その四十八 雫、焦る
「くしゅん」
姫は布団の中で顔を赤くしている。
「じゃから何故入ってくる」
雫は脱力した。横で半目の颯太が腕組みをして雫を見ている。
考え過ぎだった。
後から岬をつれて桜が入ってこようとすると、姫はぱたぱたと手を振る。
「これこれ、幼子を入れるな。感染るではないか」
そうしてまた、こほこほと咳をした。部屋の隅には女中が持ってきたらしい、小さな火鉢が置いてある。
その向こうの壁には、未だにあの紙で出来た雛人形が立てかけてあった。
桜が襖を閉めて岬と共に元の部屋へ戻っていくと、じとり、と姫は目を細めて雫を見た。雫は弁解する。
「いえその、状況が状況だけに何かあったのではと」
「何かあったら何かあったと申すわ。で、今日はどうするのじゃ。雪が降ったら休みか」
「いえ、あの、ですからどうしたものかと。その辺も含めて出来れば今からご相談を……」
「――何やら、騒がしいな」
すると、颯太が襖の向こうに目をやって云った。
確かに廊下からばたばたと行き交う音や、女中らしき者の怯え声が頻りに聞こえる。奉公人の躾のなっている伽羅倶利屋にしては珍しいことであった。
その時、いきなり襖が開き、巴が顔を出した。
久久に髪が乱れている。そして、初めて見せる深刻な表情をしていた。
「ごめんなさいよ。ちょっとね――厭な噂が入ってきてね。うちの娘たちも動揺してるんだよ」
「どうしたんですか」
雫が尋ねると、巴はすっと部屋の中へ入ってきて、襖の前に腰を下ろした。
「――町の外の、妖怪どもとの戦がね。何でも、幕府方が劣勢に立たされているらしくて」
「それって……」
「まだ噂だよ。はっきりしたことは判らない。でもこのまま妖怪どもの軍勢が勝ってしまったら――連中は、迷わず町へ攻め入ってくるだろうね」
低い声音で、巴はそう云い切った。雫は到底、信じられなかった。
「でも……何故いきなり? これまで何とか堪えていたわけでしょう? なのに、ここへ来て突然劣勢にって……」
いくらなんでも急すぎやしまいか、と雫は疑問を感じる。
――何かきっかけがあったのではないか。
――何かが起きたのではないか。
「判らないよ。突然妖怪どもの力がぐんぐんと増してきたらしい、なんて話もある。それにしたって理由が判らないが――何にせよ、窮地に追い込まれていることは事実みたいだね」
そう聞いて、雫たちは沈黙した。
「何と云う事じゃ――何と云う」
熱のせいで気弱になっているのか、浄瑠璃姫は布団の中で目を瞑り、身を震わせて幾度も幾度もそう呟く。
「そうなったが最後、江戸の町は――お終いだよ」
巴がぽつりと洩らすと、やおら颯太が立ち上がった。
「おい雫、何をしている。何とか、何とかせねばいかんだろう。落着いている場合ではないぞ。何か、手を打たねば、何か――」
慌てふためき、居ても立ってもいられない様子でうろうろと部屋の中を歩きまわる。他方で雫も焦っていた。
昨日の晩、桜が云っていたとおり、やはり将軍からの命が途絶え、幕府軍は迷走しているのであろう。はっきりとは判らないが、それが劣勢に立たされた理由の一つには違いあるまい。
これで城、そして将軍が尋常ならざる状態にあることは確かめられた。
――だが。
確かめられただけで、雫には何も出来なかった。
そうして蒼い顔をしたまま無為に狼狽する颯太を、雫は下を向いたままで諫める。
「分かってるよ。分かってるから、颯太……姫、浄瑠璃姫。どうかお教えください。お城は、妖怪どもは、何故姫様を狙っているのです。何故姫様のお屋敷は、妖怪どもに乗っ取られたのです。姫様には、どのような秘密があるのです。一体何が起こっているのですか。何か……何かご存じのことは、ないのですか!」
「知らぬ。わらわは――何も、知らぬ」
消えゆきそうな声で云うと、姫は布団の中に縮こまってしまった。雫は頭を抱えたくなった。
往来の音は雪に吸い込まれ、聞こえてくるのはひたすら宿の内のざわめきばかりであった。
それから、少し経って。
雫は今、宿の表の軒の下に立っている。
傍らには桜がいて、心配そうに雫の顔を見ていた。
未だ雪は、しんしんと降り続けている。
「――御剣様、どう、なさいますか」
「うん……」
どうすればよいのか、雫には皆目判らなかった。




