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その四十四 雫、違和感を覚える

 雫の話の中途からだらだらと涙を流し、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた桜は、やっとのことでこう想いを伝えた。

「桜は、果報者に御座います――」

 再び首を落とした桜を見て、雫は頭を掻いた。


そうしているうちにふと疑問を思い出した雫は、これを機会と桜に向かって話しかけた。

「桜ちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「――はい」

 桜は赤くなった眼を雫に向ける。


「姫を殺せと命じてきたのは、間違いなく将軍様?」

「左様に御座います」

「あの廊下に貼り付けてあった手紙は?」

「命を受けた時に頂戴したものを、そのまま打ち付けただけに御座います。どなたがお書きになったものかは存じません」


「じゃあ、この前云っていた、藩邸やお城がおかしい、っていうのは、あれは嘘なの?」

「あれは――」

 鼻を啜ると、桜は一瞬口籠もった。


「あれは、事実半分、噂半分とでも申しましょうか――兎に角、姫様のお屋敷の様子が尋常に非ず、と云うはまことのことに御座います。ぴったりと戸が閉じられ、中には入られぬ状態には御座いましたが、私自身もしかとこの目で確かめました。ただ、江戸のお城や上様のご様子が、と云うのは、これは口さがない噂、と申しますか、私がそう感じた、と申しますか」


「どこをどう、そう感じたの?」

「全てが、で御座います。浄瑠璃姫様がお屋敷から逃げてこられているのは紛う事なき事実。本来ならば、お屋敷の異常を確かめ、姫様をお守りするのが筋に御座いましょう。にも関わらず上様もご家老様も、姫様を捕らえて参れ、生死は問わぬの一点張り、加えて詮索は一切無用、のお一言。そればかりか、江戸の外での妖怪あやかしとの戦も、これまでずっと忍の者が逓伝ていでんえきを務めて参りましたが、近頃では上様からも、すっかり見限られたかのように何のお達しもなく――いずれにせよ、ただ事では御座いません」


 時折ひくひくと啜り上げながら、桜はこう話した。


「そっか、姫を狙う理由も事情も分からないんだ……」

 雫は口元に手を当てると、考えを巡らせた。


(何か、どこかがおかしくなっている……)


 どこかで、大変な過ちを犯している気がする。

 ただそれがどこなのか、雫には判らなかった。


「――それ故、この桜、これ以上上様うえさまにお仕えする自信が、御座いません」

 次第次第に声を落としながら、桜は続けてそう云った。また俯いていく。

 同情もあって、雫は取り敢えず考え事をやめると、桜へ優しく声を掛けた。

「そっか、それは……」


「はい」


 雫はそのまま慰めようとしたのだが、その前に向こうから妙に強い返事が来たため、思わず言葉を切った。

 桜は敢然とした調子で、こう続ける。


「実を申しますと、今こうして此処に参りましたのも、御剣様をどうにかしようなどと大それた事を考えてでは御座いません」


「はぁ……」

 話について行けず、雫は間の抜けた合いの手を入れる。

 桜は突然くっ、と顔を上げると、

 雫に向けてこう云い放った。


「御剣様、この桜を――お手元に置いてはいただけないでしょうか」


「え!?」


 唐突と云えば余りに唐突な申し出に、雫は唖然とする。


「そもこのように幕府の内情を明かしてしまった以上、最早お城に桜の居場所は御座いません。じきに知られるところになれば、忽ち見つけ出され、重ねて四つに斬られるが落ち。裏切り者の汚名を着るくらいなら、信じがたきあるじの元を離れ、心からお仕えできるお方に付くがよいと、そう思った次第に御座います」


「さ、さようでございますか……」

 どう応答してよいか判らず、雫はひたすら困惑する。


「先の鴉の護神様との戦いのときも、この身の程知らずを木刀一振りで華麗にお救いくださいました。強き尊き御剣様には、海よりも深きご恩が御座います。どうかどうか御剣様、この桜を、お側に置いてくださいまし」


 陶酔したかのような眼差しで、澱むことなく桜は言い募る。


「身を粉にして働きます。水だけ与えておけば生き延びます。くのいちとして役に立たずとも、馬子、端女はしため、飯炊き――いっそ、いっそ慰み者にでもッ」

「さ、桜ちゃん……?」


 先とは違う意味で雫は慌て出す。

 雫は単に今まで通りの友達づきあいをしたかっただけなのだが、桜は奴隷扱いも辞さぬ勢いで必死に言葉を連ねる。しかも、些か異様である。

 むしろ、それを望んでいるような――。


 一頻り云い終えた桜は、唐突に力を失ったかの如くがくりと頭を下げ、その場で動かなくなってしまった。動揺しすぎて眼が泳ぎまくりながらも、雫は何とかしなければ、と辛うじて思った。深呼吸して、何とか気持ちを落着かせる。


 向こうは雫のことを男と思っているはずである。そして雫の体型ならば、すこぶる遺憾ながら上半身だけなら男と云っても通る。

 やむを得ず、雫は腰回りだけに手早く手ぬぐいを巻くと、ざばりと湯から上がった。そして桜の肩を取り、身を起こさせた。


「桜ちゃん、大丈夫……?」


 これがいけなかった。

 桜は己の肩に添えられた雫の手をすかさずそっと握る。

 蕩けるような瞳をした桜は――。

 熱い声音で囁いた。


「桜は、御剣様を、お慕い申し上げております――」


 間近に見える頬は火照ほてり、眼は潤み、桜のつぼみの如く控えめなその唇はふるふると震えている。

 雫は思った。


 ――まずい。

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