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その二十三 雫、悪夢から目覚める

 ――そして、その夜。


 悪夢にうなされた雫は、夜半に目を覚ました。

 酷い、夢だった。


 息は上がり、躰は震え、浴衣は寝汗でびっしょりと濡れていた。


 怖かった。幼子おさなごのように泣き出しそうになった。痛いほどに胸が脈打っている。

 躰を起こした雫は思わず、隣の布団ですやすやと眠る颯太を見遣った。


 食事刻には箸の使い方、就寝前には布団の敷き方でまた一悶着あったけれど、一度ひとたび床についてしまえば寝顔は可愛いものだった。

 そんな姿を見て雫は、ほんの少し心が安らいだ。


 そうして雫は、悪夢のことを忘れようとした。

 けれど――もうどんな夢か、思い出せなかった。


 頭を小さく振ると、雫は乱れた浴衣を整えた。むしろ余計に寝覚めが悪い。そのまま眠る気にもなれず、雫は結局、厠に立つことにした。


 準備のよいことに、行灯の傍らに持手の付いた蝋燭が置いてあったため、それに火を灯すと、雫は真っ暗な廊下へと歩み出した。


 揺れる炎の不確かな明かりに照らされた宿の廊下は、光と陰の境界さかいが曖昧だった。まるで、自分の気持ちのようだ、と雫は思った。


 右へ左へふらりふらりと揺れ、どちらとも定まらぬ。そうやって自分は、いつも誰かに引かれ、何処かへ流されていく。


 その時、不意に雫の頭の中に、妙な想念が浮かんだ。


 雫は今、間違いなく泡沫絵巻の中にいる。それは確かだ。


 しこうして――、

 これは夢なのか、

 それとも、うつつなのか。


 そんなことを、雫は思った。

 雫は昼間、町を歩いた時のことを思い出す。絵巻の中でありながら、地はしかと在り、空は悠に広がる。


 人は其処そこに生き、おのれ此処ここに居る。雫の知る世界と何等変わらず、触れる物は悉皆しつかい揺らぐことなく存在している。

 儚い幻とは到底思えない。此処は確かに、うつつと思えた。


 だがしかし。


 先までの悪夢、見ている間はあれほど恐ろしく、見る物触れる物いずれも真実まことのこととしか思われなかったあの厭な夢のことは、今や欠片かけらも思い出せなかった。

 まるで、端から無いものであったかのように。


 ならば――。

 そのたちまちに忘れた夢のように、

 自分の元居た世界のことも、いずれは思い出せなくなるのだろうか。


 否。


 逆に、元居た世界に戻ったならば、

 この絵巻の世界は、揺らぎ霞み消え失せてしまうのだろうか。


 いずれにしても、己の生きるこの現は、容易に虚言うそへと変わり果てるようだった。


 ならば――。

 そんな泡沫あぶくの如き浮世に、一体何の意味があるというのだろうか。


 そんなことを、ぼんやりと雫は考えた。

 雫は、静かに俯いた。

 すると、突然。


 とん、と雫の右肩に手が置かれた。


「ひっ!」


「――おしっこ」


 飛び退くように振り返った雫が見たのは、眠そうに眼を擦り、はだけた浴衣を引きずった颯太であった。

 まるで母に縋る童のように、雫の浴衣の裾をくいくいと引いてくる。寝ぼけたまま、起きてきたらしかった。


 何やら気恥ずかしくなり、雫は起こそうとして呼びかけた。


「ちょっと、颯太、颯太」


「なに」


 頬を軽く叩いてみても、颯太は赤子のようにいやいやをするばかりである。仕方ない、と嘆息した雫は、そのまま颯太を厠へ連れて行ってやることにした。

 少し迷ったが、雫は颯太の手を取った。颯太は抗いもせず、すぐに握り返してきた。


 真っ暗な廊下を颯太と共に歩きながら、雫はこんなことも思った。


 ――そういえば、こいつはどういう子なんだろう。


 いきなり出会ったまま結局何となしに一日を共に過ごしてしまったが、思い返してみれば、下手の横好きで絵を描いているという以外、颯太のことは何も知らぬ。今改めて見てみても、年の割に些か幼すぎる以外は、普通の少年としか思えなかった。


 ――何者なんだろうな。


 ふわふわと欠伸をする颯太を横目に見ながら、雫は首を傾げた。


 ――あれ。


 その時雫は、ふと奇妙な違和を感じた。


 変だ。

 なんだか、

 廊下が長い。


 歩いても歩いても、

 軋む廊下が終わらない。


 おかしい。


 暗い廊下が何処どこまでも何時いつまでも続き、一向に厠へ辿り着かない。

 今自分が何処にいるのか、判らない。


 ぼやけた炎の光に映るのは――、

 冷たい廊下の床板だけだった。

 雫は、視線を天井へ向ける。


 そこへ、べろん、と、

 赤い舌を出した大きな顔が満面の笑みを浮かべ勢いよく垂れ下がってきた。


 雫は絶叫した。

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