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その三十 雫、侍の無念を思う

 気づけば、すっかり日は落ちている。そちこちで道行く者の下げる提灯の光が揺れているが、まともな灯りと云えばそれだけである。

 また妖怪あやかしがどこからか現れるのではないか、と雫は気が気でなかったが、今度ばかりは桜の手前、逃げるわけにもいかない。


 しかし幸いなことに、三人が宿に着くまで、何事も起こらなかった。


 伽羅倶利屋の軒には夜になると、冗談としか思えないほど無駄に大きい、屋号の筆書きされた提灯が二つもぶら下がる。

 これがよい目印になっていて、暗い中でも迷わず辿り着くことが出来た。どれだけ巴が効能を狙ってやっているかは知れぬが、少なくともこれが、繁盛の一因であることは確かであった。


 その提灯の前で雫が桜に向かって、一緒の部屋で寝よっか、と戯れに誘い、桜が気を失いそうになっているとき。


 颯太がおい、と雫に声を掛けた。


「――妙な声が聞こえんか」


「声?」


「何か――呻き声が」


「また変な紐引っ張ったんじゃないの?」


 あくまで雫はつれない。意地を張って、怖さを誤魔化している部分もある。

 だが、颯太はあくまで真剣だった。


「何か――此方の、奥の方から」


 云いながら、隣屋との合間の狭く湿った暗い路地を、颯太はひょいと覗き込んだ。それからすぐにまた向き直ると、颯太は雫を見た。

 眉間に深く皺を刻んでいる。


 雫も真面目になって、颯太、桜と共にその路地へ向かった。


「う――う、う」


 驚いたことに――。

 そこにいたのは、瀕死の侍だった。


 血の染みた着物は、そこかしこが裂けている。まるで鋭い爪か何かで剥ぎ取ったかの如く、散り散りに引き千切れていた。

 そしてそれは着物だけでなく、着物の下の、躰も同じであった。眼を背けたくなるような、酷い様を晒している。雫は息を呑む。


 侍は土の上に俯せになり、乱れた髷に顔色を蒼白にして、虚ろな眼で、何事か云いたげに口をぱくぱくと動かしていた。


「あ、あ――」


「どうしたの!」


 駆け寄ると雫は問う。尋常な事態ではない。

 何者か、途方もなく恐ろしいものに襲われたとしか思えなかった。

 侍は掠れた声で、何とかこう、応えた。


「あ、あやかしに――襲われ」


 そこで酷く咳き込んだ。血を吐いている。ひい、ひい、と息も苦しげで、もう長くないことは明らかだった。何とかその言葉を聞き取ろうと、雫は懸命に、彼の口元へ耳を寄せる。


「ふ、文、文を――奪われた。早くせぬと――江戸が、危ない――ひぃ、ひ、姫が、姫が、あ――あやかし、に――」


 再び、何度も強く、腹の底から咳き込む。


 そして、最後に、

 侍は、動かなくなった。


 雫たちは沈黙する。

 不意に厭な気配を感じ、雫はさっと空を見上げた。


 巨大な真黒な影が、町の外れに向けてばさばさと羽ばたいていくのが、屋根の合間の夜闇に紛れてうっすらと見えた。


   *    *


「何という事じゃ――」


 沈痛な面持ちで、浄瑠璃姫は声を漏らした。すっかり見慣れた姫の居室で彼女に向き合う雫たち三人も、最早何も云えない。


 雫は、素直に頭を下げた。


「申し訳ありません姫様、その……私の力が及ばず、ご家来をあのような目に」


つるぎの所為ではない――その者が死んだは巡り合わせ。憎むべきは、許し難き妖怪あやかしどもじゃ。妖怪あやかしどもが、我が、家臣を――」


 言葉に詰まり、姫は黙した。雫は俯く。


 暫しの間、聞こえてくるのは部屋の外の微かな喧騒だけだった。


 程なくして、すっと静かに部屋の襖が開く。巴が、哀しげな表情を浮かべて入ってきた。


「今、外に役人方が来て検分してるよ。まあややこしいところはこっちで何とかしておくから、姫様もお侍さんも心配しなくていい。しっかし――人死にが出るとはね」


「済まぬ」


 驚いたことに、謝ったのは浄瑠璃姫だった。

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