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その二十五 雫、いろんな意味で慌てる

 ――ばん。


 天井から、大きな音がした。


 ばん、ばん、と、何かが強く、頻りに天井板を叩いている。

 何が、かは判らない。


 再び二人が正面に向き直ると、部屋の中央には、何時の間にか布団が一組敷かれていた。その中には、こちらに背を向けて、見知らぬ女が眠っている。


 雫はまた、厭な予感を覚える。


 そうして見ている内に、次第次第と浴衣から伸びる女の首が、長くなっていく。ずるずるずるずると、引きずり出されるようにして伸びていく。女はまだ、此方に顔を見せない。首だけが、暗い部屋の中を煙のように揺らめいている。


 雫は、一歩も足を踏み出すことが出来ない。


 ふと見遣ると、床の間に掛けられた掛け軸の中に、毒毒しい顔をした女の絵があった。

 女は此方を見て、けたけたと嗤っている。


 けたけた。けたけた。けたけた。けたけた。

 けたけた。


「こ、れ……颯太の絵じゃ、ないの……」

「――見れば判ろうが」


 美しく流麗に描かれた女は、胡乱な眼をして、お歯黒を晒し、

 無為にけたけた嗤っているだけだった。


 気がつけば正面、びっしりと眼の憑いた障子の向こうに、

 大きな大きな、影が映っていた。


 影はぼやけて、姿が判然としない。

 しかし、手に何かを持っていることだけは判った。


 そしてその何かを振り回しながら、

 それはゆっくりゆっくりと、

 此方こちらに近づいてきている。


 近づいてきている。


 近づいて、きている。


 そこが――雫の限界だった。


 雫は声も上げずに身を翻すと、何時の間にかに元に戻っていた背後の襖を勢いよく開けて、颯太を引っ張ったまま、真っ暗な廊下へ飛び出した。


 ――厭だ、厭だ、厭だ。


 走って、はしって、走って、はしって。

 目を瞑ったままの二人は、虚ろで禍禍しき者共から、懸命に逃げた。


 すると。

 突然どん、と雫は何かにぶつかった。


 そのまま思い切り尻餅をつく。つられて颯太も、廊下に転がった。

 ――何だ。今度は、何だ。


 怯えた雫は身を竦めたまま、目を開けることすら出来なかった。

 しかし、頭の上からはこんな声が聞こえた。


「こんな夜中に何してるんだいお侍様、東雲様まで。危ないから廊下を走るんじゃありませんよ」

 目を開けてみれば、それはきょとんとした顔の巴だった。片手に行灯を提げている。

 半端にはだけた浴衣が、やけに色っぽかった。


「は、はは……」

 すっかり力の抜けた雫は、何も云い返せなかった。


   *    *


「お化けだってェ」


 明くる朝。


 律儀に訪ねてきた桜も加えて、皆が再び、浄瑠璃姫の部屋に集った。そうして雫が昨晩何があったかを告げると、巴はそんな頓狂な声を出したのである。

 実際明るく日が射し込み、雀のさえずる音の聞こえる部屋の中では、如何にも不釣り合いに聞こえる。


「うちの宿でかい。さあて、ついぞ聞いたことがないねえ」

「でもそう言われても、私たちはお化けに追い回されたんです。ねえ颯太」


 隣に向かって話しかけた雫が見遣ると、颯太はこくりこくりと舟を漕いでいた。コラッ、と雫は颯太の額を叩く。


「大事な話をしてるときに寝てるんじゃない!」

「――んあ。部屋に帰ってからも雫が寝かしてくれないからだ」


 眼を擦り、欠伸をしながら颯太は応えた。雫は赤面する。

 あの後部屋に戻ってからも、夜明けまではまだ大分時間があったのだが、どうにも怖くて寝付けなかったため、大した話もないのにずっと颯太に話しかけ続けて起きていたのである。


 二人のそんな会話を聞いて、桜がやたら動揺した調子で尋ねてきた。

「な、何をなさっていたので御座いますか――」

「ん。夜伽だ」


 簡単に颯太が応えると、紅潮した桜はますます動揺した。何か勘違いされている気がして慌てて雫は取り繕う。ましてや桜は雫のことをまだ男だと思っているのだ。何を想像されているか判ったものではない。


 ごほん、と大きく咳払いをすると、雫は話を元へ戻した。

「で、それはともかく……妖怪あやかしが湧いて出たのは確かなことで……」


「――わらわを追ってきたのじゃろう」

 重重しく浄瑠璃姫が云った。

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