表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コールドデザイアー  作者: 一の瀬光
6/6

コールドデザイアー 20章 第一部完結編

             ♯ 20


「なぜヒトは泣くときに涙を流すのだと思う?」

「さあ? これは何かの試験なのかしら。最初にあなたの家で会った時も、中村邸で変装したあなたに会った時もわたしはいつも何かをあなたに試されている気がする」

 江奈と加賀谷ナツミが病室で話している。

(ファングか)

 左右に拡張したベッドにその大きな翼を収容して江奈は個室で横になっている。もはや全身で怪我をしていないのは顔だけだったが、それでも十五度ほどの角度で起き上がることは許されていた。

(それにしても意外だな。日本が誇る対テロ最終兵器〝牙〟がわざわざ俺を見舞いに来てくれるとはね。それにこれはもっとサプライズだな)

 江奈が驚きだと言っているのはスカートだった。

 ナツミはいつものスーツ姿ではなく珍しく若草色のスカートをはいてきたのだ。

 スカートだといつものポニーテールもいささか少女っぽく見えた。

(まあ、美人なら俺はいつでも歓迎だが)

 江奈は話を続ける。

「思うんだけど、涙を流すって悲しみや怒りに打ち砕かれた心を少しでもいやすため無意識にとる行動だよね。ではなぜそれが涙でなくてはならないのか。それは海こそがすべての生物の故郷だからだ」

「海?」

 あの夜、クリスの復活が成功したかに思えた次の瞬間に江奈は気絶していた。

 やっと目が覚めたと思ったら目を覆うあの修羅場だった。

(そうだな……。そしてあの灰が消え去るのを目撃してまた気を失ってしまい、気がついたら病院のこのベットのうえだった……)

 そのあと江奈には涙の記憶しかなかった。

 江奈はナツミに言う。

「海こそは究極の懐かしのふるさと。それを思い浮かべれば魂の奥底から安堵する。その生命の故郷をいつでも思い出せるようにするために僕たちは常にミニサイズの海をここに蓄えている」

 ナツミは小首をかしげ聞き返す。

「それが涙?」

「そうなんだと思う」

 ナツミはいつもの皮肉っぽい笑顔にもどって腕組みをして感想を述べる。

「ふーん。江奈さん、あなたってわりかし詩人ね」

(俺は、あのとき)

 会話の裏で江奈は瞑想を続けていた。

(そう。病院に運ばれてくる途中、意識を失っていたはずの俺はずっと涙を流し続けていたそうだ。自分でもそんな気がしている。俺はずっと泣いていた。きっとそれも最後の自己防衛手段だったのだろう。永年の計画が、永遠だったはずの愛が、いっぺんに目の前で醜い灰となって崩れ落ちたら他に何をすればいい?)

 江奈はあの目を思い出す。

 それはアカリの目だった。

「そしてね、アカリくんの目をみていると」

「アカリ? ああ、柴咲アカリね」

「うん。あの子の目には海に似た懐かしさがあるんだ。家へ引きとるために彼をたずねたその日に僕は彼の目をみて釘付けになったのだよ。落胆しきっていたその時のアカリくんの目は、なんというかな、涙そのものに思えた。僕があれほど魅かれた目は家内の瞳の他にはない。もっともクリスティーヌの目には懐かしさよりも憧れや夢、愛といったものが輝いていたんだが。しかしそれも結局は僕が自分の欲望を家内の瞳に投射していただけなのかもしれないが」

 ナツミの目が疑い深い捜査官の輝きを宿す。

「あなた奥さんの遺体を自宅に安置していたんですってね? そしてまさにその場所から病院に担ぎこまれたんでしょう? ねえ、あそこでいったい何があったわけ? 里見総監たら何も教えてくれないし」

「今はいえない」

 やっぱり、というふうにナツミは目を閉じ肩をすくめる。

「でしょうね」

「でもナツミさんにはいずれ必ず話すよ。ナツミさん自身の体験したことにも関する話だからね」

「わたしの体験って?」

「トレーラーでの」

「やっぱりあの子しゃべったのね。ま、黙ってるなんて約束信用してなかったけど」

「いいや、彼は心から信用できる僕の助手だよ。この件はね、助手としての責務をタテにとって僕が無理強いして話させたのだから責任は僕にある」

 ナツミの顔から目をそらし、江奈は病室の窓を見た。

 そこにはやけに陽気なひまわりの花がいけてある。

 だが江奈の唇はクイと上がりはしなかった。

(そうとも、アカリくんには無理をさせてしまった。この世で最後の仲間と思われた人工衛星PR―Xの三人を失ったうえにクリスのことでつらい重荷を負わせてしまい本当にすまん。どうやったら俺は償うことができるだろう? 俺の身勝手な妄想のために利用した形になったあげく、姪のアヤメまで巻き込んでしまって)

 自分から顔をそらしたことに抗議でもするように、ナツミは口をとんがらせてちょっときつめの話し方で言う。

「要するにあくまでもあの少年を弁護するわけね。これじゃあ話が振り出しじゃないの。江奈さん、最初に言ったように柴咲アカリは危険人物です。それも緊急隔離が必要なほどのね」

 江奈はふたたびナツミをふりかえった。

「ナツミさんは彼を反社会的存在だと?」

「そのとおりです。今回のサピエス革命テロ狂言事件のように彼を利用せんとする個人・団体・国家がいくつあると思って? 中国とアメリカまでも易々と動かしてしまって。アカリは大規模テロを次々と誘発しているのよ。末おそろしい子だわ。今日は個人の資格でここへ来ていますが次は令状つきで来ますから」

「というよりナツミさん自身にとって危険人物だと恐れているのでは?」

「はい?」

「先祖がえりの恐怖、ですよね」

 ようやく江奈の唇の端がクイとあがる。

「何をおっしゃってるのかわかりませんわ。ち、ちっともね」

 あわてて首の向きをかえたのでナツミのポニーテールの先が彼女の口に少し入ってしまった。

 ぺっぺっと歯をむき出し、懸命に髪の毛を取り除こうとするナツミの意外にかわいらしい姿を見て江奈は「フフ、困ったものだ」という顔をした。

(ファングよ。いや、ナツミさん。俺にはあなたの気持ちがよくわかる。でもねナツミさん、あなただけじゃないんですよ。アヤメも冴子くんもあなたと同じ影におびえているんだ。まるでアカリくんが先祖がえりを促す起爆剤であるかのように、彼の周りで次々と先祖回帰ともいえる変身が起こっている。そしてクリスにいたってはその全存在さえもが灰と帰してしまった。美しかった二人の思い出を道連れにして)

 江奈のすぐれた精神力が江奈の表情を平静に保っていた。

(それにロボットのアダムもだ。

 あの夜おそくに急用で再び病院へ戻ってきた里見さんが俺の脱出を知り、行き先の見当をつけてまずあたってみた大道寺博士をついでに連れて俺を探しに来たときも、アダムは強烈にアピールして同行を許されたという。

 それに、ちょっとやそっとでは外から見つからないように隠してあるあの秘密の部屋の小さな明かりとりの丸窓を見つけたのもアダムだ。やつは歩けないから両腕だけではいずり回って調べたと言っていたがよく見つけたものさ。

 どうやって見つけたのかと大道寺博士に聞かれたときアダムは

「アカリくんの匂いがしたから」

 と答えたそうだが犬じゃあるまいし)

 クイと唇をあげかけたが、江奈はそれをやめた。

(いや、そうじゃないな。うん、これはきっとほんとうに犬の記憶なのだ。

 アカリくんの先祖が作った存在であるはずのロボット第一号の記憶を、すなわちアダムの前世の記憶を、やつもアカリくんと接触することによって不意に思い出したんじゃないだろうか? 

 アカリくんの説でいえば我々はアカリくんの世界が作り出した社会やテクノロジーをすっかりそのまま踏襲しているというのだからロボットだって例外じゃない。アカリくんの説が正しいならロボットもその真の御主人を懐かしく思うんじゃないのかな。そしてアカリくんの世界観の正しさはクリスの復活で証明されているのだ。実に悲しい証明だったが……)

 江奈がナツミを見ると、彼女はようやくポニーテールとの戦いに決着をつけたところだった。

(そんな証明のために、そして俺が凍結させておくべきだった邪まな欲望のために、今やムクゲちゃんやマクラちゃんや中村さんにまで不安の種を植えつけてしまったんだな、俺ってやつは……)

 顔を赤くしたナツミは照れ隠しに江奈を叱るように言った。

「先祖がえりだなんて話をそらしてもだめですよ。悪い芽は早いうちに摘み取れ、です。いくら里見総監らがかばってもわたしは追及しますから」

「牙ににらまれては逃げるすべもなし、か」

「それでわたしを持ち上げているつもりですか? あなたの社交辞令は和服の趣味と同様いただけませんね」

「そんなこと言わずにまた和服を着れるようにでもなったらゆっくり話そうよ。トレーラーの件もあの夜僕の家の地下室で起こったことも、すべてじっくりとさ」

 江奈はひそやかな瞑想を離れ、心の底からそう語りかけた。

「ほんとうに? 全部話してくれる? なにもかも?」

「うん、約束する。何もかもだ」

 ナツミの瞳がゆらりと揺れたようだった。

 それを見た江奈は、まるで少女のようだなと素直に思った。

「だけど今日はちょっと眠くなっちゃった。フフ。少し失礼して横になっていい?」

 急にナツミは直立不動の姿勢をとった。

「こちらこそ失礼しました。では今の約束、あてにしていますよ」

「ああ、こちらも楽しみにしている。じゃあ」

 ナツミはしゃちほこばった敬礼をした。

 それを見て江奈は思う。

(やたら敬礼の似合う女だな。美人だしスタイルも抜群だ)

 病室のドアを開けたナツミは、ほんのわずかの間そこで物思いにふけるようなポーズをとっていた。

 そしてやおらふり返って江奈の顔を見ると、どこかはにかんだような上目づかいを見せて胸に手をあてて何かを言いたそうにたたずんだ。

 しかし彼女はそのままドアを閉めて消えた。

 そのポーズが江奈に強い印象を残した。

(たしかにスタイルがいい。特にあの胸元が……)

 ナツミの胸元を思ったとき、江奈はやはりアカリが彼女の胸に言及しかけたことを思い出した。

(おっと、そういえばアカリくんがナツミさんの胸のプロポーションがどうとか言いかけて急に口をつぐんでしまったが、あれは何のことだったのかな。ま、いいさ。次にナツミさんを呼んだ時にでもアカリくんに聞いてやろう)

 窓をあおいだ江奈は、できれば両手をいっぱいに伸ばしてあくびでもしてみたいと思った。だがそれができるようになるまであと数週間はかかるだろう。

 外は晴れていた。

(ああ、いい朝だなあ。いわし雲があんなに出て、秋晴れってやつか。このすがすがしい朝の光がクリスを奪ったなんて、やはりあれは神に反する行為だったんだろうか。まったく俺ってやつは世界一の大バカ者だ)

 江奈はベッドを水平に戻すスイッチを手探りした。

(我々の祖先はほんとうにあんなにおぞましい姿をしていたんだろうか。しかも恵みの陽光にあたれば溶けくずれて灰になるなんて……。あれが不死の姿ならあまりにもむごすぎる。あれはもはやクリスとは似ても似つかぬ何か別のモノだった。それともいったん死んだ者の変身はアヤメのように生きている者が変身するのとは違ったことになるのか。わからない……わかっているのは俺のクリスはとうの昔に死んだってことだ。そんなことくらいとっくにわかっていたはずなのに)

 やっとスイッチを手にした江奈はなかなかそれを押さないでいる。

(クリスティーヌ、あの部屋こそ僕らふたりの楽園アルカディアだったね。だがニコラ・プーサンの絵にもあるように「死はアルカディアにも在り」なんだ。きみよりもむしろ僕のほうが、無謀な企てをした愚かな夫のほうこそが罰せられるべきだったのに。しかもアカリくんの手まで汚してしまって)

 江奈はベッドを水平に戻した。

 秋晴れの空が江奈の視界いっぱいに広がる。

 この空はアルカディア学園の教室の窓につながっている。

 江奈はそう考えてアカリに思いをはせた。

(アカリくん、今頃はアヤメたちの教室で立派な講師ぶりを披露してるんだろうなあ)

 江奈はおぼろげに覚えていた。

 自分の夢が灰になったその瞬間のアカリの瞳を。

 その瞳は江奈に対する申し訳なさで満ちていた。

(むしろそれは俺の気持ちだよ。きみこそクリスのことでショックを受けたはずなのに)

 目を閉じるとアカリの声が江奈の耳に響いてくるようだった。

「サマースクーリングは休みません。講師を続けさせてください」

 あの次の日にこの病室で、見舞いに来ていたアヤメたちの前でアカリはこう宣言したのだった。

(アカリくん。きっぱりとこう言ってアヤメたちを感動させていたきみ。最初にして最後の僕の助手よ……)

 今日はよく休めそうだ。

 そう感じながら江奈はもう一度目を開けて窓の空を見た。

 都心には珍しいトンビの姿がその目に映った。



          ※



(ボクは見たい。見たいんだ!)

 教室の窓の空で旋回しているトンビに向かって訴えかけるように、アカリは熱い思いをぶちまける。

(ああ、心とは何なのか。魂とは何なのか。命とは何なのか。そんなものどうすれば見ることができるのか全然わからないけど、どうしてもボクは見てみたい、確かめたい!)

 やむにやまれぬこの思いを、柴咲アカリはあの夜からずっと心の中で叫び続けていた。

(PR―Xの三人はたしかに人間だった。そりゃあ最後は毛むくじゃらのサピエスになんか変身してしまったけれど、それまではたしかに人間だった。ボクと同じ人間。それなのにおそろしく非人間的な人間だった)

 アカリの背中におぞましい寒気が走る。

(それにひきかえ江奈おじさんやアヤメちゃんたちはどうだろう。吸血鬼のはずなのにどうしてあんなに人間的なんだろう。それどころかロボットのアダムでさえあの三人の囚人に比べればよっぽど人間味があるじゃないか。そうだろう?)

 アカリは腕組みをゆるめて片手をあごにあてる。

(もしそうであるならば、姿かたちには何の意味もない? そうだ、たしか大道寺博士もそんなことを言ってたっけ)

 アカリはロボット霊学研究所見学の日を思い出す。

(じゃあ中身っていうのは何のこと? 心とか魂とかいうものだろうか。いや、そんなうわべにつけられた名前なんかはどうだっていい。ボクはその中身を見てみたいんだ!)

 アカリは地下室の秘密の部屋で江奈が見せた最後のまなざしを思い起こす。

(あの夜、奥さんの最期を見て再び気を失ってしまった江奈おじさん。救急車の担架で運び出されるときずっと涙を流していたっけ)

 気絶しているはずなのにいつまでもいつまでも江奈の目からは涙が止まらないのを見たとき、アカリの胸はつぶれそうになった。

 里見警視総監が救急車を呼んだとき、アカリは救急隊の人に頼んで江奈の手を握らせてもらった。

(それがボクにできるたった一つのことみたいに思えたから)

「すまない……すまない」

 アカリが手を握ると江奈はそうつぶやきだした。朦朧とした状態でのうわごとだ。

 あんなことになってしまったから奥さんのクリスティーヌさんに謝っているんだと当然誰もが考えた。

 それなのにやがて江奈ははっきりとつぶやいた。

「すまない……すまないアカリくん……」

 その言葉はアカリの耳にくっきりと残った。

(それから何度もこうしてボクの名前を呼んでからまた黙ってしまった江奈おじさん)

 アカリはそのときひどく心を打たれた。

(あんな目にあってまでボクのことを心配してくれるなんて。奥さんを灰にしてしまったのはボクだというのに)

 しみじみとアカリは思う。

(吸血鬼と人間……そんな分けかたに意味があるんだろうか? もしかしたら吸血鬼のほうが霊的には人間よりも高度の次元にあるんじゃないだろうか。それともそれは個人差なのだろうか。

 いまのボクは無性にその答えが知りたい。だからこのサマースクールの講師続行を進んで申し出たんだ。

ボクは最後の人間かもしれない。だけど、もしも吸血鬼や人間という分け方に意味がないのなら、最後の人間というレッテルにどんな意味がある?

とくにボクと同世代のこの子たちをボクはもっとよく知りたい。これから先ボクはこの世界でこの人たちと生きていくのだから)

「アカリさん? あ、ごめんなさい。お考え中でしたでしょうか、アカリ先生?」

 やさしく甘いささやき声で白昼夢を破られたアカリは、目の前の女の子に気づいた。

 アルカディア学園の制服ジャケッツ姿のアヤメだった。

 アヤメは下からのぞきこむようにして小首をかしげながら聞いている。

「そろそろよろしいでしょうか? わたくしの準備はできていますわ」

 人差し指を口にあてているアヤメがいつになく背が低いと思ったら、アカリはやがて自分が教壇に立っていることを思い出した。

 きょうは特別サマースクーリングの第二回目講義の日なのだ。

 ジャケッツ姿の一年紅組の面々がアカリを見つめている。特別夏季講習でも正式登校日なのでみんなジャケッツ着用だ。

 授業中についもの思いにふけっていたことがばれないよう、アカリは平静をよそおった口調で言った。

「あ、そう。もう準備できたの」

 そう言いながら、何の準備だったっけとアカリはメモリーをフル回転させる。

「あ、そうだった! 模範演技の準備だよね!」

「はい!」

 目を輝かせながらアヤメが答える。

 今日はエチュード、つまり寸劇を演じる演技のレッスンの日だ。

 同じセリフの短いパフォーマンスをかわるがわるクラスの生徒たちが演じてみせるのだが、最初に見本として演じるのがここで言う模範演技である。

 だが今日の模範演技はアヤメにとって特別な意味があった。

 それもそのはず、今日のこの『模範演技』はアヤメ自身が出したアイデアなのだ。

「でもだいじょうぶ? アヤメちゃん?」

「は、はい! へ、平気です。がんばります!」

 アヤメがこれから演じる題目は「変化」。これは「へんか」ではなく「へんげ」と読む。

つまり「へんしん」のことだ。

 アヤメは初めてあの地下の秘密部屋にアカリと入った夜以来、自分が変身してしまうことに悩み続けていた。

 しかし同じ場所で江奈が執り行ったあの〝復活儀式の夜〟ではアカリを守るために自ら姿を変えようとした。

 そのとき彼女は思ったという。

「これですわ! 自分の意志で姿を変えるなら自分の気持ちもコントロール出来るみたいです。これなら悩みも克服できそうですわ!」

 意外なことにあの儀式の夜の出来事はアヤメに立ち直りのきっかけを与えたようだった。

 それに加えて中村さんの一言も大きかったと思う。

「ふーん。舞台であんなふうに自由に姿が変われたらインパクト強いね。ほら、ふだんは赤城小路さんの翼ってほとんど見えないくらいちっちゃいでしょう。落差がすごいもん。そのロリフェイスに牙がはえるってのも売りになるんじゃないかしら」

「はい! わたくし、がんばります!」

 つまりアヤメは衆人環視の舞台上で変身するという逆療法によって、傷ついた自分の心を自己セラピーしようというのだ。

「それに中村さんのおっしゃるとおり、それがわたくしの演技開眼になるかもしれませんもの!」

 自己回復のついでに自己の変身を演技のレパートリーに加えてしまおうというしたたかな計算もある。

 目の前で下唇を前歯でかみながら演技前の自己集中に入ったアヤメを見て、つくづくとアカリは思う。

(アヤメちゃんてふだんはたおやかなのに、とてもシンの強いところがあるよね)

 いつの間にかみんなも席をたって、わらわらとアヤメのまわりに人垣をつくってながめていた。

 ムクゲが半歩前に出ると、みんなに向かって言った。

「へへへ。なあ、みんな知らないだろ? すっげえんだぞ、アヤメの翼。ドバーンってこんなに大きくなってみんな腰ぬかしちゃうから。あれを見たとき、マジでオレぶっとんだもん」

 その言葉に集中のとぎれたアヤメが言い返す。

「そんな……ムクゲちゃんのもすごかったじゃありませんの」

「オレのはあんなでかくないもーん」

 顔を赤らめたアヤメはムクゲを無視してふたたび集中しようとした。

 そのアヤメを助けるようにマクラが言う。

「でもムクゲちゃんのって形がちょっとね。アヤメちゃんのよりおどろおどろしいシルエットっていうか」

 かちんときたムクゲがジャケッツのスカートをたくしあげながら言う。

「よく言うぜ、マクラ! それじゃあ、きみヒトのこと言えるの? 今はちっちゃく戻ってるからって、あんたの翼は棚に置きっぱなしなわけ? ほんとにもう、いい加減なこといっちゃって」

「わたしはウソ言ってないよ。いいよ、ムクゲちゃんの牙のこともいっちゃうから。それからギットギトに光っておまけに青いクマまでつくってた目のことなんかも」

「あん、それはちょっと」

「あれ見せちゃったらお嫁いくのムリよね」

「そこまでいうか、マクラ!」

 そろそろ教師の出番だな。

 そう思ったアカリがぴしりと言った。 

「はいはい、静かに。席について。模範演技にはアヤメちゃんだけ前に出てってば。先生の言うこと聞きなさい」

「ふぁーい」

 気のない返事をしてみんなぱらぱらと席に戻った。

「ではアカリさ……いえ、先生。ポーズを取っていただけますか」

「え? ああ、うん。まずボクが後ろに体をそらせるんだよね」

 後に正式制服ジャケッツの様式を大変革させるもとになったと伝えられる伝説のエチュードが、今いよいよ始まろうとしていた。

「あれ、このポーズって教壇の上だとけっこう難しいや。よいしょ。こうかな? じゃあアヤメちゃん、スタート!」

「ああぅぅ……やっぱりアヤメ恥ずかしいですわ! や、やめます!」

「あ、だめだよアヤメちゃん、ここでしり込みしてちゃ。クラス内でやれないようじゃ舞台稽古なんてとてもできないよ。さあいつものエチュードだと思って。ときはまさに深夜。こうこうと光る満月。屋敷の若き主人をおそうナゾの美少女! ハイ! どうぞ!」

「……はい……だ、だめ! やっぱりできません!」

 両手で顔をかくし、アヤメは激しく左右にイヤイヤをくり返す。

 アカリはため息をつくとアヤメの肩に手をかけようとする。

 ちょうどそのときだった。

「ハーイせんせ!」

 やけに陽気ではすっぱな黄色い声が教室の後ろから響いてきた。

「どうやらそのコおくてみたいじゃない? だったらワタシがその娘さんにフリをつけてさしあげてよ! ウッフーン」

 みないっせいに教室の最後尾をふりかえった。

 そこには見慣れたジャケッツ姿の、しかし顔にはとんと見覚えのない女子生徒がひとり派手なポーズで金髪に染めた髪をたくしあげて立っている。他の生徒同様に翼はかげもかたちも見えていない。

 アカリが聞く。

「あの、きみは誰なの。このクラスの人じゃないよね?」

 するとその女子がけばけばしいニヤリ笑いをきめた。

 してやったり、という気分が露骨に出た笑い顔だ。

「フフ、もうお忘れなのアカリせんせ? ほんと、おわかりになりまっせーん? もっと近くでご覧になったら思いだすんじゃないかしら。じゃあ、いま行くわ、待っててねーン。ウフ」

 派手な身振りで髪を背中にふると、女子生徒はさっそうとモデルウォークで教室の真ん中の通路を闊歩した。

 ガシャーン ガシャーン。

(なんだ、これは? この子の歩く音?)

 誰もがそう思った。

 ごく普通にアルカディア学園の制服を着た他のクラスの美少女が、ごく普通でない金属音を響かせながら生徒たちをかきわけていく。

「いかがかしら? ウフン」

 アカリの前で立ち止まり、金色の髪を両手でかきあげグラビアモデルみたいなポーズを取ったその少女の顔は、近くで見るとやけにテカテカ光っていた。

(顔だけじゃない。腕も太もももピッカピカだ。あれ? こういうのって見たことあったような。それもつい最近……)

 女の子にしてはちょっとりりしすぎるその子の眉毛を見たとき、アカリはピンときてしまった。

「って、まさか君、ロボ霊研のロボットじゃないよね? それにその眉毛は……まさか」

 こみあげる悪寒を必死に抑えつつアカリは最後まで言った。

「まさか、アダムってことはないよね……」

「ご名答! あ、でも今となっては半分正解かな? わたしもうアダムじゃないもの」

「それは……どういう……」

「やだあ。見ればわかるでしょう、わたしもう女の子なのよ? だから今日からはアザミちゃん、って呼んでね? ウフッ」

「ウフッじゃない! うそだ! アダムは歩けないんだぞ!」

「歩けるようになったのよぉ」

「ていうか、どうしてこの教室にいる!」

「だってぇ、一刻も早くこのモデルチェンジをアカリ先生にお見せしたかったもん」

「モデル、チェンジとは何だ!」

「そんなパパみたいにカリカリしないでぇ? もううちのパパったらねー、お前は歩くようにはできとらん。歩くためにはその分思考回路を減らして頭をパーにせにゃならん、なんて言って文句タラタラで。そんなに大改造ならついでに女の子にしてって頼んだの。でもやってみたら頭がすっごく軽くなって気分いいのよ、フフ」

「だから、どうしてそんな改造をした!」

「だってぇ、あの朝みたいな事件がまた起きたらワタシまっ先にアカリ先生を助けに走りたいじゃない、ねえ? ワタシまだ歩けなかったからあの時はハラハラ見守るだけでとってもつらかったんだからァ。やっぱいざという時は歩けないと、ね?」

「そっちじゃない! どうして女の子なんだ!」

「だってぇ、ワタシったらアカリ先生とぉー」

「アカリさん、わたくしやりますわ! すぐやります! 今やりますから! ですからすぐに始めてください、アカリ先生!」

 いきなり割り込んできた大声に驚いたアカリとADA―M9000通称アザミが顔を向けると、両こぶしをボクサーのように胸の前でわなわなと震わせたアヤメが涙目でにらんでいた。

「アカリ先生!」

「あ、はい!」

「今はうちのクラスの授業中ですよね! 雑音に耳を貸さずに先生がわたくしたちにきちんと演技をつけて下さい。お願いします!」

「は? ああ、そうだね。続行だ。よし、やる気になったねアヤメちゃん!」

「だからあ、わたしがオクテのその子にご指導してあげるって」

 生徒たちのほうにふりむいたアカリが人差し指でムクゲ、マクラ、中村エリカの三人をピッピッピッと指し示し、すかさず手のひらを下から上へ向けてさっと払った。

「了解! アカリ先生。ヒヒヒ」

 と言って腕まくりのポーズをきめたムクゲを先頭に、三人はすみやかに「排除命令」を遂行した。

「ちょっと、何するの? やめてよ!」

 両脇と首をフックされて後ろへ引きずられていくアザミにアカリは言い渡す。

「アダムは教室の後ろで黙ってみていなさい。邪魔しないなら見学を許すから」

「せめてアザミと呼んでえええ!」

「ではアカリ先生、お願いします!」

「よーし、いいぞアヤメちゃん」

 とつとめて平静にふるまいながらもアカリの胸はドキドキしていた。

(だめだぞアカリ、生徒たちの前で動揺なんかしちゃあ。性転換したロボットくらいがなんだ! 今はアヤメちゃんの大切なセラピーの真っ最中なんだから! か、考えちゃだめだぞ? 誰のために性転換したかなんて!)

 ゴホンとアカリはせきばらい。

「やはりもうひとつ机を使おうよ。そのほうがアクションも大きくなるし」

「はい、先生! わたくし思い切ってやりますわ!」

「では、えーと大河内さんに桃山さんに近衛さん。あ、それと神宮司さんも。わるいけどその大机を教壇まで運ぶの手伝って?」

 呼ばれた四人が思わず顔を見合すと、それぞれに笑みが自然にわいてきて元気に席を立った。

「あ、名指しされるの、なんか初々しい(大河内さん)」

「モモ、名前おぼえてもらえたよ? きゃぴぴ!(桃山さん)」

「はい、先生! きょうは時間ならたっぷりですから(近衛さん)」

「先生。わたし、お堂で机運びのお手伝いは慣れてますから(神宮司さん)」

 手際よく大きめの机が教壇にくっつけて置かれた。

(よし、この調子だアカリ。授業に集中するんだ)

 アカリは全員に向かって手招きする。

「はいみんなあ、注目して。では説明しま……ごほ、ごほごほごほ! いけね、気管支に……ごほごほごほ!」

 緊張によるせきこみこそ教師の大敵だと初めて身にしみたアカリだが、自分のリュックサックから水入りのペットボトルを取り出すのに手間取ってしまった。

 するとさっとアカリの顔の前にミニボトルが現われた。

 それは大河内さんの手だった。

「先生、飲んでいいですよぉ」

 地獄にホトケとアカリはキャップを開ける。

「あ、ありがと。え? あ……」

 その内容物が真っ赤な液体であることに気がついてアカリの手は急いでキャップを閉めにかかった。ただし顔にはあくまでもおだやかな笑みを浮かべながら、大河内さんに言った。

「な、なんかおさまったみたい。でもありがとう! ね? はい、これ、まだ口つけてないから」

 返却されたボトルのキャップを眠たげな瞳で見つめながら大河内さんが言う。

「なんだ、まだ口ついてないんだ……。そうか。先生、エコロジー派で水とか飲むんだもんね」

「あ、いや、そういうわけじゃあ、まあ、そうなんだけど……」

 クラス生徒各人への愛情配分という難問にもアカリは目覚めつつあった。

「はい。せ、説明します。えーと、場面はとあるお屋敷、二階の書斎。時刻は深夜午前二時ごろ。おりからの満月は雲に隠れ、強い風が木々の眠りを妨げている。いいかな?」

 クラス全員が十六歳の瞳でアカリの説明に聞き入っていた。

 アカリは、よしと自分に活を入れなおす。

「さて、今回の登場人物は二人。屋敷の若き主とナゾの美少女。何やら口論しているうちに誤って転倒した彼を助け起こそうとした彼女が彼の顔をのぞきこむ。若き当主は軽いけがをしている。すると彼女に思わぬ異変が……ここでストップ入れます。いいね?」

「はーい(クラス全員)」

「アヤメちゃんはここに立ってボクはここ。で、転倒して机のうえにこうもたれかかり、と。ん? アヤメちゃんの立ち位置はここだよ? そんなに離れてないでもっとこっちへ来よう?」

 説明が始まると同時に、どういうわけかアヤメだけが少し離れてそこでなにやらごそごそしていた。

「あの、アヤメちゃん?」

「先生! わたくしまず衣裳をつけますの!」

「衣裳を? あ、なにしてるの! 衣装を、き、着るんじゃないの? そんなに服をどんどん脱いじゃってどうするの、きみ!」

「ヒュウー! アヤメったら、やるぅ。肩ひもなしの勝負ビキニじゃん。オレまでゾクゾクしてきちゃう!」

「おっほー。ストラップレスとは、気合入ってるね、アヤメちゃん」

 エチュードのときは生徒たちが自前の衣装を用意してくることもあるとは事前に聞いていたアカリだが、それがまさか水着とは!

 しかもほとんど裸に近いようなストリングビキニ!

「マ、マクラちゃんまでわたくしを冷やかさないでください。初めての時は肩ひもが切れちゃったでしょう? だからこれで。でも、うう、冷房ちょっと寒いですぅ」

 色は青。控えめなアヤメらしく控えた色に自分ではしたつもりだったのだが、たまたまその色はアカリの大好きな色だったので逆効果のおそれ大だった。

(こ、こんなにはりきってるとは)

 アカリの目はアヤメに釘付けになっている。

 嵐のような拍手ではやしたてるクラスの喧騒すらアカリの耳に入らない。

(いいでしょう、やりますよボクも! アヤメちゃん、本気でかかってらっしゃい! 見て見て! こうして首だってほら、グイッときみのほうへ突き出すよ)

 なりきりモード全開のアカリはポロシャツのボタンまで全部はずして首すじを出しながら待った。

 しかしいつまでたってもアヤメが近づいてこない。

「どうしたのアヤメちゃん、早くボクをのぞき込んで? まだ何かあるの? なに?」

「その……ちょっとお耳いいですか?」

 伸ばした両手をおなかの前で合わせながらもじもじしているアヤメのちょうど後ろ側で、大河内さんがアヤメの脱ぎ捨てたジャケッツを律儀にたたんでいるのがアカリの目に入った。

 その大河内さんと目が合う前にアカリはアヤメを見た。

「ここでナイショ話なの?」

「す、すみません。実は」

 ボソボソボソとアカリに耳打ちするアヤメ。

 言葉がもれないようにと一語一語を力みながら発するごとに、アヤメの豊満ボディが小刻みにふるえる。ひもなしビキニの胸の谷間がぷるぷるといかにもきゅうくつそう。

 そして驚くほどくびれた腰の真ん中あたりにチョコンとおさまるおへそが、まるでサクランボみたいに愛らしかった。

 だからアカリは間違っても教壇で鼻から出血しないようにと集中するのに忙しく、アヤメのささやきの内容がなかなか脳まで到達しなかった。

「なになに、大原さんにちゃんと聞いた? はいはい、痛くないよう練習もした? ほうほう。で、何の練習かな?」

 アヤメが言い終わるとアカリは跳びあがった。

「ええーっ! そこまでやるの!」

「だ、だめでしょうか?」

「ボクの耳から血をとって、それを首に塗るの?」

 さっとアカリの顔の前にミニペットボトルが差し出される。これってなんかデジャヴ? とアカリの頭が軽く混乱する。

「はい、赤城小路さん。じゃ、これ、使っていいよ」

 大河内さんがアヤメに言った。

 アヤメは返事ができず、顔を真っ赤にしてどぎまぎと居場所がなさそうに下を向いた。

 その姿を見たときアカリは悟った。

 アヤメがどれほど自分の恥ずかしい気持ちを抑えてこのエチュードに臨んでいるかを。アヤメがどれほど真剣にこの模範演技を提案したのかを。

 アカリは大河内さんの手からミニボトルを受け取ってから、それを教壇の上にそっと置いた。

「ありがとう、大河内さん。ま、でも、演技ってさあ、ほんとらしく見せるのが基本なんだよね? だからまずはボクの血でやってみるよ。もしそれでうまくいかないようだったら使わしてもらうね。そいでいい?」

 少し口をあけて、それでも真剣にアカリの話を聞いていた大河内さんが、うん、とうなづいて後ろを向いた。顔はややうつむいて長い髪にかくれてしまったが、その奥では唇がやさしくほほえんでいる。

「オーケイ、アヤメちゃん」

「アカリ先生!」

「わかった。うん、やろう。いいよ、耳たぶだし、痛くない方法も大原料理長に教わったんでしょう?」

「はい、一応……」

「じゃあやって。耳から血をとってほんのちょっぴり首筋に塗るだけでいいんだよね?」

 こういって右耳を出しながらアカリは悠長に待った。アヤメが勇気を出すまでは、きっとまた時間がかかるだろう。それに大河内さんの血

ジュース

ボトルだってあるし……

 プツっ。

 いつの間にか自分の耳で音がするのでアカリはびっくりした。

「も、もうやったの!」

「あ、はい。あの、いけませんでしたか? やってとおっしゃるから、わたくし……」

「いや、いいんだけど。はい、泣かない泣かない。あれ、ほんとだ。痛くないや。これなら全然オッケイだよ!」

「あの、アカリ先生、ご自分で少し首に塗っていただけます? わたくしやっぱり触るのが怖くて……」

「うん、いいよ」

「あっ、やっぱりいいです! ごめんなさい。わたくしやりますから! だから、もうそこから動かないで!」

「そ、そう?」

 最後のアヤメの言い方がちょっときつめだったのが少し気になったアカリだが、それでも徐々に勇気をもって克己していくアヤメの懸命な姿にも感動していた。

(がんばってるね、アヤメちゃん。さあ、好きなとこに塗りなさい。そりゃあ正直ちょっとイヤな気分だけどきみの大切なセラピーなんだからね、少しぐらいガマンガマン。ん? どうしてまだ塗らないのかな。アヤメちゃん、何度も何度もボクの耳たぶに触っているのに。変だな?)

「あっ! アヤメったら、何やってんだ? オレたちにあんなオカマロボットの世話させてる間にさあ!」

「そうよそうよ。説得するの大変だったんですよ?」

(あ、ムクゲちゃんとマクラちゃんだな? そうか、今までアダムのやつ騒いでたんだな。ふたりにはあとでお礼しなくちゃ)

 アカリはなんとなく気分で目を閉じてアヤメのアクションを待っていたので声だけが聞こえた。

「まあ! 授業中の教室で飲食していいんですの、赤城小路さん! 委員長のわたしに無断で何をそんなに美味しそうにしているんですの!」

 中村エリカの発言に不審をいだいたアカリはつい目を開けた。

 するとまずアヤメの指先が見えた。

 人差し指がアカリの耳に触っている。

 だがアカリの首には何も塗られることはなく、すぐにまた次の人差し指が耳に伸びてくる。

 そして次から次へ伸びてくるそれらの指たちがどこへ行くのかというと、なんとその行き先はアヤメの口の中だった。

 生まれて初めて見る特大のデコレーションチョコレートケーキに興奮した田舎のいたずら小僧のように、アヤメはつまみ食いの指を夢中になって次から次へとしゃぶっていた。

「あの、アヤメちゃん? そんなに指をチュパチュパして、いったい、な、なにをなめているんです?」

 ババババンッ!

「で、出た! 急に翼が出た。でかっ!」

 ニョキ、ニョキ、ニョキッ!

「うわお! すっげえなげえええ! サーベルタイガー級だよ、アヤメちゃん!」

 クラスの全員からも、おおっという声があがった。

 アカリはやっとほっとした。

(やったねアヤメちゃん。とっても立派な牙じゃないか。みんなの前でそこまで自分をさらけ出せれば立派な女優だよ。いかにもものほしそうに赤く輝かせたその眼差しも演技とは思えないくらい迫真だ。アヤメちゃん、これで君も完全に立ち直れるよね。授業は大成功だ。やったな、アカリ!)

「おい、あれって血だよ、ね?」

「うん、血だ」

「赤い……」

「……とろけそうな」

「かぐわしい……」

「血だ!」

 アカリは変だと思った。

 ムクゲやマクラならともかく、他のクラスの面々がぞろぞろと前に出てきてかわるがわるアカリの耳をのぞきこみながらそんなことを言いだしたのだ。

 それもどの一語一語にもしっかりと発言者の心がこめられていて、それはまさに舞台のセリフにしか聞こえないものだった。

 アカリは聞いた。

「みんな、どうしたの? そんなセリフはプリントしてないでしょ。みんなの出番はまだないんだよ? 順番を待とう?」

「順番を!」

 誰かが言った。

「待て、ですって? そんなこと、無理よ! もう!」

 また誰かが言ったが、それがまるで合図のようだった。

 バンッ!(ムクゲちゃん)

 ボンッ!(マクラちゃん)

 ビバン(桃山さん)

 パシッ(中村さん)

 ズバン(大河内さん)

 ズゾゾゾゾッ(近衛さん)

 実に多種多様な音色を響かせながら生徒たちが次々と翼を飛び出させていた。

「アーハハハハハ!」

 誰かが大声で笑った。

(ねえ、どうしてみんな翼を出してるの? なに大笑いしてるの、大河内さん?)

 アカリの見ている前でみなの翼はどんどん巨大化し、ジャケッツがそれに耐え切れなくなっていた。

 ビリビリッと自然に服が破れるもの、バリバリと自分の手でわざと服を破くもの。人それぞれだったがどの背中もむき出しになっていた。

(特にきみ! 近衛さん! なんだよ、そのズゾゾゾゾっていうのはさ!)

 夏用ジャケッツの上半身の布はすでに事実上失われていた。

 鋭い鋭角的なコウモリのような翼でズタズタに引きちぎられた布片は、わき腹や腰のベルトあたりからだらしなく下へ垂れ下がり、中にはおへそ丸出しの生徒するいる。

 ただそれでも乙女たちの胸がかろうじて露

あらわ

になっていないのは、すべてジャケッツの首の部分から垂れるインバネスコートのような肩かけのおかげだった。この部分はふわりと上からかかっているだけなので爆発した翼の影響を受けずにすんだのだ。

(みんな制服がぼろぼろになっちゃったのわかってる? なんの用意もなくそんな大きいの出すからだよ?)

 しかしそれも体格差があり、胸の大きな生徒は下半分が肩かけから出たり入ったりしている。

 アカリは目のやり場に苦悩したが、それを気にしている生徒はいないようだった。基本的にここは女の園なのだ。

 女の園アルカディア学園一年紅組教室。

 ここには人間の男子生徒などひとりもいない。

 では、何を恥らうことがあろうか?

「くふう。ふふふふ」

 やがて自分で大きさを確かめるためか、何人かが翼を開きだした。

 そのほとんど全員が鏡以外で自分の翼を見ることなど生まれて初めての体験だった。夢中になるのも当然で、すぐに飛び出そうと身構える生徒もひとりやふたりではなかった。

「ちょっと、そんなことしたら翼がひしめき合って教室内で身動きがとれないでしょ!」

 思わず大声で注意したアカリを、みんなが思い出したように見つめた。

「あ、そうだ、血だった……」

「うん、あそこだね」

「アヤメちゃん、ずるい」

「うん、アヤメちゃんたらひとりでなめてる」

「次はわたしよ?」

 んにょきにょきにょきにょきにょきーっ!(いっせいに牙のはえそろう音)

 翼の次に変わるのはもちろん顔だった。アカリはすでに覚悟していた。

 ゴクリとつばを飲みながらも、アカリは教師としての威厳を保とうとする。

「わかったわかった、今日は先生のマケ。みんなが演技学習に熱心なのはよくわかった。だから鏡面仕上げのその赤い眼をきちんと黒目と白目にセパレート調整したうえ、体を元に戻しなさい。ほれそこ、神宮司さん、よだれがスカートまで垂れている。早く拭い……ぐっ!」

 アヤメがアカリのあごを押しあげていた。アカリの顔が真上までのけぞる。

「だから! わたくしを見て!」 

(すごい力だ。く、くるしいよ)

 アカリはなんとか声を出して眼下のアヤメに伝えようとする。

「ア、アヤメちゃん、もちろん見てるよ。オーケーです。じゅ、授業はそこまで。だから、

この手を、はなして、うっ」

「はあぁ?、ジュギョーっていったいなんですの?」

 アヤメの声の調子が狂っていた。

 いつもとは違う甘ったるすぎる音色でそう言うと、アヤメはアカリを下におろした。

 そして長い爪の両手のひらでアカリのほおを柔らか包むと、マタタビをかがされたネコのような目つきでアヤメは語りかけるのであった。

「いけませんわ。先生がそんなに誘うなんて。アカリ……さん、あはーん☆」

 目の前で開かれていく空間に目が吸い寄せられながらもアカリは説得を続ける。

「そ、そんなに大きく口を開いたら処置した虫歯の本数まで数えることができちゃうでしょ。いけないよ、アヤメちゃん。いくら演技でもレディの気品は保とうね?」

 シャキーンときれいに左右の牙が飛び出すのがアカリの目に入る。

「だから! そ、そっから先はダメーッ。ボクたちにはまだ早いーっ! ま、まだいけませんったら!」

 カプッ!

「ぎえーッ!」

 目の前が白くなりながらアカリは思う。

(か、かまれたあ。もろ頸動脈! ああ、吸い取られる……)

「ちょっとやめなさいよ、アヤメ!」

(あ、体が離れた! この声はムクゲちゃん? あ、ありがとうムクゲちゃん。助けてくれて)

 そこにはちょうど椅子があったのだろうか、アカリはどさりと座りこみ肩で息をする。

 しかし自分の首に手をあてる勇気は出なかった。

「あーあ、もう。やっぱこうなんじゃないかってオレ昨日さあ、マクラに言ったよね?」

「うん、予想あたったねムクゲちゃん。アヤメちゃんもみんなもしょうがないなあ」

「とかいっちゃってマクラちゃん、牙が伸びてる伸びてる」

「ムクゲちゃんこそその目はなーに? 真っ赤をとおりこして金色じゃないの。コウモリ羽根もワサワサさせちゃって」

「だって勝手に羽根が出ちゃってさあ。オレもう限界っぽいかも」

「じゃあ、いってみる?」

「ヒヒヒ」

 頭がモウロウとしてきてアカリは耳に入る言葉を理解するまで少し時間がかかった。

「ねぇちょっと、マクラちゃんとなに話してるの? 助けてくれたんじゃないの、ムクゲちゃん?」

 だが返事はなかった。

 それどころではない論戦がクラスで勃発していたのだ。

「そこのふたり勝手に決めないで! わたしが先着よ(大河内さん)」

「そうよ、順番よ。午後にすぐピアノのレッスンあるんでわたし時間ないんだから(近衛さん)」

「出席番号順よね、中村さん?(桃山さん)」

「なに言ってんの、こういうことはクラス委員からじゃない。さ、どいて(中村さん)」

「ちくしょう。どうしてきょうもわたしの翼は出てこないんだよ。もういいよ、絶対きょうはアカリの首にくらいついてやるんだから!(冴子さん)」

 アカリは頭を激しくふった。

「みんな、なにあさましい討論してんだよ! くっそー、吸血鬼がより高次の霊的存在だなんて言ったのはどこのどいつだ。それになんだっていつの間に冴子さんまで来てんのさ!」

 カプリッ。

 アカリの頭に閃光が突き刺さった。

「ぐ? ぐああ……」

「あ、ずるいムクゲちゃん。まだディスカッション中でしょう。いいよ、そんならわたしも」

 カプン。

 また閃光だ。

(い、いかん! みんな本気だ。ぬぬっ、四方八方から手足をおさえつけおって。なんとかしなくては!)

 アカリの頭にあの儀式の夜の絶体絶命だった場面がよみがえる。

 あのとき助かったのは……

「そうだ! ア、アダム! 聞こえるか!」

 アダムには聞こえていた。

 かつ、いじけていた。

「んもーっ、みんなずるいわ。ワタシここまでヘンシンできないもん! アカリくんだってみんなにはこんなエッちいことさせてあげてるのに、ワタシのことはきちんとした名前すら呼んでくれないし。ワタシもう知らないから」

 教室最後尾のほうから自分の金髪をもてあそぶ性転換ロボットの気配がしてくる。

 アカリは祈るように言った。

「ア、アザミちゃん。アザミさま! これからはちゃんとそう呼ぶから、頼む、命令だよ。早くみんなの手をどけ……」

 カプカプカプカプカプカプカプカプカプカプカプカプカプ(クラス全員)

「ぬおおおおーッッッ!(アカリ)」

 遠のく意識の中でアカリは思った。

(ど、どうなるんだボク? あやうしボク!)

 先生を囲む生徒たちの青春を謳歌する声が明るく教室に響く。

「アカリ先生、最高よ! いっただっきまあーす☆」


                (第一部 おわり)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ