53話 サッドネス すれ違う漂流者
「おい、起きろ! 愛、愛!」
ぼんやりとした意識の中で、揺さぶられる体の感覚と、龍二の声が愛に安眠を許さない。寝ぼけ眼を少しだけ開けて、とりあえず愛は答える。
「う、ううん……おはよう龍二君……おやすみ」
一度は起きてやろうと思ってはみたが、やはり襲ってくる睡魔には勝てない。起床と二度寝の天秤は、二度寝側に大きな重石が乗っていた。今日は掛け布団は無いし床は冷たくて何やらざらざらしている。枕も無いがこれは龍二の膝で何とか代用できていて気分的にも不満はない。満足とはいかないが十分な環境だと、愛の意識がもう一度落ちようかとしたとき、また体が揺さぶられる。
「まだ夜なのに二度寝している場合か! こんなところで寝たら風邪をひくぞ! 起きてくれ愛! 頼む!」
「あーもう! なんなのさ!」
流石に二度も睡眠を邪魔されれば愛も飛び起きる。勢いよく上体を起こして龍二を睨みつけるとその後ろの背景がやけに自然豊かだとわかる。いくら豊金が田舎とは言え、こんなに南国に生えているような木など見たことが無かったはずだが……首を振って周囲を確認してみると、前方に草木生い茂る森、左右には広い砂浜が広がっていて、後方にはどこまでも果てしなく続く海。
「ど、どこなのさここー!」
愛が海に向かって絶叫する。その声は波の音と共に水平線のかなたへ消えていった。
「生憎俺にもわからん。どうやら奴の竜巻でここまで飛ばされてきたらしいが……少なくとも知っている土地ではないな」
「奴の竜巻って……あ、あー……あれか、思い出してきた、あの鳥人間」
愛が徐々に意識を失う前の状況を思い出す。深夜、突如として現れた龍二を狙うベルゼリアンの姉妹、オキュペテとアエロ。妹のアエロの方は虎白の救援によって退けたものの、オキュペテの起こした竜巻によってここに飛ばされてしまったのだ。
「まさか人を吹き飛ばすほどの風量を生み出せるとはな……完全に外部との連絡手段もない。何とかするしかないか……愛、周辺を調べたい。歩けるか」
愛が服についた砂をはたき落として、自分の状態を確かめる。飛ばされる前に出来た肘と膝の擦り傷。後は唇から未だに血の味がするが、ここに飛ばされる際の傷はほぼ無いに等しい。ここに落下してくる時も、龍二がしっかりと守ってくれたのだろう。
「うん、大丈夫だよ。龍二君こそ、体の調子は大丈夫なの?」
「手ひどくやられたからな。痛みはあるが、歩く程度ならば問題ない」
軽傷の愛に比べ、龍二の身体はボロボロだ。ここに飛ばされたときに全身打撲。少しでも体を動かせば痛みが体中に走る。しかしその程度はまだ浅い方で、それ以上にひどいのはオキュペテに食いちぎられた右肩の傷だ。皮膚を乱暴に抉られた傷は、龍二の再生能力が有れどすぐには治らない。冷たい汗がとめどなく流れ出る中、龍二は肩を抑えながら歩きだす。
「これで一周か。ずいぶん小さかったな」
龍二達が探索を初めて、さほど時間がかからずに元の場所に戻ってきてしまった。探索をしてわかったことは二つ。まずここは、小さい島であるという事。島の外周は全て海に囲まれており、陸路でここを脱出することは不可能だ。そして次に、人がいない所謂無人島だという事。今現在人が居ないだけでなく、島には昔に人が居た痕跡すら存在しない。
「本格的に遭難って奴……? 私達帰れるのかな」
島を一周し、目覚めた場所に戻って来た愛達。拾ってきた流木や燃えそうな物を一箇所に集めて、龍二が火を起こすことで焚き火を作った。
「脱出の手段を探すか、救援を待つか……虎白が無事ならば救援を呼んでくれるとは思うが」
夜を照らす赤き火が、冬の寒さから二人を守る。あたっていると、ゆらゆら揺らめく焔を見ているだけで吸い込まれそうな感覚を覚え、何故だかじっと見つめ続けたくなる。
「朱里さんだったらビュビューンって飛んで助けに来てくれるかもね。いいなー私も付けれないかな、ジェットエンジン!」
「おそらく焼け焦げるだろうな、背中」
やっと一安心できる場所が出来たからか、呑気な事を言い出す愛。これからどうなるか、不安はあるものの、彼女は平常運転だ。
「うーん、どこに飛ばされたかもわからないのに、来てくれるのかな? 私達から脱出した方が良いんじゃない? イカダとか作ってさ!」
「仮に作れたとしても、どの方向に進めば戻れるかわからんぞ」
視界の悪い夜に確認したので、詳しくはわからないが、見渡す限りどの方向にも地平線が見えるばかりで陸地が見えない。たとえどんなに良いイカダを作っても、大海原に駆り出してしまえば、水の上で飢え死にしてしまうのがオチだ。
「結局大人しく待ってるしかないのかなぁ……」
脱出案が却下されてしょんぼりとする愛。いじけたのか、足元の砂を指でなぞって落書きを描き始めた。脱出ができないのならばどうやってここで生き残るか考えるしかない。
「とりあえず、火には困らん。食料も島の内側にある植物に、海の魚で凌ぐとして、後は明日中に寝床と飲み水を確保しよう。これで数日は大丈夫だろうが……しかし、それ以上に問題がある」
この誰も居ない小さな島で、生存する手段を考える龍二。青龍の能力で時間も根気も必要な火おこしをしなくても良いのが大きなアドバンテージになっていて、長期的にはどうかわからないが、すぐには生きるか死ぬかの状態にはならないだろうと予測していた。ただし、一つの問題を除いては。
「問題って……?」
愛が深刻な顔で空を見上げる龍二にその問題が何か聞いた。愛も一緒に空を見上げてみるが、そこには豊金で見るより更に何倍も綺麗な満天の星空。これほど綺麗な空に、何か自分たちを脅かす危険が秘められているのだろうか。
「ここに、敵が攻めてくるかもしれない事だ。奴は……必ず俺たちにトドメを刺しに来る」
「嘘!? 私たちを知らない所にポイ! で終わりだと思ってた」
妹を撃破され、窮地に陥ったオキュペテ。竜巻を作ってここまで飛ばしたのは苦肉の策で、どこに飛ばしたなど把握をしてないと思っていた愛。だが龍二の考えは違う。
「適当に飛ばされたのではないと俺は思う。たまたま島に落ちたなら運が良すぎるし、能力で作った竜巻のコントロールなら、あのレベルのベルゼリアンならできるだろう。相手の目的が俺たちを殺すだけなら、海の真ん中に落としてしまえば良いんだ。わざわざこの島に移動させたのなら……弱らせた後に自分の手で殺しに来るはずだ」
執念が籠った叫びと、襲い掛かってきたオキュペテの殺意の目を、龍二はまだ覚えている。奴は海で溺れ死ぬのも島で飢え死ぬのも許しはしない。自らの状態を万全に整え、そしてこちらが弱った時。必ず殺しに来るだろうと龍二は確信していた。
「ここは奴にとって都合がよすぎる。外部から救出もしばらく来ない、体制を立て直す時間も稼げて、放っておくだけで獲物は食べ頃になっていく……鳥籠に捕らえたつもりにでも、なっているのだろうな」
「くっそー! 鳥はあっちだってのに!」
愛が悔しさを表に出すが、それをぶつけたい相手は、今はどこに居るのだかわからない。空に虚しい叫びだけが消えていく。
「虎白が妹を倒した故に、二対一ではないのは助かるが……今度は耐久戦を続けていれば助けが来る保証もない。奴のあの執念、恐らく次はどちらかの命が尽きるまで戦うことになるだろうな」
龍二の言っていることは自分たちの置かれた状況から考えた、客観的な事実でしかない。しかし、愛は『どちらかの命が尽きるまで』の言葉に、どうにも胸が騒めいてしまった。その言葉の裏に、龍二が戦いの後に生きることを、放棄しているような予感がしてしまったのだ。確かに、今までの戦いでも龍二が死を考えていない訳ではなかっただろう。しかし、今度の覚悟は何かが違う気がした。
「どちらかって……龍二君が勝つんだよね!? 龍二君が居なかったら私、生きてけないよ!」
「……悪いが、今回ばかりは状況が悪すぎる。守れるかもわからない約束をする気は無い」
二人の間に沈黙が流れる。戦いで力になれない愛はこれ以上何か言葉を紡ぐ事が出来なくて、龍二も本当は俺が勝つと言ってやりたかったが、そう言えるだけの根拠のない度胸を持ち合わせていなかった。気まずい時間。今や二人しかないこの空間で、そんな時間がずっと流れるのが嫌だった龍二がフォローの言葉を口にする。
「大丈夫だ。それまでに食料や水の確保は俺がやる。救出がいつかわからないが、できる限り君が長く生き残れるように手段は――」
「馬鹿! 生きてけないってそういう事じゃないよ!」
何とか言い繕ろうとした龍二の言葉を遮って、悲しみに包まれた愛が突然叫ぶ。頬を伝い続け、止まらない涙。そんな愛の心の底から出てきたそれは、叫びでありながらも弱々しく、あまりにも悲痛で。
「私が言いたいのはね、この島で生きていけるかなんてことじゃない! 世界で一番大好きな人が死んじゃって、それを乗り越えられるほど私はまだ強くないんだよ! たとえここから生きて帰れても、龍二君が居ない日常なんて意味が無いの!」
目の前で愛が悲しんでいるというのに、龍二にはその涙を払う言葉を見つけることができなかった。何も考えずにただ俺は死なないと言えればどれだけ良いだろうか。いや、そうすべきなのかもしれないが、その言葉を残し龍二が居なくなってしまえばそれこそ愛は生きてはいけない。たとえどんなに辛くても悲しくても、一緒に生きていけないかもしれないという覚悟こそ今の愛に必要なのだと龍二は思っていた。だが、そんな考えを愛が理解できるわけもなく。
「わかったよ。そんなに不安なら、絶対死なないって言わせてあげる」
龍二が悲痛な叫びに答えてやる事が出来ずにいると、愛が腹を決めた。その場から立ち上がり、今までも近かった龍二との距離を更に縮め、目の前にまで移動してくる。しゃがみ込んで視線を合わせる。その潤みを帯びつつも、覚悟の秘められた瞳の奥で何を考えているのか龍二はわかっていなかった。
そのまま、愛は両手で龍二の顔を包んだ。何をするのかと龍二が呆気に取られている内に、ゆっくりと瞳を閉じて――
――キスをした。
瞳を閉じていた愛と違って、龍二は驚きで目を見開いていた。誰かと唇を重ねた事など生きていて一度もない未体験。女性の唇がこんなに柔らかくて、温かいなど知る由もなかった。いや、これは愛だからなのか? それを確信に変えるほどの経験も持ち合わせていない、ファーストキス。味は、お互い怪我をしていたからか血の味がほんのりとして、逆にそれがお互いが深くから繋がった気がして背徳的だ。
「私ね、龍二君のこと、愛してるの。私の性格だと冗談とか思われるかもしれないけどさ、今は本気。龍二君とならキスとだって、それ以上だって嫌じゃない。むしろ胸が高鳴って止まらないの。お願い、死ぬなんて言わないで」
それでも、それでも龍二は返す言葉が出てこなかった。今ここで愛を誓った所で何になるのか。ここでお互いの思いを確かめ合い、結ばれたとしても、離れ離れになってしまえば愛は呪いになる。龍二にとって愛は大切な人だ。それはいかなる時も変わりはしない。だからこそ、そんな人に呪いをかける事などできなかった。これほどないまでに近づいていた二人の距離を離し、顔を逸らす。言葉はなくとも、それが拒絶だと愛には伝わってしまった。
「なんで……なんでよこの意気地なし! 自分を好きな女ぐらい悲しませないって、どうしてそれが言えないの!?」
龍二の背中に、愛の言葉が突き刺さる。たとえ愛に嫌われようとも、愛が生き残るために精一杯の力を尽くす。『自分に出来る事をする』愛に誓ったその決意だけは、未だに揺ぎ無く。




