その三 雫、神秘の絵巻と出逢う
展示台の上にだらしなく広げられたその大振りな巻物は、部屋にある他の品と比べると、少々時代が新しいように見えた。
部屋の薄暗い照明の下であっても、隅々まで描き尽くされたその鮮やかな絵の美しさはよく分かった。
祖父のおかげで少なからぬ数の江戸絵画を目にしてきた雫であったが、今目前にしているこの作品が群を抜いているというのは、一目瞭然であった。
江戸の町並みを、空からの視点で描いているのであろうか。
遠方には大きく美しい富士の山が聳え立ち、手前では、まるで細密画のように描き込まれたありとあらゆる江戸の風物が、隅から隅まで目を楽しませてくれていた。
侍、町人、商人、艶やかな着物姿の娘たち、そしてあどけない子供たち。
その素振りから表情に至るまで、事細かに丁寧に記されている。
背景の風景や静物も、まるで写真のように緻密でありかつ巧みであり、のみならず、独特の味わいまでも感じさせた。
そしてそれらの全てが、一つ残らず絵の具で丹念に色付けられていた。
小物の一つ、草葉の一枚に至るまで、慈しむように丁寧に、そしてたおやかに描き出されている。
生き生きとして今にも動き出しそうという形容が、何よりも相応しかった。
思わず雫も息を呑み、ただじっとその絵に見入った。
「……すごい」
「これこそが、極彩色虚言泡沫絵巻じゃ。
江戸末期から明治初期にかけての最後の浮世絵画家、歌方雅楽が描き残した、畢生の大作」
「雅楽? 聞いたことない……」
「うむ、日本画壇では未だに無視されておる、異端の画家じゃ。画楽とも、画楽多とも号しておるな。
彼は元々商家の生まれじゃったが生来身体が弱く、そのため生涯、江戸の町を出ることは叶わなかった。じゃが一方で、黄表紙読本浮世絵歌舞伎、浄瑠璃芝居に絡繰仕掛けと、ありとあらゆる娯楽に目がなかったのじゃ。
ろくに働きもせずこうした諸々のお楽しみに日々せっせと手を出しては喜んでいたという生粋の」
「ダメ人間」
雫は未だ不機嫌である。
「道楽者じゃ。まあその中でも絵描きの方に才があったらしく、細々したスケッチのような物は残っておる。
一代の碩学で、江戸でもちょっと名の通った知識人じゃったようじゃしな。
じゃがこれといってまとまった作品はないまま晩年に至り、そして、かの明治維新が起こった。
動乱に巻き込まれて大変ではあったが、雅楽は何とか生き延びて、明治の御代を見届けたんじゃ。
この時、齢既に米寿に近い」
「身体弱かった割に長生きだったのね」
「図太く生きれば案外人間何とかなる。
すると、ここに至って何を思ったか、突如として雅楽はそれまで素振りも見せなかった大作の制作を始めた。この時代誰も目を向けなかった絵巻物などを、全身全霊を傾けて描き出したのじゃ。
かくして、余生の全てを注ぎ込み、この傑作は誕生した」
祖父の言葉にふうん、と雫は相鎚を打ち、今一度絵を見やった。
幾度見ても凄みすら感じさせる、圧倒的な出来映えである。
そうするうち、次第に不思議に思えてきた雫は、ふと首を傾げた。
「変わり者だったのは分かったけど……でもこれだけのものだったら、もっと有名になっていてもいいような気がする。北斎とか豊国にも見劣りしないと思うな」
祖父の趣味の所為で、雫も十四歳の女の子らしからぬ渋い知識を身につけてしまっている。
それを聞いて、うんうんと祖父は頷いた。
「ま、端的に言えば……趣味に走りすぎたんじゃな」
「趣味?」
「ほれ例えば、この辺りを見てごらん」
そう言うと祖父は、巻物の半ばほどを指さした。
それを見た雫は、眉間に皺を寄せた。
全身を黒服に包んだ見るからに怪しげな人物が、宿屋の屋根の上に乗って、しきりに辺りの様子を窺っている。
「……これ、忍者? 江戸の町に? それも、こんな分かりやすい格好で?」
「どう考えてもおかしいじゃろ? それからこっちも」
「これは……妖怪、だよね。大入道? あ、こっちにも。あそこには、鬼? こっちには、空に凄い大きな鳥が描いてある……」
「町の外のこっちの方では、甲冑着た武者たちが馬に乗って合戦をしとるな。江戸時代じゃのに」
「わ、絡繰り人形が何体も描いてある……と思ったらここには綺麗なお姫様の見返り姿が……こっちには、これは、美少年剣士、かな。斬り合いしてる。
あれ? ちょっと待って。こっちでは青々とした葉っぱが樹に付いてるのに、こっちでは紅葉になってない?
え? あれは雪? 月と太陽が並んで、え? え? あれ?」
見れば見るほどに、雫は困惑を深めた。
時代は滅茶苦茶、内容に一貫性は全くなく、季節さえも場所によって異なっている。
現実的な場面と幻想的な場面も分け隔てなしに、画風すら必要に応じて連続的に変化させ、気の赴くままに描かれていた。
なまじ時代と風俗についての知識があるせいで、雫は混乱するばかりである。
仕舞いに顔を上げ、雫は問うた。
「何これ」