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その二十 雫、浄瑠璃姫と語らう

「江戸城が?」


 雫がつい大きな声を出すと、御剣様っ、と桜が焦った。


「あまり大きなお声を出されませぬよう――」


「え、ああ、ゴメン……」


 町人がお上の噂など、往来でおいそれと口に出すものではないのだろう。

 周りを行く人人に気取られないよう恐る恐る、囁くように桜は云った。


「何やらお屋敷にひとがないとか、奇妙な物音がしたとか、入ったきり人が出てこないとか――。

 そればかりか、町の外で妖怪あやかしに立ち向かう軍勢にも、近頃めっきり将軍様からの命が届かぬようになった、と。まさかとは思うのですが――」


 桜は言葉を切った。雫にも、この娘が何を云いたいのかは判った。

 既に武家屋敷や江戸城の内にまで、妖怪あやかしどもがひそかに入り込んでいるのではないか――ということであろう。 


 妖しき邪鬼のすだまが、ずるりずるりと、江戸の町を侵していく。


 暗く澱んだ陰気の立ち籠める、町の行く末を雫は想像した。


 厭な光景だった。


 ――だが、そうなると。

 姫様と呼ばれていた、あの美しき娘。


 彼女が真実まつこと何処かの姫君ならば、そうした武家の屋敷から逃げ来たる身と云うことになろう。

 それが市井の旅籠に身を隠すとは、この江戸の大事に、何かしらの関わりがあるのだろうか。


 しかし――己の日常と余りにかけ離れた物事が続きすぎて、雫はどうやって考えを巡らしたものか、未だに見当も付かなかった。

 するとその時、不意に桜は足を止めると、前方を手で示した。


「あの橋を渡って此方このかたを真っ直ぐ進めば、今お話ししたお武家様のお屋敷が並び、更に奥へ行けばお城に至ります。そろそろ日も陰って参りましたし、私はこれにて――」


 云われて気づけば、次第に辺りは夕闇に包まれつつある。いつの間にかに、随分遠くまで来ていたらしい。

 心なしか出歩く人影も減っており、桜の話の通り、日が沈んだ後の妖物を恐れている様子だった。


 桜の示す方には、緩く弧を描く木の橋と、その向こうに建ち並ぶ幾つもの広い屋敷、そして夕焼ゆうやけに映える、大きく美しい城の影があった。


 桜に感謝の言葉を伝え、また明日宿で会う約束を交わすと、三人は手を振って、それぞれの方角へと別れた。


 何気なく、雫は空を見上げた。

 夕陽の沈む遥か彼方には、残雪を戴き裾野を広げる、静やかな富士の山が見えた。


 ああ、この頃は――。

 江戸から富士が見えたのだな、と雫は思った。


 霊峰を掠めて、大きな鳥が空を横切っていった。



「遅かったではないか。わらわをほったらかしにして何をしておったのじゃ。待ち草臥くたびれたぞこの愚か者ども」


 伽羅倶利屋に帰りつくなり飛んできたのは、こんな無遠慮な罵倒の文句だった。雫は閉口した。


 宿に帰り着くとすぐ、雫と颯太は女中に案内されるまま、突き当たりの松の間へと向かった。そうして部屋の襖を開けるなりこれであるから遣り切れない。


「おンやお客様方、お帰りなさいませぇ。そのお着物、よくお似合いですよお侍様」


 部屋の中からにやけた顔で出迎えるのは、ずっと姫の相手をしていたらしい、女将の巴であった。

 上等の着物に着替え、簡単に身形を整えたようで、見違えるように綺麗になっている。これにも雫は閉口した。


 床の間を背にして堂堂と座るその姫の前に、渋渋雫と颯太は膝を屈した。

 なまじ美しいひとであるから、斯様に大きな態度で目前に構えられると、従わざるを得ないような気分にさせられる。


「ふむ。とは云え――世話になったのは確かだな。礼を申すぞ」


 典雅に微笑むと、姫と呼ばれる女は楚楚と身を正した。


 こうした時どのような口を利けばよいのか雫はよく判らず、黙ったままで彼女を見つめる。彼女の視線まなざしには力があり、思わず囚われてしまうような魅力があった。


 一方それなりの心得があるらしい颯太は、頭を垂れてからこう問うた。


「身分違いながらお伺いいたします。旅籠の下働きは貴女様のことを姫様、とお呼びいたしておりました。見れば何かと訳ありのご様子。

 私共わたくしどもに出来ることがあれば、何なりとお申し付けください――それとしつけかと存じますが、姫様の御名をお教えいただけますでしょうか」


 雫には必要以上にへこへこと恐縮しているように見えた。時代が時代だからこういうものなのかも知れないが、しかし自分に対する傍若無人な振舞と、あまりに落差がある。


 何かこいつはそう云う趣味なんじゃないか、と雫は若干疑いを持った。


 僅かに目を畳に落とした美貌の姫は、やがて口を開いた。


「うむ――わらわは、じようひめと申す」

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