか化身か知らぬがいずれにせよ我の気に勘づくおそれがあった。


 この部屋の結界の内に入られては敵わぬから、適当なことを云うておいただけじゃ。そなたらが此処に来ぬ間、ずっと妖怪を湧かせ、力を蓄えておった」


 岬は何も云わない。


「我の狙いはそもそもそれ、江戸の町を内側から食い破る事じゃ。鴉と社が張っておった結界の内に妖怪を湧き出づらせ、中から町を打ち壊す。くしてその願いは達せられ、これこの通り、われが江戸を手にするのも時間の問題じゃ」


 姫の独白で、全てが一本に繋がった。

 けれど。


 ――こんな解決、要らなかった。 


 そう思って歯を食い縛った雫は、そっと腰の刀に、手を遣った。


 すると、すかさずこちらへ向き直った姫は、牙を剥きだした奇怪な形相でぎちぎちぎちぎちと嗤った。


「遅い。ここまで来て我に立ち向かおうなど――」


 すると。

 着物の胸元から苦内くないを取り出した桜が、姫に向けて駆け出した。


「桜ちゃん!」


「お命、頂戴ッ」


 しかし――。

 その瞬間、部屋の四隅の雛人形が桜の前に飛んでくると。

 びしびしと真っ黒な血肉塊を膿の如くに噴き出して。

 忽ち身の丈七尺を越す巨大な鬼の姿になった。


「なッ」


 驚いた桜が避ける間もなく、その黒鬼は腕を振り上げる。


「ぐっ」


 化物の怪力で思い切り殴られた桜は、雫の横の襖に勢いよく叩き付けられ、そのまま襖ごと廊下の壁にぶつかり、動かなくなった。


「――弱き人間ひとには叶わぬことよ」


「……桜ちゃん!」


「う――」


 腹を押さえ、桜は小さな声で呻いている。


 急ぎ駆け寄りその背を支えて起こしてやった雫は、再びきっ、と邪なる者を見返すなり、浄瑠璃姫と鬼どもに向かって腹の底から叫んだ。


「……貴様ァ!」


「おう、怒ったか――泣け、喚け、詰れ。その想いこそが我そのもの。我は邪鬼なり。我こそは魔境なり。


 我は怪奇に非ず。我は怨敵に非ず。万人遍く我をその内に抱え、それ故見慣れ、気づかぬものなり。凝り募って邪を為すまで、己が内を疑うことも知らぬ愚かなる者共よ――汝我なり、我汝なり」


 四頭の黒き羅刹に囲まれ、髪を振り乱した鬼姫は、狂おしく嗤う。


 そして唐突に、そのむくつけき黒鬼たちは、物云わぬまま後ろを向くと、徐ろに壁を力任せに殴り蹴り、外まで抜ける大穴を開けだした。巴が止めに行こうとするのを、雫は必死で押しとどめる。


「ちょっと、何すんだよッ」


「ここまで来ればこの宿にも用はない。我はこれから、数多の魑魅魍魎と共に江戸の全てを手中にする。大儀であったな。そなたらの御陰で、事を進めることが出来た。改めて礼を云うぞ」


 そうして壁に空いた大穴からは、今生の地獄と化した江戸が見えた。


 空で未だ焔を舞い散らす妖怪、火の海になった町、通りを行く異形の者共、そして、鬼面の武者に追い立てられて泣き叫ぶ人人が見えた。


 ごう、という大きな音を立て、向かいの屋敷が崩れ落ちる。


 全てが、失われようとしていた。


 雫は歯を食い縛る。

 そして無言のまま――刀を抜いた。

 ずしりと、その手に叢雲の重みが加わる。


 ――このまま終わらせて堪るか。

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