その三十一 雫、また怒られる
「斯様なことになるとは思わなんだ。わらわを狙うておるだけならば他の者は襲うまいと多寡を括っておったが――宿の評判を下げることになるやも知れん。世話になっておきながら、悪いことをした」
「ふふふ、いやだよう、そんなこと思うんなら端から泊めたりしないって。うちに泊まっている間は、何があろうとうちが面倒を見ますから、お気になさらず、ね」
敢えてだろうか、笑いながら平素通りの軽い口調で、巴は応えた。
颯太がううむと唸りながら、首を捻る。
「それにしても――やはり元凶は、あの鴉か」
雫は、先程目の当たりにした大きな影を思い起こした。
あれだけ距離があってもはっきりと羽音が聞こえるほどの、信じがたい大きさの鴉であった。まさしく怪鳥といった態で、あんなものに襲われたら、いかな手練れであっても一溜まりもないであろう。
雫は、先の侍の胸に深く刻まれた爪傷を脳裏に浮かべる。
彼の無念な顔に、気が沈む。
「町の外れの方角へ、飛び去っていったな」
颯太が云うと、それを受けて桜が応えた。
「あの方角には確か、小さな鎮守の森に囲まれた、お社が御座います。何を祀っておいでかは存じ上げませんが――辺りには他に目だった場所は御座いませんから、もしかすると」
「畏れ多くもその森に隠れ潜んでいるやも知れん、というわけだな」
有りそうな話だ、と颯太は頷いた。しかし雫には、今ひとつぴんと来ない。
「……妖怪が、神社に潜んでるの?」
「邪鬼は邪なる魅のこと、元を辿れば大いなる力を持ち、人に仇為す神にも至りましょう」
「神と妖物を隔てるのも、最後には人に害を為すか否かだ。根っこの部分では、さして違いはないぞ」
桜と颯太に続けざまにそう説かれ、雫はふうん、と呟いた。何やら不思議な気がした。雫が神と妖怪に対して持っている感覚と、かなりずれがある。単純に、聖なるものと禍禍しきもの、というだけではないようであった。
「左様か――ならば、その鴉とやらを何とかせねばなるまいな」
浄瑠璃姫は重重しく云う。
桜がすぐに肯った。
「はい――御剣様。あれがきっと、妖怪の源に御座います。何としても、何としても打ち倒し、江戸に元のような安寧を」
「何を他人事のように云うておる、桜」
雫の手を取って固く握り、目を輝かせて熱弁する桜に向かって、口をへの字に曲げて妙な顔をした浄瑠璃姫は、冷たくこう告げた。
「そなたも共に参れ」
「――は」
は、という形のまま口が開き放しになった桜は、巴の人形のようにぎこちない動きで、姫の方を向いた。姫はぺちぺちと、無感動に扇子で畳を叩いている。
桜は恐る恐る尋ねた。
「姫様、その、今、何と」
「だから。御剣、東雲と共に、桜もその社へ参れ、と申しておる」
「え。わ、私も行くのか」
今更ながらの颯太の動揺した言葉に、今度は雫が耳を疑う。じとりと睨み付けてやると、露骨に颯太は視線を逸らした。
はぁあ、と姫は呆れ返った溜息を吐いた。
「なんじゃそなたら、御剣一人に行かせるつもりじゃったのか。薄情な連中じゃのう。なあ御剣」
「……まったくです」
「い、いやその、姫、私は一介の絵描きを志す貧相な男に過ぎず」
「わ、私も、ただの町娘に御座いますから」
二人は懸命に両の手を突き出して断ろうとする。巴は部屋の隅に座り込んで、面白そうにその様子を眺めている。
ふう、と一旦息を吐くと、雫は立ち上がり、颯太の背後に回り込んでその襟首を猫のように引っ掴んだ。
「姫様、まあこいつは嫌がろうが何しようが私が首根っこ引っ張って連れてきますが、しかしその、桜ちゃんまで巻き込まなくても」
桜は当人の云うとおり、何と云うこともないただの町娘である。颯太以上に役立つとは考えにくい。無理に連れ込んでも危ういばかりであろう。
するとそれを聞いて、姫は鼻を鳴らした。
「この者を連れて行かずば何処にその社があるか判らぬではないか。それに――桜、そなたこそ御剣に付き従って行きたいのではないのか。ええ、どうじゃ」
目を細めて頬に手を添え、加虐的な云い振りで姫はにやりと口の端を上げる。云われた途端、桜はぼっと顔を赤らめた。
「いえ、けして、そのようなことは――」
「いずれにせよ、二人だけでは心許なかろうて。辺りの様子を窺う者が一人くらいおってもよかろう――それともなにか、ついて行かれぬ理由でもあるのか」
訝かしむようにそう問われ、桜はいいえ、と即座に首を振った。
「御座いません――」
「ならよい。わらわのことは心配するに及ばぬ。わらわにはそこな、護りの雛人形がある。巴と共に此処におるから、襲われる気遣いはなかろう」
「何かあったらあたしが全兵力を駆使して総掛かりで討ち取ってやるから、安心して行ってきな。宿の守りはそこらの田舎藩より万全だよぅ」
笑みを浮かべて巴は云う。雫は逆に安心できない。
「さあ、支度をして参れ。出向くのは、そうじゃな、草木も眠る丑三つ刻、妖怪が最も力を得ておる刻がよかろう。なまじっか向こうが弱きときじゃと、ずるずるとどこぞへ逃げられる虞がある。戦うときは正正堂堂、正面から行くが武士じゃ。うむ」
さあ者共、頼んだぞ、と満足そうに姫は結んだ。




