その二十六 雫、大鴉について教わる
「否、まだ判らぬな。ただ町に入り込んだ妖怪が、偶さかこの宿に現れたのかも知れぬ。まあいずれにしても昨日も申したように、この部屋には結界が張ってある。わらわがこの部屋に居る限り、妖怪どもが入り込んでくる気遣いはない。じゃが、早い内に何とかせねば、わらわの居所が妖怪どもに知れるのも時間の問題じゃ」
御剣、とか申したな、と姫は雫の方へと向き直った。
「一体何をしておったのじゃ。昨日はわらわを守ると胸張って云い切っておったではないか。それがいざ妖怪を目の前にしたらなんじゃ、ぎゃあぎゃあ喚いて逃げ惑うだけか。情けない。武士の猛き志はどうした」
さすがの雫も、言い訳のしようがなかった。だって怖かったんだもん、などと云おうものなら、今度は何を投げつけられるか判ったものではない。項垂れたまま、雫はこう云った。
「……今後は、善処します」
「頼んだぞ。わらわとて――こうしておるのが精一杯じゃ」
小さな声で、姫はそう云う。
よくよく見てみると、扇子を持った姫の手は、細かに震えていた。口では気丈な事を云ってはいるものの、心中は穏やかならぬのも当然であろう。
雫は余計に申し訳なくなり、そして、これからは何としても姫を守り抜かねばならない、と誓いを新たにした。
「あのぅ――よろしいでしょうか」
すると、遠慮がちに桜が口を開いた。雫は尋ねる。
「どうしたの?」
「実は、昨日の帰り際のことなので御座いますが――こちらの宿へ向けて、一羽の大きな大きな鴉が飛んでいくのを眼にしました」
「カラス?」
そう云われて雫は一瞬戸惑うが、すぐに昨日のことを思い出した。桜と別れるときに見た雄大な富士の姿、そしてそれに被さるように飛んでいく、大きな鳥の影。ひょっとすると、あれのことだろうか。雫は眉を顰める。
(あれが、カラス……?)
それにしては随分、大きかった気がした。桜は続ける。
「最近町の中でも、あちこちで頻りに鴉を眼にいたします。今朝方も、そこいら中で見かけました。普段はさほど、多く目にする鳥では御座いませんから――」
桜のそんな言葉を聞いて、雫は一瞬首を捻ったが、すぐに、
(ああ、今の日本みたいに一杯餌場もないから、まだそんなに数が増えてないんだ……)
と思い直した。
「初めは偶偶だろうと思っていたのですが、昨日の今日でそのようなことがあったのなら、何か関わりのあることなのかも――」
「鴉が来て、それが妖怪を運んできたって云うのかい」
半信半疑と云った風でニヤリと笑うと、巴は云う。
「あたしの宿に妙な物連れてくるようなのがいるんなら、あたしがお手製の大砲と改造種子島引っ張り出して、一撃で仕留めてやるんだけどねェ」
「大砲って……」
何やら物騒なことを云いだした巴はさておいて、雫は腕組みをすると、考え始めた。
――その大鴉がもし、邪鬼の魅の凝ったもの、だとすれば。
桜の言が確かなら、それを打ち倒せば妖怪どもは消え去っていくということになる。仮にそれが邪鬼そのものではなくとも、江戸がこのような状況になっている以上、無関係ではあるまい。調べる価値は充分にある。




