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その五十三 雫、愕然とする

 あはははははははははははははは。


 腐れ爛れた嗤い声が耳を衝く。

 文から顔を上げた雫は、己が目を疑った。


 美しかった姫の容貌は、最早欠片も残っていない。

 黒眼と白眼が入り混じり斑紋様になったひとみ、裂けた口、り出した牙、蛇の如く乱れた髪からは、拗れた双角が突き出している。

 両の手は筋張り血管が浮き出で、骨のように鋭利な爪が震えながら生えており、身に纏う端麗な着物とあまりに不釣り合いであった。


 町の炎を背にして、本性を顕わにした妖しき姫は――。

 ゆらりゆらりと左右に揺れながら、雫に云った。


「御剣。そなたまだ気づいておらなんだのか」


 愚か愚か、と、実に愉快げに嗤っている。

 文をその場に取り落とした雫は、逃げることも忘れ、ただ茫然としていた。


「一体……いつから」


「初めからじゃ。町でそなたに助けられたとき、否、屋敷を抜け出したときには既に、この躰じゃ」


「邪鬼の……すだま、が、取憑いて」


「左様。今の人間ひとわれをそう呼ぶ。怪力乱神悪鬼羅刹、悪しき御霊みたまあやしきすだま、如何に呼ぼうと同じこと。おにじゃ。あやしきものじゃ。怖ろしい畏ろしい、こごこごった禍禍しきものじゃ」


 何処を見ているか知れぬ眼で、姫は雫を凝視している。時折意味もなく、四肢を蠢かした。収まりきらぬ何物かが、中で身を震わせているかのようであった。


「何時気づくか何時気づくかと思うておったが、結局最後まで気づかなんだか」


「御剣様、支度が調い――」


 岬をつれて戻ってきた桜が、雫の肩越しに部屋の中を覗き込んで、絶句した。岬は幼子らしからぬ表情で、眉間に硬く皺を寄せている。


「ちょっとあんたたち。まだこんなところにいたのかい。さっさと逃げないとこのままじゃうちの宿も――」


 廊下で固まっている雫たちを見咎めた巴も、三人の傍らに立つなり、顔を歪ませ口を噤む。

 そして、にやりと皮肉に笑った。


「――姫様。暫く見ないうちに随分お変わりで」


「巴。そなたにも世話になったのう。礼を申すぞ」


 妖怪あやかしの姫君は片手を差しのばし、虚ろに謝辞を述べた。


 雫は次第に、怒りを感じ始める。


「じゃあ……お城の人たちが姫を狙っていたのも」


「当然のこと。われがこの姫に憑いて町の外から妖怪あやかしを呼び込み、屋敷を我が物にしようとしたからじゃ。あの時は我も未だ力満ちず、侍どもに追われて逃げるしかなかったが、ここへ来て存分に霊気を蓄えることが出来た」


 ――全部、逆だったんだ。


 今になって漸く、雫は全てが判った。


 取憑かれた城の者たちが姫を追っていたのではなく。

 取憑かれた姫を、城の者たちが追っていたのである。


 将軍からの戦への指示が減ったのも、妖怪に憑かれたからではない。戦以上に速やかに倒すべきものを見つけたから、戦どころではなくなったのであろう。


 桜が城から渡されたままに貼ったあの文も、姫を城に渡さねば江戸が妖怪に襲われる、と云っていた。あれは脅し文句ではない、文字通り、姫自体が危険だと云うことだったのだ。


「この江戸を手中に収めるための屋敷を本陣とするつもりじゃったが、ちと遣りすぎて城の者共に気取られた。何とか逃げ切り身を隠す場所を探すうち、ここまで来た。


 あのちんぴらにもあわよくば取憑いて利用してやるかとも思うておったが、そなたが助けてくれるというから、むしろそれを隠れ蓑にした方がよいかと思うたのじゃ。己で逃げ回るより、匿うてもろうた方が何かと好都合」


 雫の脳裏に、これまで起きた様々な出来事が蘇る。

 それぞれの意味が、全て逆に塗り替えられていく。

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