その三十三 雫、丑三つ時を疾走する
煌煌と照り輝く大きな満月を別にすれば、雫の持つ提灯の明かりだけが頼りである。勿論辺りには、人っ子一人いない。三人の歩く時に鳴る砂利の擦れる音だけが、やたらと大きく聞こえた。時折何処かで犬の鳴く、おんおんという声が聞こえ、雫は僅かに身を震わせる。
「――怖いのか」
桜に聞こえないよう雫の耳元に口を寄せて、颯太が云った。
「別に」
「無理をせずともよいぞ」
「無理してない」
しかし本当のところ、雫は相当無理をしている。何しろ昨日の今日である。怖がるなと云う方が無理がある。今にも何処かから何かが出てくるのではないかと、気が気でない。
びゅう、と風が吹く。
川辺の柳の、枝の影が揺れる。
柳の向こうに何かが、誰かがいた気がしたが――。
雫は見て見ぬ振りをして、急いで通り過ぎた。
「お、お待ちください御剣様」
帯に差した銃をかたかた鳴らしながら、桜が小走りで付いてくる。本来ならば桜に案内してもらわねばならないのに、ついつい先を行ってしまう。いけないと思って、立ち止まろうとしたそのとき。
雫は気づいた。
その、後から追ってくる桜の足音が、二人分聞こえる。
ぞっとして雫は振り返ることが出来ず、そのままの勢いですたすたと歩き続ける。すると更に、他のことにも気づいてしまった。
視界の隅に、何やら薄ぼんやりと光る、顔のようなものが見える。
何をするでもないその生気のない顔は、雫たちに付いてきている。
加えて遠方で、何か知れぬ白い炎が幾つも、ゆらりゆらりと揺れている。
それは少しずつ、増えているようだった。
雫はごくり、と喉を鳴らした。
「……ねえ、颯太、あれ、聞こえる?」
路に沿って流れる川、それにかかる橋の袂から、水音に混じって微かに赤ん坊の泣き声が聞こえた。
哀れを誘う途切れ途切れの、小さな小さな声である。
――おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。
あるはずのない泣き声だった。
「ああ――聞こえるな」
颯太は囁いた。
雫は、廻らない舌を懸命に動かして、背後から早足でついてくる桜に向かい、こう云った。
「さ、く、ら、ちゃ、ん」
「はい――」
「は、走ろうか!」
云うなり颯太の手を掴むと、雫はどの男子も敵わない自慢の脚を生かし、全力で駆け出した。
それをきっかけにしたかのように――。
周囲の暗がりに潜んでいた妖怪たちが、一斉に動き出した。
火のついた車輪のようなものが、がたごとがたごとと派手な音を立てて雫たちの隣を転がっていく。その中央にはにたついた男の顔がついていて、雫を嬉しそうな目付きで頻りに見つめてくる。雫は泡を吹きそうになった。
――突然。
どすん、と音を立てて、目の前に大きな毛の塊のようなものが何もない中空から落ちてきた。
塊には目鼻口が付いていて、汚らしく微笑んでいた。
「わああああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!」
「み、御剣様、此方に御座いますッ」
恥も外聞もなく叫び逃げ惑いながらも、雫は桜の言葉に従って路を行き角を曲がり、次第次第と町の外れに近づいていく。全力で走る雫に引きずられるまま息も絶え絶えの颯太とは対照的に、桜は不思議なほどきちんと後をついてきていた。
何番目かの角を曲がったところで、いきなりぐよぐよとした醜怪な脂肪の塊のようなものがふらふらと道を歩いているのに巡り会った。真正面からそれに思い切りぶつかった雫は、弛んだ気色の悪い皮膚の感触に、また町中に響き渡る叫び声を上げる。
「ぬっぺっぽう――」
颯太が何か云っているが、雫は何も聞いていない。
土煙を上げながら、三人は江戸の町を駆け抜けた。
どの暗がりにもどの物陰にも、何かしらの怪しき妖しき化物が潜んでいる。その全てに雫は対面しては、あらん限りの声で絶叫していた。もう自分でも何が何やら判らない。
何処からかまたけらけらけらけらけらけらけらけらという女の嗤い声が聞こえてきて、もう雫が泣き出しそうになったとき。
桜が先方を指さした。
「あれが、そのお社の鳥居に御座いますッ」
半ば消えかけた提灯の明かりでそれを確認した雫は、殆ど何も考えぬまま、其方へ向けて突進した。
そして――。
生い茂る木々に囲まれた古びた鳥居の中へ、雫たちは転がり込んだ。




