その四十七 雫、愛おしき気持ちに駆られる
足元を踏みしめるとぎゅ、ぎゅと音が鳴る。
何となく、雫は嬉しく感じた。
腰を落とし、掌で雪を掬い上げる。
ひやり、と刺すような冷たさを感じる。
そして。
雫には、未だ判らなかった。
この雪の手触りは、疑いなく真実のもの。
この眼に映る景色も、この町に漂う薫りも、この雪から聞こえる音も、紛う事なき真実のものである。
桜と話したことも、岬と遊んだことも、巴と笑ったことも、姫と出逢ったことも、
颯太に恋をしたことも、
どれもこれも雫には、真実のこととしか思えなかった。
而して、これは虚言であるという。泡沫であるという。
このまま絵巻の世で生きたなら、
これが現実になるのだろうか。
それとも己が幻となるのだろうか。
何が現実で、何が幻か。
雫には、判らなかった。
判らなかった。
声が、聞こえた。
「雫」
振り返ると、そこには颯太がいた。
「起きたか」
雪を僅かに頭に積もらせた颯太は、いつもと変わらぬ無邪気な笑みを浮かべて、其処に立っている。雫は頷く。
「うん」
「目を覚ましたら外が静まりかえっておった。空気も冷たい。これは雪に違いないと矢も楯もたまらず、こうして飛び出した。案の上だ。冬はこればかりが楽しみだ。雪は――よいものだ」
よいだろう、そう思わんか。
翻って町を見遣り、颯太はそう云った。
「夏は蒼き草葉が生い茂り、熱き風が血気を沸き立たせる。秋は晴れ渡った空に枯れた薫り、満月も美しい。冬はこうして雪が降る。そして春は――桜舞い散り、新たな始まりに心躍る」
どの季節も、楽しい。
道の真ん中に立ち、颯太は笑った。
「どの季節であっても、この町は見飽きることがない。何が起ころうとも、この世に倦むと云うことがない。私はな、雫――」
雪は空から生まれ来るように、静かに静かに降り積もる。
どこまでも澄み切った、純真な眼をこちらに向けて、
颯太は雫に、こう云った。
「私は、今のこの町が、この時代が、大好きだ」
雫は、どうにも愛おしくなって――。
ただ優しく、肯った。
暫くしてから、雫は颯太と共に宿の内へ戻った。丁度、桜が岬の手を引いて部屋から出てくるところだった。雫は謂れもなく緊張した。
一方の桜は、幸か不幸か昨晩終わりの方で何があったか今ひとつ思い出せぬ様子であった。
瘤をさすりつつ、首を傾げながら失礼を致しましたとぺこぺこ頭を下げるので、雫は照れ隠しに頷いておいた。一応、自身の正体を明かしたところまでは憶えているようだった。
岬はと云えば相も変わらず無表情の無愛想で、昨日と同じ着物を着ている。
桜より先に起きて、部屋の窓から呼び寄せた鷹の世話をしていたらしい。
しかし雫の姿を眼にすると、黙ってすたすたと寄ってきて、そのまま何も云わずに手を取った。これでも懐いてくれてはいるようである。雫は微笑んだ。
そうして、四人揃って雫たちの部屋で朝食を食べているときである。
運んできた女中がああそうそう、と思い出したように云った。
「姫様が、お躰の調子がお悪いとかで」
「え、大丈夫なんですか?」
「心配は要らぬ、ただの風邪じゃ、伏せっておるゆえ入ってくるな、と、こうおっしゃっておいででしたよ」
とその淡白な顔だちの女中は雫に伝えると、失礼いたします、とそのままいそいそと部屋から出て行った。
「急な寒気故、仕方あるまい」
と颯太は肩を竦めた。しかし、雫は眉を顰めた。
些か不自然である。
――もしや、何事かあったのかも知れぬ。
早々に食事を終えると、雫は腰を上げる。念のため叢雲の刀を持ち、廊下へ出ると、姫の部屋へ向けて一歩を踏み出した。




