私は愛を知っている
悪役令嬢の婚約破棄話が書きたかったんですが、短編にまとめようとしたらこんな事に……
ざまぁ要素は少し。残酷描写は保険ですが、暴力行為を匂わす表現があるので苦手な方はご注意ください。
多くのご指摘をいただきましたので、ジャンル・キーワードを変更しました。今後続きを書いていく上で、該当する話を更新した時にまた改めてタグの編集をさせていただきたいと思います。
「フリージア・クランベール。貴様との婚約を破棄する!」
煌びやかなダンスホール。
オーケストラの奏でるスローテンポのダンス曲。
部屋の端では学食のスタッフによる豪華な食事とスイーツが空腹を刺激する香りを放ち、着飾った令嬢達の美しいドレスが満開の花々のようにふわりふわりと舞う。
ルルージェ学園に通う生徒にとって、一年に一度の華やかな舞台。
それが、一年の締めくくりに行われる学園主催のダンスパーティーだった。
そんな中、我が物顔で中央を陣取るミルファート・ルーベルージュ王子に呼びつけられたフリージアは、騎士見習いの制服を着た男に引き摺られるようにして前に出た。
あまりにも乱暴に腕を引かれ、更にはフロアの真ん中に突き飛ばされてしまったものだから足を捻ってしまったらしい。痛みのせいで溢れそうになった声を、歯を食いしばって殺す。
呼び出されたフリージアは一人きり。
対するミルファートはその腕に一人の女性を抱いた。
婚約者であるフリージアを見る瞳には侮蔑の色すら浮かんでいて、溜息を一つ。思わず出てしまった呆れと嘲りの混じった溜息だが、ミルファートに届かなければ不敬にもならないだろう。
あぁ、これが断罪イベントとやらか。
好奇の視線に晒される中でそんな風に思えたのは、恐らく沢山の奇跡が重なったお陰だろう。
今この瞬間に至るまでの日々を思い返して、フリージアはそっと目を閉じた。
フリージア・クランベールはクランベール公爵家の長女として生まれた。
父のアーノルド・クランベールは平凡である事が取り柄と言われるような人間で、目立つ容姿でもなければ特出するような才能もなかった。
領地運営に於いても、引き継いだ事を無難に維持する事は出来ても前進させる事はない。そんな人間である。
対して母のフィオリータは見た目も才覚も派手な、目を引く女性であった。
燃えるような赤い髪に蜂蜜色の瞳の美貌とその商才は目を見張るものがあり、社交界にデビューした頃から彼女を射止めようと沢山の男たちが彼女の元に集まったものだ。
だがその頃には既に、フィオリータはアーノルドとの婚約が決まっていたのである。
アーノルドに才覚がない事を知っていた前クランベール公爵は、フィオリータにその欠点を補ってもらうつもりだったのだ。
貴族に良くある、家の為の結婚。
フィオリータの方はそれを理解していたが、残念ながらアーノルドは理解できなかったようだ。
アーノルドは、己より才能のあるフィオリータを疎んだ。むしろ憎んだと言う方が良いだろう。
フィオリータの方もアーノルドを愛する事は契約外だと言いたげに、冷たく当たるアーノルドを無視し続けた。彼女には自分を疎む夫より、頼りにしてくれる領民の方が大事だったのだ。
ただフィオリータにとって誤算だったのは、アーノルドがフィオリータに似た娘まで疎んだ事。そして、己の寿命の短さだった。
フィオリータが亡くなったのは、フリージアが4歳の頃。不運な事故だった。領地の視察からの帰り、盗賊に襲われたのだと聞いている。
不幸中の幸いは、美しい公爵夫人に辱めを受けた形跡がない事だと大人は言ったが、何が幸運なのか幼いフリージアには分からなかった。
そして、アーノルドは待っていたとばかりに再婚した。
相手は男爵の一人娘であったが、家格の差や再婚の速さ、何よりもフリージアと2歳しか変わらない子供を連れていた事。何があったのかを察した貴族達はアーノルドと新しい公爵夫人、リリーヴェと距離を置いた。
結果として、幼いフリージアを気にかける者もいなくなってしまったのは、その後の彼女の人生に大きな傷を残してしまう事になる。
義母は控えめに言って最悪な人間だった。いや、義母だけではない。父親であるアーノルドも新しい妹のエミリアも、彼女達が新たに雇い入れた使用人達も全て、フリージアの敵でしかなかった。
誰も彼もが、フリージアに害意を剥き出しにしたのだ。フリージアの何も知らないくせに、自分達の為に幼いフリージアを犠牲にした。
フリージアはそれまで持っていた物を全て奪われてしまった。
4歳までの誕生日に貰った絵本。ぬいぐるみ。細やかな刺繍のリボン。誕生月の宝石を使った首飾り。母の形見のアクセサリーやドレス。高価な物から、クビにされた古参の使用人がくれた刺繍入りのハンカチまで。
何も持っていない妹、エミリアが可哀想だから分けてあげなさいという名目で、全て奪われてしまった。
そうして、フリージアの部屋は伽藍堂になってしまって。奪われるばかりで与えられる事など何一つ無くなってしまったから、本当に、何にもなくて。
悪夢はそれだけでは終わらない。
大切な物を奪われて、抵抗すれば殴られた。
リリーヴェの機嫌が悪いと殴られた。
エミリアが泣くと殴られた。
痛くて泣くと更に酷く殴られた。
そうして出来上がったのは、泣くに泣けない空っぽの女の子が一人。
その様子はゼンマイ仕掛けの人形のようで、気持ちが悪いと殴られる。それはもう日常であった。
それでもフリージアが守り通していた、その幼い命すら奪われそうになったのはアーノルドが再婚して二年が経った頃だ。
その年に流行った風邪を引いたフリージアは高熱を出す。この年の風邪は長引く上に、かかれば年齢に関わらず命の危険に陥ると貴族は勿論、平民にすら警告されていたのにも関わらず、フリージアの風邪は放置されてしまった。
今現在フリージアがこうして生きているのは、あの日。風邪を引いてしまったあの日。フリージアの元へ駆け付けてくれた人の存在があるからだ。
あの日、使用人の一人が風邪を引いたフリージアを唯一気にかけて、夜通し看病してくれた。
その時の事を思う時、フリージアの胸にはふわりと温かい光が宿った。
辛くて、苦しくて、もういっそ母の元へ行ってしまおうかと。心が折れてしまいそうなその時だったのだ、彼女と出会ったのは。
「お嬢様、死んだら許しませんからね!」
そんな事を言いながら、勢い良く部屋に入ってきた女の人。朧げな記憶の中、彼女の必死な顔だけはよく覚えている。
彼女は。今でもフリージアの侍女をしてくれる彼女はあの日、ありったけの愛情を注いでくれた。
寝ずに看病してくれて。フリージアの変化を一つも漏らさず観察してくれて。フリージアが治るまで、付きっ切りで一緒にいてくれたのだ。流行病が移るだなんて、そんな事一切考えずに。
それだけでは無かった。
その侍女マリーンはその後もずっとフリージアに付いていてくれたのだ。
幼いフリージアが眠れない日。マリーンは温かいココアを淹れてくれた。その時に聞いた昔語を、フリージアは一字一句違えず覚えている。
フリージアが母の形見のハンカチを奪われた日。代わりにもなりはしないけれどと申し訳なさそうに、向日葵の花を刺してくれた木綿の布切れは今でも宝箱の中に入っていた。
誕生日毎に手作りのケーキを作ってくれて、厳しいだけの勉強もマメに褒めてくれた。他愛もない我儘を聞いてくれて、嵐の夜に一緒に寝てくれた。子守唄を歌ってくれた。
本当の子供のように愛してくれた。
断罪イベントはそのマリーンが言っていた事である。
彼女には前世の記憶がある事。フリージアはマリーンの知る「乙女げーむ」の悪役令嬢だという事。愛する婚約者を妹であるエミリアに奪われてしまう事。自分を愛してくれるはずの唯一の人すら奪うエミリアに嫉妬し、犯罪紛いの嫌がらせを行ってしまう事。このままでは婚約破棄された後は家を追い出されるか、悲惨な死を遂げるかの未来しかない事。
その他にも様々な「るーと」を聞いたが、どのフリージアも愛情に飢えるあまり心を病み、悪行を重ねて道を踏み外した。その非道な行いは化物と呼ぶに相応しい。
正直、初めて聞いた時は信じられなかった。信じられる訳がない。
マリーンの口から出てくる言葉はフリージアの持つどの辞書にも載っていなかったし、他の誰かが口にしている所を聞いた事もなかったのだ。
それに、あの頃のフリージアは義母リリーヴェの機嫌どころか自分より小さいエミリアの癇癪にすら怯えて過ごす日々である。それなのにエミリアをイジメるだなんて、考えるだけでも恐ろしい。
それでもその後、彼女の言う事を信じなければいけない出来事が次々と重なってしまったので、結果として彼女の助言には従うようにはなったのだけれど。
まぁ、今はそんな事は関係ないわよね。
懐かしさに目を細めそうになった所を慌てて気を引き締める。
マリーンの言う通りになりすぎてつい微笑ましくなってしまったのだけれど、世間一般的に言えばここは今、立派な修羅場だ。
「申し訳ありません、殿下。もう一度仰っていただけますか?」
顔を上げて階段の上に仁王立ちになるミルファートに向かい笑みを浮かべる。痛む足になるべく負担を掛けないようにしながら立ち上がると、フリージアは周囲からの好奇や侮蔑や同情といった視線を跳ね返すように真っ直ぐにミルファートに目を向けた。
「…っ、貴様との婚約を破棄すると言ったのだ!」
「はぁ」
いや、もう一度とお願いしたのはフリージア自身だが、聞きたかったのはそれではない。全く同じ事を繰り返すとは思わなかったのだから、気の抜けた声が出てしまうのも無理はない、はずだ。
「殿下、私共の婚約は国王陛下が決められたもの。理由もなく勝手に破棄する事は不可能ですわ」
呆れた事は顔に出さない。表情を作るなんて王妃教育で叩き込まれている。それこそ、文字通りに。
代わりとばかりに頰に手を当て、態とらしく困った顔をしてみせる。周りを囲んでいる貴族達に、こちらが下だと思われないように、指先にまで気を使いながら。
あくまでも優位に立っているのはフリージアである。そう思わせなければならない。少なくとも、この場にいる人間を味方に付けなければ、今後のフリージアの生活が面倒な事になる。
最初に引き摺られて登場してしまったから、これ以上隙を見せてはいけないのだ。
だって、フリージアは何も悪くないのだから。
「理由? 貴様は私の婚約者という身分を笠に着て、ここにいる実の妹エミリアに害を加えた! 可哀想に。エミリアはフリージアにドレスや宝石のみならず、私の贈ったペンやノートまでも奪われ、壊され、捨てられたというではないか! そして遂には……」
ミルファートはそこで一度言葉を切った。
悲痛な表情を浮かべて、その腕に体を預けるエミリアを労わるように見る。
よく見ればエミリアの腕に包帯が巻かれていて、そういえば数日前にエミリアが怪我をしたと両親が騒いでいた事を思い出した。
マリーンの知識ではフリージアは最後、エミリアを階段から突き落として殺そうとするのだと言うから、きっとそれなのだろう。
勿論、フリージアには全く関係のない事なのだが。
「遂には、エミリアを階段から突き落とした! おおよそ、私の寵愛をエミリアに奪われて嫉妬したのだろう。だが勘違いをするな。そもそも私は貴様など愛してはいない!」
ギリッと鋭く睨む瞳はきっと盲目だ。
一国の王太子が婚約者以外の女性に愛を囁く。その行為の行く末を、きっと彼は見ていないのだ。
或いは、見えないフリをしているのかしら。
一考するが、答えの出ない事をぐるぐると考え込む時間はない。黙っていればいるほど、目の前の愚か者達は得意げになってフリージアを断罪するのだから。
瞑目する。
深く息を吐いて、心を落ち着かせた。震えそうになる足に力を込め、フリージアは目を開く。
浮かべるのは冷笑。
誰が見ても嘲っているのだと分かるほど、凄烈な威嚇。
「お言葉ですが、殿下の仰った事柄一つ私には身に覚えがございませんわ」
「とぼける気か!?」
「とぼけるだなんて、そんな。ただ、私は王妃教育のため毎日王宮へ出向いておりますし、国王陛下より護衛として騎士を充てがわれております。彼に聞けば私が何をしていたか、証言していただけるかと」
ちらり、と。視線を流した先には、騎士団の制服を着た男がいた。
昔からフリージアの護衛である彼は、今や兄のような存在である。数少ないフリージアを愛してくれる存在。その彼に聞けば、フリージアの無実は証明されるだろう。
虚偽ではない。事実、フリージアは王妃教育と家の教育とで忙しく、エミリアに関わっている時間はないのだから。
「それと、これだけは強く否定したく……」
お気に入りの扇を広げ、口元を隠す。
目元だけニヤリと歪めれば、ミルファートが思い切り顔を歪めた。ミルファートだけではない。弱々しく彼に凭れかかるエミリアも、憎々しげに顔を歪めるのが見えた。
あらあら。周りからは見えないとは言え、そんな風に怖い顔をしてはいろいろ勘付かれてしまいますわよ。
わざわざ口に出して教えてやっても良かったが、今はエミリアよりもミルファートの方が先だ。
「貴様、一体何を……」
「私、殿下の仰った事に何一つ身に覚えがないとお伝えいたしました」
一度言葉を切る。
息を吸って、吐いて。
真っ直ぐにミルファートを睨む。
フリージアを愛してくれる筈だった人。そう思い込んでいた人。いや、それだって今はもう違うのだ。
フリージアにはマリーンがいる。
数は少ないが信頼できる友人がいる。命を預けられる護衛がいる。
伽藍堂の胸を抱えた悪趣味な人形のようなフリージアを愛してくれた人々がいる。
彼らが注いでくれた愛でフリージアは出来ている。今更ミルファートの愛を求めないし、彼らが育ててくれたフリージアの心をミルファートにあげるなど天変地異が起きてもありえない。
今のフリージアは、愛に飢えた心の醜い化物ではないのだ。
大丈夫よ、そうならないために今日まで準備をしてきたわ。私には皆んながいるもの。これからも皆んなで過ごす為に、この場は負けらない。
大丈夫だと何度も言い聞かせながら、フリージアは強調するように声を張り上げた。
「私、殿下の事などこれっぽっちも愛してはおりませんわ。ですから、それに嫉妬した事などございませんし、これからもする予定はございません。嫉妬などないのですから、それを害する意味もございません」
それ、と。パチンと閉じた扇でエミリアを指す。
その瞬間のミルファートとエミリアの顔と言ったら!
呆然と目を丸くするミルファートと、憎悪を露わにフリージアを睨み付けるエミリア。怒りに震えるエミリアに取り巻きの令息達が声を掛けているが、果たして耳に入っているのかどうか。
「何よ……」
「エミリア?」
「何よ、何よ、何よ! アンタなんて誰からも愛されない出来損ないのくせに! 嫌われ者のくせに! 自己愛の塊で自分勝手って"設定"なんだから、その通り動きなさいよ! 本当にムカつく!」
地団駄を踏む公爵令嬢というものを、フリージアは初めて見た。
綺麗に整えた髪を振り乱し、あぁもうと苛立たしく吐き捨てる姿は恐ろしくもあるし、滑稽でもある。
そんなエミリアを見るミルファートの目に、若干の怯えの色を見つけて、フリージアはこっそりと同情する。
癇癪を起こしたエミリアの暴走は凄まじく、そして騒がしい。手当たり次第に物を投げる、壊す、殴る、暴言を吐く。それらを彼女の気の済むまで行うのだ。
アーノルドやリリーヴェから甘やかされて育った弊害だろう。エミリアの心は幼い頃のままなのだ。
「お父様とお母様に言い付けてやる! また打たれれば良いんだわ! そうよ、そうすればきっと、ストーリー通りに動くはずよ!」
エミリアの手が何かを探すように動いた。
癇癪を起こした彼女は物を投げる。無意識に、投げる物を探しているのだろう。
フリージアがハッとした時にはもう遅かった。
エミリアの指が彼女の指が、隣に立つ令息の一人の腰辺りに触れる。その令息は騎士団長の嫡男で、ミルファートの護衛も兼ねているためか常に帯剣していた。
エミリアの手は、彼の腰に下げた剣に触れてしまったのだ。
「……っ!」
フリージアが身を強張らせる。それは条件反射のようなもの。逃げると更に酷く殴られる事が殆どだから、フリージアは飛んでくる物を全て受けなければならなかった。その癖が、出てしまった。
本当なら、避けなければならなかったのに。
「フリージア様っ!」
「いやぁぁぁっ!」
遠くで聞こえるのは耳に慣れた友人の声。
背後から聞こえる足音は、きっと護衛の彼の物。
真っ直ぐに飛んでくる刃。
焦った顔のミルファートや令息達に、いつものようにしたり顔なエミリア。
それら一つ一つを冷静に観察出来るのに、足だけが震えて動けない。少しでも動いてしまえば次の瞬間、必ず殴られてしまう。
そんな思いに囚われて、痛みに怯えて、身体が動かない。
そして、視界は黒く染まる。
緊張と恐怖に耐え切れず、フリージアが意識を手放したのはその直後。
幸い、エミリアの細腕では重い剣などそれほど遠くに投げられるわけがなく、剣が落ちたのはフリージアとエミリアのちょうど真ん中辺り。
その瞬間、フリージアは護衛に保護され、エミリアは教師達に拘束された。
ミルファートは目の前で起こった出来事を理解出来ずに座り込んでしまい暫く動かなかったと聞いたのは、病院のベッドの上でだった。
「ねぇ、マリーン」
「はい、お嬢様」
真っ白なベッドの上で優雅に紅茶を飲むフリージアに大きな傷は見られない。唯一、怪我と呼べそうなものはフロアへ突き飛ばされた時に捻った足首だけなのだが、過保護気味なマリーンと友人達に命じられ暫くは一人で散歩する事すら禁止されている。
「私、なぜあんなに嫌われてたんでしょうね?」
思い返す。剣を投げた瞬間に見た、エミリアの顔。あれは確かに、フリージアが剣に貫かれる事を望んでいた。
そんな風に憎まれるほど何かをした覚えは、フリージアにはないのに。
それなのに。
フリージアの何が、エミリアをそんなに追い詰めたのだろう。マリーンに未来を告げられてから、嫌われないように努力したつもりではあったのに。
「私はお嬢様に何をされても嫌いにならない自信があります。死んで欲しいと願われれば喜んで捧げますよ」
「マリーン!」
さらりと事も無く言ってのけたマリーンに、フリージアは強く咎めるように目尻を吊り上げた。
そんなフリージアの頭をゆっくりと撫でて、マリーンはベッドの横に膝をつく。幼い子供に言い聞かせるようだとフリージアは感じたが、強ち間違い間違いではないだろう。
きっとマリーンにとって、フリージアはずっと子供のままなのだ。
「私はお嬢様が大好きです。命だって賭けられます。それに理由はありません。だって、私がお嬢様を好きなだけなんです。けれど覚えていて下さい。同じくらい理由もなく、人を嫌う事だってあるのです。長所を疎む人間もいれば短所を愛でる人間もいるのです」
お嬢様には理解出来ないかもしれませんけどね。
柔らかな苦笑を浮かべるマリーンにフリージアはゆっくりと首を縦に振った。
確かに理解はできない。
物事には理由がある。原因があるから結果があるのだ。少なくともそう教わってきた。
そんなものが関係ない、曖昧な感情を理解するにはフリージアの世界は狭すぎたし、その狭い世界の中にいる人間は極端すぎる。
「いいですか、お嬢様。世の中には恩はあるけど嫌いな人。厄介事しか起こさないけど憎めない人。そんな人間など掃いて捨てるほどおります。理屈のいらない感情もあるのですよ」
まぁ、だからといって嫌いな人間に危害を加えて良いという訳でもないですけどね。
溜息交じりに漏らした言葉は誰に向かっているのか。遠い目をしたマリーンに今度はフリージアが苦笑する番だった。
でも、そうか。そういうものなのか。
「私、今までマリーンを好きだったのは救ってくれたからだと思っていたのだけど……そうね、それはきっかけでしかないのね」
確かに、今ならマリーンに裏切られたとしても嫌いになれない。
「そうです。その感情の逆だったんですよ、エミリア様は。理屈抜きでお嬢様の事が嫌いだったんです。お嬢様が正反対の事をしても嫌ってますよ、あの方は」
だから、お嬢様は何も悪くありません。
キッパリと言い切ったマリーンは、さっと立ち上がるとフリージアの手からティーカップを取り上げた。この話はもう終わりだと言うように、フリージアの小さな口に頂き物のクッキーを放り込む。
甘さ控えめの素朴な味わいは、きっと友人の一人が用意してくれたものだろう。優しい味に、暗く沈んだ胸の内も少し晴れた。
「さて、お嬢様。これでお嬢様は破滅エンドを回避できたと言って良いでしょう。まぁ、ゲームの強制力を想定しある程度の警戒は必要ですが、今までに比べたらその心配は微々たるものです」
主人公であるエミリア様は完全に排除しましたからね。主人公のいない物語なんて、そもそも成立しませんし。
相変わらず、マリーンの言葉は難しい。あまり理解は出来ないが、彼女が喜んでいる事、フリージアが恐れたエンディングを回避出来た事は伝わった。
安堵するフリージアも目元を和ませる。
「これで私は化物になんてならずに済んだのね」
「今の所は」
「まだ何か心配事が?」
「心配事といいますか……あとは愛する旦那様を見つけてきてくれたら完璧なのに、と」
「それは……」
時間がかかりそうね、と。
言葉を呑み込んだフリージアはベッドに寝転がる。倒れ込むように横になったお行儀の悪さを指摘するマリーンはどこか楽しげだ。
「ゆっくりでいいのですよ。愛なんて急いで見つけるものでもないのですから」
「そう。貴女が言うなら、きっとそうなのね」
マリーンの掌がゆっくりとフリージアの頭を撫でる。
その感覚が心地良く、そして懐かしい。
幼い頃、眠れぬ夜に撫でてくれた掌と同じ体温。遠い記憶の隅にある、母に撫でられた時と同じ温もり。
この手があったから、今まで生きてこられたのだと改めて思う。
「おやすみなさい、お嬢様。もう少ししたら、また忙しくなりますから」
それまではどうか、ごゆっくり。
マリーンの声が柔らかい子守唄に変わる。
ずっと頭を撫でているところを見るに、どうやらこのままフリージアを甘やかし倒す気でいるらしい。
その事を少しくすぐったく感じながら、フリージアは目を閉じた。
どんどんと遠ざかって行く意識の片隅で、ふと思う。
たくさんあると言う愛の一つはきっと、マリーンの掌の温もりを指すのだろう。
そのうち連載にするか、短編で続きやスピンオフを書いていきたいです。