その十六 雫、竹を割ったような女にふて腐れる
あっけらかんとした女性の声であるが、不思議なことに辺りに部屋はなく、何処から聞こえてくるのか判らない。首を傾げて、雫は周囲を見廻した。
すると。
驚いたことに突然、廊下の天井の一部がぱか、と蓋を開けるようにして、音を立てて開いた。雫は目を見開く。
途端に焦り顔になった番頭が、大きな声を出した。
「と、巴様っ」
その声と同時ににゅっ、とその四角く開いた穴から顔を出したのは――まだ十八、九と思しき、若い娘であった。くるくると悪戯っぽい円い眼をして、興味津津といった面立ちで雫たちを順ぐりに見ている。
雫は唖然とした。
よいしょっと、と云って、その娘は身軽に飛び降りてきた。
磨き上げられた板張りの廊下が、とん、と軽い音を立てる。
「だからあたしは外に出るなって云ったのに。云うこと聞かないからねぇこの女」
巴と呼ばれた娘はふぅ、と息を吐くと、着物にまとわりついた埃をぱんぱんと手で払い落とした。小綺麗な宿の造りと全くそぐわぬ矢鱈と粗末な着物を身に纏っており、ろくに結いもせず櫛も入れていないらしいその髪は、好き放題に乱れている。鼻の頭は黒く煤で汚れていた。
そして巴はすっ、と框に座すると、品よく頭を下げた。
「ようこそ伽羅倶利屋へ。女将の巴と申します。うちのお客様がお手数をおかけしたようで、どうも有難う御座います」
「女将……」
隣であわあわと慌てふためく番頭を横目に見ながら、雫は呟いた。奥向では柱の陰から、女中たちが恐恐此方を覗いている姿が見える。
これが旅籠の女将なのだろうか、と巴を前にして雫は考える。番頭たちの反応からするに、もしかすると見せてはいけない人なのかも知れない。
顔の造作は愛嬌があり、身形髪型口調振舞も下品でこそないにしろ、どちらかといえばよく気の回る百姓の長女とでも云った方が合点がいく気がした。
否、そんなことよりも――。
「何か」
低頭している巴の乱れた着物の胸元を、つい吸い付けられるようにして雫が見つめていると、不思議そうに顔を上げた巴は首を傾げた。
そして視線の先に気付くなり、嫌だお侍様、と襟元を直した。
「見て減るもんじゃないにしたって、女の躰そうじろじろと眺めるもんじゃないよぅ。これでも年頃の娘なんだから、誰彼構わず乳見せて廻るわけにもいかないし」
「巴様――ご自重くださいませ」
汗をかきかき番頭は口を挟むが、巴は一向気にする様子もない。
「ご覧の通りの鳩胸出っ尻。帯に乗っかってみっともないったら」
そう云うと、肩を揺らして巴は快活に笑った。
一方雫は目を逸らし、思った。
(鳩胸出っ尻……)
悶悶と暗雲立ち籠める妬忌の海へと沈没していく雫を他所に、これも一応年頃の颯太は、おほん、と小さく咳払いをして、話を戻した。
「女将。この美しい姫君のことは取り敢えず任せるとして、我我二人の部屋は取れるか」
「えぇ何なりと。いいね、アンタたち」
即座に振り返ると、女中たちへ向かって巴は有無を云わさぬ鋭い調子で云った。急いで用意をしに行ったらしい女中らの後姿を見て、何だかんだで巴もやはり出来る人間なのだな、と雫は内心感心した。
そうして腰を上げた巴は、颯太に向かって続けて云った。
「一間でよろしゅう御座いますね」
「うむ」
「え、あ、ちょっ」
さらりと流されて、雫は言葉を挟めない。
会ったその日に相部屋で男の子、ましてこんな奴と一晩を共にするなど、全く以て冗談ではない。が、かと云ってこの状況では最早逃げようもない。苦い顔をしながら、雫は観念することにした。
それから巴は、少少思案する顔をして話を続ける。
「ただ――まだ日も高こう御座いますからね。こちらにも支度が御座います。よろしければ少しの間お二方、この近くをゆるり巡っていらしては如何です。今日江戸にお着きになったのならば、かの戦場を抜けてこられたと云うこと。さぞ気の塞ぐ思いをしておられましょう。気晴らしに、丁度よう御座いますよ」
先とは打って変わって上品な言葉遣いで話す巴に瞠目しつつも、雫はその言葉の一つに、小さな疑念を感じた。
(戦場……?)
此処が真実江戸時代の江戸ならば、当然そんな近場で大規模な合戦などしていようはずもない。否そもそも、颯太の力と云いこの宿と云い、先程から不可思議なことが多すぎる。
となると此処は――。
しかし颯太は考え込む雫のことなど一向意に介する様子もなく、
「うんそうしよう、雫、桜、行くぞッ」
と満面の笑みで宣言した。
案内をしてくれるな、と断定口調で頼まれて、桜はまたおろおろとしている。いってらっしゃいませ、と巴はしずしず頭を下げる。
そして雫は――。
溜息を吐いた。




