その五十二 雫、真実を知る
考え事で頭がずっと一杯になっていて、肝心のことをすっかり見落としていた。
ただでさえ部屋から動こうとしない人が、今は風邪を引いて伏せっているのである。放っておいたら火と煙に巻かれ、そのまま焼け死んでしまうかも知れぬ。
――せめて、あの女を護らなければ。
雫は右往左往する人でごった返す廊下を抜け、姫の部屋へと急いだ。
松の間の襖を、勢いよく開ける。
「姫!」
しかし。
浄瑠璃姫は既に床から身を起こし、雫に背を向けて、窓から静かに外を眺めていた。煌煌と炎の灯りが部屋に差して、姫の影を作っている。
流れるような黒髪だけが、妖艶に光っていた。
「姫、このままではこの宿も危のう御座います。お躰に障るかとは存じますが、どうかお逃げくださいませ」
雫は姫に向かって口早に云う。すっかりこの口調も板に付いた。
しかし姫は、振り返りもしなかった。
「町が――」
ぽつり、と姫は呟いた。
「――町が、燃えておる」
暗い部屋の中は、炎と共にゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。
「人が叫んでおる。童が泣いておる。鬼面の武者が駆け抜けて、数えきれぬほどの妖怪どもが行き交っておる。おお、彼処の御店が今崩れた。其処の蔵が火を噴いた。まさしく地獄絵図じゃ。末世そのものじゃ。この町は――もう、お終いじゃ」
「左様に御座います。姫様どうか、どうか、お早くお逃げくださいませ!」
「酷い事じゃ。真実、酷い事じゃ――」
それでも姫は、動こうともしなかった。
歯痒くなった雫は、
「姫!」
と再び呼びかけ、背負ってでもよいから連れ出そうと部屋の中へ足を踏み入れた。そして部屋の中央に敷かれた布団を横切る。
すると。
その枕元に、何かが置かれていることに気がついた。
怪訝に感じ、雫はそれを手に取る。
それは、文のようであった。
表には何も書かれていない。
「これは……」
雫がそれを拾い上げると、姫は振り返らぬまま、応えた。
「ほれ、妖怪に襲われて、宿の外で死んでおった侍がおったじゃろう。あれが持っておったものじゃ」
ああ、と雫は首肯する。見てみれば裏に血がべったりと付いている。惨いものである。広げながら、しかし雫は首を傾げた。
「……でも何で、姫がこんな物を」
云いながらその筆書きの文字を読んでいくと、不意に、書かれた内の一行が眼に留まった。
そして雫は――口を閉ざした。
浄瑠璃は人の心を失いし鬼姫なり
一刻も早く捕らえずば、江戸の町は最早
――鬼姫。
部屋の中には、影が揺らめいている。
揺らめいている。
影の形は、次第次第に大きく歪み、崩れ、奇怪な態に変わっていく。
ばきばきと音を立て、頭から二本の尖った影が伸び出している。
雫は、動くことが出来ない。
皹割れたような禍禍しき声が、こう告げた。
「何故と訊いたか。応うるまでもない――」
「――わらわが襲うたからに決まっておろうが」




