その五十一 雫、姫を護らんとする
家家の屋根を飛び移る、奇怪な黒い影がある。
薄暗がりから這い出てきた大きな蛇は、女の貌をしている。
向こうに建つ米蔵の壁一面には、有り得ない大きさの蜘蛛がへばり付いている。
炎に驚き慌てふためいて家から出てきた町人たちが、表に出るや怪異に出会し、あちこちで叫び声を上げていた。
ごろごろと男の首が、道の脇を転がっていく。
あちらの角を大入道が、ゆっくりと歩いていく。
一本足に一つ目の化物が、嬉嬉と飛び跳ねている。
立ち昇った煙が、人の像を取って幽霊のように蠢いている。
女の着物を着た骸骨が、ふらりふらりと彷徨っている。
ふと見上げれば――夜空に融け込むようにして、髪振り乱したお歯黒の女の巨大な貌が、浮かび上がっていた。
それはただにたにたと嗤って、雫たちを見下ろしていた。
雫は思った。
――百鬼夜行だ。
その時だった。
突然目前の中空に黒雲がたなびいたかと思うと。
中から大きな牙を生やした口が現れ――。
雫たちに向けて避ける間もない勢いで迫り、食らいついてきた。
「きゃあ――」
桜が悲鳴を上げ蹲る。颯太は僅かに身動いだきり逃げられない。
しかし雫は抜刀一閃――。
眼にも止まらぬ速さで、それを斬った。
口はそのまま、何処かへ掻き消えた。
「御剣様――」
何かを訴えかける必死の目をして、桜が雫を見つめる。
判っている。このままでは拙いことくらい、雫も重重承知している。けれどこのまま、ただ引き下がりたくはなかった。
せめて何か、何かしてから――。
すると。
何処からか、野太い雄叫びのような声が聞こえた。
宿の正面の大通りの向こうから、何かが走ってくる。
あれは――馬だ。
滾る炎を物ともせず。
影のような黒毛の馬が、幾頭も幾頭も走ってきている。
その鞍上には、甲冑を身につけた、異形の武者たちが在った。
貌にはぴったりと、濃い血の色をした鬼の面を嵌めている。刀を高く上げて振り回し、右往左往する町人たちを無情に威嚇する。
人の姿はしていても、間違いなく人ならざる者たちだった。
――いけない。
「……一旦、中に戻ろう」
雫は後ろの四人に向けて云った。体勢を立て直さなければ、今のままでは何も出来ぬ。口惜しいが致し方ない。
そうしている間も、炎は留まるところを知らずごうごうと音を立てて広がり続ける一方であった。今や江戸の町は真昼の如く明明と照らされ、そこかしこを我が物顔で妖物が闊歩していく。
町のそこかしこから、人人の悲痛な叫びが聞こえる。
颯太や桜を先に行かせ、渋渋ながら宿へ戻ろうとした雫は、そこの道をずっと行った先に、何かが物寂しく転がっていることに気づいた。
それは、鞠だった。
炎に揺らぐ道の真ん中に、小さな鞠が一つだけ、落ちていた。
雫は歯を食い縛ると、宿の中に駆け込んだ。
しかし宿の中も、既に右へ左への騒ぎになっていた。
女中たちがどたばたと足音を立てて廊下を走り回っている。中には、泣き叫んでいる者もいた。無理もない。
そして恐慌に陥った他の客たちは、ろくに着物も身につけないままに部屋から飛び出し、半ば腰を抜かして逃げ惑っている。その内の走ってきた一人が雫に肩をぶつけ、そのまま振り返りもせず玄関口から外へ飛び出していった。
「アンタたちッ。なんだい情けないね。少しは落ち着きなッ」
巴が手を叩き声を張りながら、騒乱の奥向きへ入っていく。女たちは巴様、巴様と震えながら、気丈な女将に追い縋っていた。
雫は肩を落とす。己の無力に腹を立てる。
こんなはずではなかった。
こんなはずではなかったのに。
「……颯太、桜ちゃん。岬くんと一緒に部屋に戻って、宿から出る用意をして。怖がっている人や逃げようとしている人がいたら、出来るだけ手伝ってあげて」
雫がそう云うと二人は頷いて、それぞれの部屋へ足早に向かった。颯太はちらりと雫の眼を見たが、すぐに踵を返して去っていく。
懸命に気を落ち着かせながらそんな指示を出す雫だったが、内心では歯噛みする思いだった。
このままでは江戸の町は、妖怪どもの意のままに焼き払われてしまう。そうしてこの世の全てが、妖怪どもに奪われてしまう。何か手を打たねばならぬ。どうにかして、この町を救わねばならぬ。
颯太の愛する町を。
――何でこんな事になってしまったんだろう。
――何故、こんなことに。
焦燥感に苛まれ、雫は手で顔を覆うと、無言のまま俯いた。
その時。
はっと気がついて、雫は血の気が引いた。
――姫様のことを忘れていた。




