その十八 雫、この世界の理を合点する
振り返れば、何時の間にか隣からいなくなっていた颯太が、此方へ走り寄ってくるところだった。手に何かを握っている。
「侍だと云うのに脇差がないでは不自然だろう。これを持て」
そう云って颯太は、どこからか買ってきたそれを雫に手渡した。見るとそれは、飾り気のない刀二振りであった。しかも妙に軽い。
颯太はニッと笑う。
「玩具の竹光だが、ないよりマシだ」
「ありがとう……」
珍しく雫は、素直に感謝の言葉を口にした。
こうして賑やかな町のあちらこちらを巡り、桜の案内を聞きつつ、雫は颯太と共に歩いた。
そうしながら考えるうち、雫の胸中には或る仮説が浮かび上がってきた。
空を墜ちていく時からすでにぼんやりと考えていた、今の摩訶不思議な状況を説明する一つの「可能性」である。
(まさかとは思うけど……でも、この状況で「有り得ない」なんてことは何も言えないし……)
冷やかしに入った浮世絵屋から三人揃って出ると、雫は宿を出てこの方ずっと気になっていたことを、桜に尋ねた。
「あの、桜ちゃん。さっき巴さんが言っていた『戦場』って……あれ、どういう意味?」
「え、御剣様も東雲様も、其処を抜けて来られたのではないのですか」
目を円くした桜に逆に問い返されて、雫は困ってしまう。
まさか空から降ってきました、とは云えない。
すると、助け船を出すつもりなのか、代わりに颯太が応えた。
「いや、私たちは途中で偶さか一緒になったのだ。私はその戦場を何とか越えて来たが――雫はどうも近頃の江戸周りの事情を、よく知らぬらしい」
「左様に御座いますか――」
俯き加減に首肯すると、桜は暫し口を閉ざす。
そして、判りました、と云って、その「事情」を訥訥と話し始めた。
「――戦国乱世の時代も遠くなり、江戸の町もこれこの通り、何処にも負けぬ賑わいを見せております。将軍様のご加護もあって平穏無事な日々が続き、皆幸せに暮らしておりました。しかし――幾年か前より、江戸の周りに不穏な空気が立ち籠めるようになったのです」
伏し目がちに云う桜は、そこで顔を上げると、雫と目を合わせた。
「それは――妖怪どもに御座います」
「あやかし……」
意表を突く耳慣れぬ言葉に、雫は口を噤んだ。
桜は続ける。
「幾千年の昔より、遠く東国に身を潜めていた物怪妖怪が、いよいよこの江戸の町を乗っ取ろうと、大挙して押し寄せてきているので御座います――。
そこで将軍様は、隣国の殿様方にお触れを出し、化物どもを退治するため三万の軍勢を差し向けました。そして、人と妖怪との戦は未だ、弛むことなく続いているので御座います」
話を聞くうち何となしに不安になって、雫は周りをぞろぞろと行く、町の人人の姿を見た。誰もがそんな町の外の諍乱など、知らぬ存ぜぬと云った風である。事実、知らぬのかも知れぬ。
そんな彼らの様を見て雫は、自分たち三人が周囲の世界から切り離されたような、奇妙で曖昧な感を覚えた。
桜は雫の表情を伺いつつ、更に続けた。
「――御剣様のお察しの通り、町の人人は長く、そのことを知らされてはおりませんでした。いえ、未だに知らぬ人がほとんどです。人心を惑わさぬようにとのお上からのお達しに御座いました。
が、しかし近頃では、私がこのように聞き知っておりますように、段段と噂は広まりつつあります。妖怪どもが攻め入ってきている、人の軍は今や劣勢である、そう遠からぬうちに、町の中にまで妖怪どもは入り込んでくる、否、既に入り込んでいる――。
そしてそれらは皆、真のことなので御座います」
到底信じがたい異様なことばかりを、桜は真剣な面持ちで語り続けた。
ちらりと見れば、颯太も真面目な顔で頷いている。この突飛な話に、何も疑問は感じていないようだった。
雫はそっと、眉を顰めた。
真実雫が何かの事情で江戸時代に時間跳躍してきているのであれば、こんな語りを聞かされようはずもない。
徳川の治世二百六十年、雫の知る限り、大きな戦は一つとして起こらなかった。ましてや妖怪の軍勢など、現実の世界で有り得るわけがない。
と、なると。
此処に至ってようやく雫は、推測が確信に変わった。
やはり、そうだ。
此処は、本物の江戸では、ない。
虚言泡沫絵巻の中の、「江戸」なのだ。
それなら全てに得心がいく。
天空から舞い落ちる羽目になった雫。絡繰細工に溢れた愉快な宿。武士と妖怪の間で繰り広げられる大合戦。
にもかかわらず、随分と賑賑しく楽しげな江戸の町。そして、颯太のあの、不可思議な力。
これらはいずれも、歌方雅楽が描いた物語。
絵空事の世界なのだ。




