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その三十五 雫、再び空へ

 あれやこれやで血が上って訳が判らなくなった雫は、三度みたび飛んできた鴉に向かって、半ばやけくそで走り込んだ。


「御剣様ッ」

「お、おい雫、危ないッ」


 二人の言葉も聞かずに雫は跳び上がると、木刀をたたき込もうとした。相手の頭に斬り込んで前後不覚にするほか、もう術はないと考えたのである。そのまま気負いよく、一刀に振り下ろす。


 ところが。


「……え、え、え、ちょっと、いや!」


 跳び上がっても頭には全く届かないばかりか、丁度嘴の届く範囲に来たものだから、鴉は雫の着物の襟首を咥えて、あっさり持ち上げてしまった。


「やめ、やめて、なに、おい、こらぁ!」


 じたばた暴れて木刀を振り回す雫だが、かつんかつんと嘴に当たるばかりで鴉はびくともしない。


 そうして、雫をぶら下げたまま――。

 鴉は天高く、舞い上がった。


「いやだあああああああああああああああああああ!」



 ――周りの空気が、一気に冷たくなる。



 秋の空は、冬へ向けて既に変わり始めているのだなあ――などと雫は、真っ白になった頭の中で思った。

 見れば、手の届きそうな場所に、眩しく満月が輝いていた。


 遙かに眼下の町は、本当に真っ暗だった。灯りと云えばろうそくちようちんあんどんとうろうくらいしかないこの時代、夜半の空から町を見下ろしたところで、見えるものなど何もない。ただひたすらに暗い。そしてそれが、余計に怖い。


 兎に角静かで冷え込む上空を、鴉は焦らすようにぐるり、ぐるりと旋回する。


「……あの、妖怪あやかしだったら、言葉が通じたりはしませんか」


 雫は自尊心も何もかなぐり捨てて、したに出た。

 鴉は何も応えない。


「ひょっとして、初めから全部分かってやってたり……」


 鴉は何も応えない。


「ええと……反省、してます。本当です。悪かったと思っています」


 鴉は何も応えない。


「許していただけるとは思いませんが……どうかご勘弁を」


 鴉は何も応えない。


「あの……」


 鴉は何も応えない。


 雫の堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。


「……何か言え!」


「があ」


 鴉は鳴いた。


 そして。

 嘴が開き――。

 雫は落ちた。


「本当に私のぶぁかあああああああああああああああああ!」


 ぐるぐると回りながら、雫は江戸の町へ墜ちていった。

 一日半ぶりの落下であっても無論一向に慣れない。生憎制服以上に緩い造りである着物は風に煽られ放題、辛うじて帯で留まっているだけで、その大半が脱げている。だがこんな状況では、恥ずかしがる意味もない。


 木刀だけは放さないようしっかと握ってはいたが、しかし内心雫はもう駄目だ、と絶望していた。

 墜ちる先には、固い地面しかない。


(助かりようがない……)


 本当に、泣き出しそうになった。


 墜ちながらも雫は考える。ここは絵巻の世界だ。それは間違いない。しかし。しかしその中でもし死んだならば、自分はどうなってしまうのか。遊戯終了ゲームオーバー、元の世界に帰れるのか。否否、そんな都合のよい話があるものか。そんなもの、遊戯ゲームの中だけだ。


 あの侍の、無惨な死に様が蘇る。

 何時いつ如何なる場であろうとも――死んだらそれまでだ。


「助けて……!」


 そう呟きながら、抗う術もなく雫は、夜空をどこまでも墜ちていった。

 その時。


「……え?」


 雫は気づいた。

 落ち行く自分の真下の地面に――突如として巨大な毛むくじゃらの何かがぶわっと現れた。


「わ、わ、わ、わ、わ!」

 勿論足掻いたところで避けようもない。


 雫はその毛むくじゃらの中に、真っ直ぐ突っ込んだ。


 ふかふかした柔らかい毛と動物の弾力ある躰で、雫はそのまま真上に跳ね上がる。

 自分でも信じられないことに、怪我一つないままだった。


「間に合った――」


 すぐ其処には、真っ新になった紙を広げて脱力する颯太がいた。

「颯太……」


 そうか、こいつは――颯太の絵か。


 月明かりの下、数度小さく跳ね上がるうち、心地よいその動物の毛の暖かさに包まれて、雫の心は優しく静まっていった。

 そっと雫は、その大人しい動物の背から降りる。


 そうして息を吐くと、少し歩いて、黙ったまま颯太の前に立った。

 暫く向かい合う。


 颯太が頭を掻きながらちらちらと見てくるので、何だろうと思って自分の身形を見てみると、着物の前がはだけて中が殆ど見えていた。

「わあ」

 急いで襟を合わせる。別に何も見ておらん、と颯太はぶつぶつ云った。雫も何となく、云い返す気にならない。


 間が保たなくなった雫は、傍らに座する颯太作のもこもこした巨大な動物を見遣って、取り敢えず感想を述べた。


「その……可愛い……羊だね」

「虎だ」

「え……っ」


「――虎だ」 

 颯太の眼が据わっている。


 確かに振り返って見直してみると、毛は黄色いし縞もある。それに確かこの時代、虎は伝聞でしか伝わっていないはずである。北斎や蕭白の描いた虎図など、想像に想像を重ねた挙げ句、実物とは似ても似つかないものになっている。大急ぎで描いたことも考えれば、あまり責めるのも酷だ。


「あ、はい……虎です」

「うん。虎だ」


 ようよう頷いた颯太は、小さな声でこう付け加えた。


「――お前のために、途中で毛を描き足したのだ。文句を云うな」

「あ、ごめんなさい……」


 雫は着物の帯を弄りつつ、俯いた。

 また、二人は黙った。曖昧な時間が流れる。


 ぱぁん――。


 すると、淡い空気を断ち切るように、不意に乾いた音が響いた。

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